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先程まで充満していたニコラの力が、アスラの気配に押されている。
今ならば、びっしりと張り付いている瓦礫を跳ね返せるだろう。
柚は身を乗り出すようにして、水の膜に両手を触れる。
意識を集中するように瞼を閉ざすと、柚の力が吸い込まれるように流れていく。
瓦礫に押されて収縮していた水が、次第に瓦礫を押し返し始めた。
その隙間から外を覗いた焔が、眉を顰める。
「なんだこりゃ……」
目がおかしくなったのかと思う程に、先程までとは違う光景が広がっていた。
壁や天井に限らず、石畳が消え去り、鉄筋が剥き出しになっている。
随分部屋の見通しが良くなり、消えた地面の下に広がっていた地下室から、今も壁や床が吸い上げられていた。
地下室はまるで深い穴のようにぽっかりと穴を空け、真っ暗な闇に覆われて底すら見えず、不気味さがこみ上げてくる。
時折吹き上げてくる風は、見ているだけで寒々しく感じた。
柚が、不安そうに小さく呟きを漏らす。
「……暴走って、危険なんだよな?」
「あ?ああ。自分の限界を無視して力を使い続けるわけだから、力が尽きた時点で……」
「死ぬ」と言う代わりに、焔は眉間にしわを刻んだ。
「ニコラの攻撃が止まってるし、とりあえず外に出よう」
「ああ」
柚が結界を解いて外に出るが、もう新たな攻撃はこない。
心許ない地面に足を付くと、まるで高層ビルの先端に立っているような気分になる。
ニコラは足元に残った石畳の上に蹲り、ファルコの頭を抱きこんだまますすり泣いていた。
そんなニコラを包み込むように、地下から吸い上げている瓦礫が立ちこめ、まるで無重力の中にあるかのように周囲を漂っている。
柚は背を向けて立っているアスラに駆け寄ると、声を掛けた。
「アスラ」
「なんだ、出てきたのか?」
アスラが肩越しに振り返り、一瞥を投げると再び前を向く。
アスラの掌の上には、黒く渦巻く穴のようなものが浮かび、瓦礫を吸い寄せている。
その穴の中に瓦礫が次々と呑み込まれていくと、その姿は完全に闇に呑まれてしまう。
それはまるで空間が捻れて亀裂が走ったかのように、不思議な光景に見えた。
柚はアスラの手元を覗き、困惑した面持ちでアスラを見上げる。
「凄い……そういえばフョードルと手合わせしたときもやってたけど、どういう仕組み?」
「ブラックホールと同じ原理だ」
「……そもそもブラックホールの原理を知らないのですが」
遠慮がちに告げた柚が、「焔知ってる?」と訊ねると、焔が無言で目を逸らす。
アスラが無知な二人に小さくため息を漏らすと、二人の顔が引き攣る。
「重力崩壊をさせると発生する強い重力場だ。この空間の中に入ってしまえば、物質も光も、脱出は不可能になる」
アスラは暫しそこで言葉を止め、柚と焔に視線を向けた。
「奴が自ら力の暴走を止められない限り、奴はそのうち力尽きる」
「それは……死ぬって、ことだよな?」
「……そういうことになる」
緊張した声が訊ねる柚に、アスラは瞼を閉ざし、ゆっくりと起こした瞳にニコラを映して頷き返す。
柚はぎゅっと、手を握り締めた。
「お前に暴走を止められるか?」
「え?」
「ハーデスの時のように精神的な暴走ではない。あの者自身が力の主導権を手放したことによる力の暴走だ。いくらあの男を気絶させても、あの男も持つ力が尽きるまで暴走は続くことになる」
目を瞬かせながら、柚はアスラの顔を見上げる。
金糸の髪が風に揺れていた。
まるで自分の言っている言葉に戸惑うように、瞳には少しだけ迷いがある。
「や、やる!出来るかわからないけど……ううん」
柚は慌てて首を横に振った。
誰かがなんとかしなければ、ニコラは力尽きて死んでしまうのだから……。
「絶対になんとかする!やらせて欲しい!」
アスラは真剣な柚の顔を見下ろす。
ため息と共に、アスラは静かに頷いた。
「許可する……俺は、一切手を出さないからな」
「うん、ありがとう。それでいいよ、アスラ。それと明議員は双頭と繋がってて、多分もう国外に逃亡してる可能性大です!」
「……それを先に言え」
腕を組むアスラが、眉間にしわを刻んだ。
誤魔化すように笑っている柚の前へと、焔が足を踏み出して肩越しに振り返った。
「で、どうするんだ?」
当然のように、焔は前を見据えて訊ねる。
柚は焔の顔を見やり、苦笑を浮かべた。
「とりあえずニコラと話をするしかないと思う」
「説得出来るのか?」
「やるよ」
気合を入れて、柚が胸を張る。
いつもの柚が戻ってきた……そう思うと、耐え難い安心感と心の余裕がある。
焔は無意識に笑みを浮かべていた。
「まあ、今回俺の力じゃあんまり役にたたねぇだろうーけど、援護する」
「お願いします」
柚は頷くと、焔と軽く拳を交え、剥き出しになってしまった地面を蹴る。
心許ない石畳を蹴ると、鉄筋の上を駆け出す。
硬い軍靴の底が鉄筋を蹴りつける音が、瓦礫のぶつかる音に混じって響き渡る。
暴れ狂う瓦礫に向かって飛び込んでいく柚と焔の背中に、アスラは思わず言葉を掛け、手を伸ばしそうになった。
だが結局何も言わず、言えず、出し掛けた手もただ中途半端に漂う。
向かってくる柚と焔に気付いたニコラが、悲鳴をあげて背中を向けた。
そのまま這うように逃げ出そうとするニコラを護るように、ニコラの周囲を漂っていた瓦礫が束になり、柚と焔に牙を剥く。
まるで虫の集団のようだった。
尚も周囲の瓦礫を寄せ集め続けながら、渦を巻いて柚と焔に突進してくる。
「うわっ!」
「柚、足場!」
二人は瓦礫に呑み込まれそうになりながら、左右に飛び退いてかわした。
空中に付いた足元で小さな波紋が広がる。
二人の間を勢い良く通り過ぎた瓦礫の渦は、大蛇のように体を曲げて、柚の体に巻き付こうとした。
柚は水で作った足場を駆け上がり、天井の消えた上空で大きく飛んだ。
ニコラが上空から迫ってくる柚に気付き、ファルコの首を奪われるとでも思っているのか、怯えたように首を抱きしめて体を竦めた。
ニコラの周囲を渦巻いていた瓦礫が一斉に、上空から降ってくる柚に向けて放たれる。
「柚!」
焔は飛んできた瓦礫を鞘と刀で切り裂き、撃ち落しながら、上空を見上げて叫ぶ。
叫ぶ焔の目の前で、柚が瓦礫に呑み込まれた。
それから数秒も経たないうちに密集する瓦礫の内側から柚の力が噴出し始める。
カタカタと瓦礫同士がぶつかり合い、不気味な音を立て始めると同時、内側から弾けるように瓦礫が砕けて飛び散った。
瓦礫の中から、腕で顔を覆った柚が勢い良く姿を現す。
「う゛っ!がっ……げほっ、が……ぅ、あ、あぁ……」
ニコラの丸まった背中がびくりと跳ね上がり、口元を押さえて泣きながら咳き込んだ。
土の上に崩れ落ちたニコラが、酸素が行き渡らないかのように苦しそうな呼吸を繰り返し、瞳を揺らす。
柚は、ニコラから少し離れた鉄骨を足場に飛び降りた。
足場から身を乗り出し、柚がニコラに向けて叫ぶ。
「ニコラ!落ち着いて、力を抑えて!このままじゃお前は死んじゃうんだぞ!」
「死ぬ?願ったりだよ!僕はグランパのところにいく!だからもう放っておいてくれ!」
一瞬動きを止めた瓦礫達が、先程以上に動きを早めて柚と焔に襲い掛かる。
水の壁に瓦礫が叩き付けられると、その力に押されて柚の体が吹き飛ばされた。
そちらに気をとられて戻ろうとした焔も、自分の身を護ることで精一杯だ。
弾かれた柚がアスラの元まで転がると、アスラの力が柚の体を受け止めて、そっと地面に下ろした。
「すまん、手を出した」
「う、ううん。有難う」
「本人が望んでいるならば、それで構わないのではないのか?お前のやり方は非効率的だ。危なっかしくて見ていられない」
「まだ!もう一度やらせて欲しい!」
柚は必死な面持ちでアスラを見上げる。
すると、瓦礫の動きがぴたりと止まり、その代わりにニコラの笑い声が響き始めた。
「ふふ、あはははは!」
「……」
ニコラの笑い声は次第に大声となり、天を仰いで笑う。
柚も焔も、ついにニコラの気がふれたのかと思った。
「そういえばあんたの女だったね?僕も味見させてもらったけど、たいしていい女でもなかったよ」
「……」
アスラが眉間にしわを刻み、笑うニコラの顔を見やる。
焔が、ニコラの言葉の真意を確かめるように柚へと振り返った。
柚は肩を怒らせ、大声で反論を返す。
「嘘だ!ありえない!」
「嘘じゃないさ、君を薬で寝せた間に犯したんだよ!」
息を呑み、柚は目を見開いた。
ニコラの部屋に連れて行かれた際、確かに薬で眠らされ、その間のことは何も覚えていない。
だが、柚は拳を握り締めた。
「……それでも、嘘だ。ニコラにはそんなこと出来ない」
「嘘じゃないって言ってるだろ!君達もなんとか言えよ!」
矛先をアスラと焔に向け、ニコラが叫ぶ。
「表情ひとつ変えもしないで――それとも、政府に洗脳された君達は、そんなことも気にならないほどなのか!」
すると、焔がニコラの叫びを鼻で笑い飛ばす。
ニコラがいぶかしむように眉を顰めて焔の顔を見た。
「柚が違うって言ってんだから、俺は柚を信じるね」
「大体」と、焔は刀の切っ先をニコラへと向ける。
「お前の言う通りだとしても、他の男に手出されたくらいで惚れた奴を嫌うような肝の狭い奴と一緒にすんな。あー、違う!勘違いすんなよ!別に惚れてるってのはお前のことじゃないからな!」
慌てたように焔が横目でちらりと柚に振り返り、早口に捲くし立てた。
胸の奥とともに目頭が熱くなり、柚はそでで目を擦る。
焔の言葉が嬉しかった。
泣きたいような、笑ってしまいたいような、複雑な気持ちが込み上げて交じり合う。
結局、柚の顔には泣き出しそうな笑みが浮かび、焔の照れ隠しの言葉を遮った。
すると、アスラが小さくため息を漏らす。
「耳が痛いな……」
柚が、ひどく不安そうにアスラへと振り返った。
アスラは重く瞼を閉ざし、再びその瞳に柚を映し出す。
柚の表情は不安そうであり、まるで自分の言葉を聞くことに対して怯えているかのように見えた。
その不安な眼差しは、何に対する不安だろうか?
自身が犯されたかもしれないという不安か……。
それとも、アスラに信じてもらえないかもしれないという不安か……。
焔のように、迷いなく柚の言葉が正しいとは言えない自分。
今も、柚とニコラを天秤に掛けて真偽を図っている自分がいる。
誰の言葉を信じるか――…。
本当に耳が痛い。
アスラは自嘲を呑み込んだ。
薄い唇が柚の名を囁くように呼ぶ。
その声音に、不安そうな瞳が微かに見開かれたように思えた。
「……俺はお前の言葉を信じる」
「アスラ……」
「柚を信じる」
柚の不安な面持ちに、薄く光が差し込むかのようであった。
柚の顔には綻ぶように柔らかな微笑みが浮かび上がる。
それはまるで暖かな太陽の微笑みへと生まれ変わり、アスラへと微笑み掛けた。
自分のたった一言が、彼女を泣かせ、彼女を喜ばせ、彼女を微笑ませる。
それは何度味わっても慣れない驚きであり、喜びだった。
そして彼女の微笑みは、自分の心までをも温かくする。
柚の微笑みに応えるように、アスラは儚く穏やかな微笑を漏らす。
見兼ねた焔は咳払いをすると、ニコラを睨み付けた。
「とにかく気にいらねぇな。自分ばっかりが不幸みたいな面しやがって。他人まで巻き込もうとしてんじゃねぇよ」
「ニコラ。もう止めよう?」
足を踏み出し、柚がニコラに訴え掛ける。
ニコラがぎりりと奥歯を噛み締めた。
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