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アスラが焔の名を呼ぶよりも先に、手を翳す。

物音に驚いて振り返った焔の目前に、残された片手で、今まさにナイフを振り下ろそうとしているファルコの巨体が迫った。
驚きに動けない焔の体と、襲い掛かるファルコの体をアスラの力が磁石のように弾き飛ばす。

地面に倒れこんだ焔の顔をナイフが抉った。
それから僅かに遅れ、アスラの力に捻じ曲げられたナイフとファルコが転がり落ちる。

「焔!」
「グランパ!」

柚が焔の名を叫び、ニコラが起き上がると同時に地面を蹴り、手を伸ばした。

動きを封じるよう、アスラが一帯に重力による圧力を掛ける。
ニコラは這うようにしてファルコに駆け寄りながら、体の奥底から力を振り絞った。

唸るように周囲が微かに揺れ始め、壁や天井に亀裂が走る。
衝突するふたつの力は、ビリビリとした重圧のように肌に感じた。

アスラは横目で柚を見やり、淡々とした口調で問い掛ける。

「……柚、奴の力は?」
「分からない!私達の前では一度も使ってない」

地響きの音に負けないように、柚はアスラの問いに大声で返した。

上から押さえつけようとするアスラに力に対し、下から押し上げようとするニコラの力。
アスラが小さく眉を揺らすと、アスラの手が下から叩き上げられたように弾かれた。

アスラの力が弱まり、アスラが驚いたように目を見開く。

一瞬の隙を突き、ニコラは転げるようにファルコの元に駆け寄った。
ニコラは重力で地面に押さえ付けられていたファルコを抱き起こすと、ぼろぼろと涙を流し始める。

「グランパ!もう止めよう!ね?お願いだから」
「うるさい!ここまで来て、終わって堪るか!私は、私は――…」

ファルコの腕が、ニコラの腕を強く掴んだ。
ニコラの腕に爪が突き刺さり、血走った瞳が、ない腕が、足掻くように彷徨う。

次の瞬間、鈍色の閃光がニコラの目前を走った。

ふわりと……冷たい風がニコラのチョコレート色の髪を揺らす。
青褪めた顔に生暖かく赤いものが付着すると、頬を撫でるように伝い落ちていく。

「ぇ……」

ニコラが抱いていたファルコの体が、腕の中で糸が切れたように崩れ落ちる。
その体に、首から上が消え失せていた。

それはあまりにも突然で、ニコラは目を丸くしたまま硬直する。

まるで導かれるように、首はニコラの横に転がり、その動きを止めた。

「うわぁぁあああ!」

ニコラは後ろに倒れ込み、ファルコの体から逃げるように座ったまま後ずさる。

その前で、ハーデスが何事もなかったかのように大鎌を肩に掛けた。

「ごめんね、柚。殺しちゃったけど、これって正当防衛だよね?」

ハーデスは苦笑を浮かべて首を傾げながら告げる。

「ぁ……」

言葉を返すことが出来ずに、柚が小さく声にならない声を漏らした。
焔すら、自分の怪我を忘れて愕然とハーデスを見上げている。

悲鳴を上げていたニコラは、体を震わせながらファルコの首に視線を落とした。
恐る恐る、確かめるように手を伸ばし、ニコラはその首を拾い上げる。

「グ、グランパ……?グランパ?」

体から切り離された首は唇を微かに震わせ、程なくして、目を開いたままぴくりとも動かなくなった。

ニコラの震えが一層激しいものとなる。
滝のような涙とともに、悲しい叫び声が鼓膜を震撼させた。

焔が顔を背ける。
イカロスのように心を読む力がなくても、柚は無意識に体を竦ませた。

「嘘!嫌だ、死んじゃ嫌だ!グランパ!起きてよ!ねえ、起きて!」

ニコラは首を抱きかかえたまま体に近寄ると、狂ったようにその体を揺さぶる。
それでも反応がないと、ニコラは自身の頭を抱え、頭を振った。

「なんでこんな……嫌だ、嫌だァ!こんなの嫌だァ――!」

ファルコを助けるよう、必死に頼み込んできたニコラの顔と声が脳裏を過ぎる。
肌にビリビリと感じる彼の叫びを通し、彼の感情が流れ込んでくるかのようであった。

ただ単純に使徒として、大切な者を失う気持ちの恐ろしさは痛いほどに分かってしまう。
想像しただけでも恐ろしい、嘆く彼を前にすると、尚、体が竦む。

だが自分が、どんな顔をして、一体何を言える?

掛けられる言葉はない。
何を言っても、彼の悲しみは癒えない。

ただそれだけが、はっきりと分かっていた。

それでも……
柚がニコラに足を踏み出そうとすると、アスラの腕がそれを遮った。

「柚、焔、後ろに下がれ」
「え?」
「早くしろ」

アスラが柚を自分の後ろへと追いやる。
焔が渋々、アスラの後ろへと回った。

「ハーデス、生存者を会場の地点にまで運べ。合流後、撤退命令を伝えろ」
「了解」

ハーデスはアスラが殺さなかった四人の襟を掴むと、廊下に出て姿を消す。

柚は焔の怪我を見ながら、不安そうにアスラの顔を見上げる。

「アスラ?」
「暴走する可能性が強い。お前達は自力で脱出出来るな?」
「あんたは?」

焔がいぶかしむようにアスラを見上げた。

天井や壁、床の石畳が音を立てて砕け始める。
小石のような瓦礫が、地面に伏せるように泣き崩れるニコラの周囲を漂い始めた。

「……ニコラ」

柚が小さく、その名を呟く。
その瞬間、殺意に満ちた鋭い眼光が柚に向けられた。

「グランパを返せ!!」
「!?」

壁が剥がれ落ちると、津波のように三人に襲い掛かる。

「明議員も発見出来ていない。奴を止める、こちらは一人で十分だ」

「自分達も」と言い出す前に、アスラは間髪を入れずに告げた。
柚がはっとした面持ちで口を開こうとすると、アスラは柚と焔を廊下に突き飛ばす。

入り口に立ち塞がり、アスラが右手を翳すと、重力の壁に押された瓦礫の波が押し返される。
すると、アスラの両脇の壁が崩れ、真横からアスラに襲い掛かった。

「!」
「アスラ!」

アスラの姿が瓦礫に呑み込まれ、焔が目を見開き、柚が叫んだ瞬間、柚と焔の背後の壁が崩れて二人に襲い掛かる。

「!」

焔が咄嗟に柚に覆いかぶさろうとすると、柚が焔の腕を掴み、水で周囲を囲む。
水の膜に石のつぶてが押し寄せると、大きめに張った水の結界が中の二人を押し潰しように収縮する。

「うっ……凄い、力」
「持つか?」

狭い空間にもつれ合いながら、焔が水の結界に進入してこようと押し寄せる瓦礫を見て訊ねた。
水の膜の先には、びっしりと瓦礫がひしめき、今すぐにでも押し潰されそうな恐怖がある。

「分からない……」
「そういやお前……撃たれた怪我、はもう治ってるか」

焔は柚の血に汚れたスカートを見て、呟きを漏らしながら顔を背けた。

「うん、まあ一応。フョードルも無事だ。焔とフランは?大丈夫だったのか?」

まだ貧血気味で、体力が回復していないことを、柚は伏せておく。

焔は無言で頷き返し、瓦礫しか見えない外に顔を向けた。

目の前で柚が撃たれ、連れ去られ、何も出来なかったことが悔やまれて仕方がなかった。
合わせる顔がないといえば、彼女は怒るだろう。

ふと顔を向けると、柚が焦ったように眉間に皺を刻んでいる。

「限界か?」
「そうじゃなくて……明議員のことをアスラに伝えなきゃならないんだ」
「?」
「私が眠ってると思って話していた会話を聞いたんだ。明議員はファルコと繋がっていて……だから、えっと、此処から先は推測になるんだが、そもそも明議員が私を指名して呼び出して、双頭が明議員ごと女の使徒を誘拐することが双頭計画だったんじゃないかと」
「はァ?」

焔が声を荒げるようにして、柚の顔を見た。
柚は少しだけ自信のない面持ちで焔の顔を見上げる。

「明議員が、無事に着いたら残りの金額を払うって言ってたのが引っ掛かるんだけど……ファルコに弱みを握られてたのかな?」
「で、そいつは何処に行ったんだ?」
「海外に逃げるって言ってた。そう言ってたのはオークションが始まる前だから、もうここにはいない可能性が高い。そのことをアスラに伝えなきゃ」
「くそっ!……あいつの方はどうなってんだ」

悪態を漏らし、焔は外に顔を向けた。

「やられるわきゃ、ねーだろーけど」と、焔は水の壁にペタペタと触れながら呟く。
アスラの気配を探そうとするが、柚の気配の外にはニコラの力しか感じない。

「あの使徒の力が充満しててわかんねぇな」
「ニコラ……」
「は?」
「ニコラって言うんだ。ニコラ・ファルコ」

柚は、向かい合う焔から逃れるように視線を落とした。

「気が弱いくせに、ファルコの為にずっと無理してマフィアやってたような奴なんだ」
「ふうん……で?」

あの嘆きようを見ても、自分が迷いそうになった答えを、焔はあっさりと導き出す。
柚は苦笑を浮かべ、解けて邪魔な髪を耳に掛けた。

「有難う、焔らしいな」
「あ?」
「それでいいんだと思う」
「何が?」

一人で納得する柚に、焔が首を傾げて眉間に皺を刻んだ。

すると、柚は何かに気付いたように外に顔を向ける。

「よし!気を取り直して、やるとするか」

気合を入れ直すようにそで捲くりをすると、柚はいつものように強気な瞳を焔に向けた。





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