41


「柚殿の言うとおりでした……」
「ん?」
「必ず、来てくださると」

ライアンズとユリアが無感情な顔を見合わせると、ライアンズは苦笑を浮かべ、ユリアは肩をすくめる。

「当たり前だろ、バーカ。帰ったらお前等始末書だからな。覚悟しとけよ」





まるで母を求めて彷徨う子猫のように、ハーデスの声が木霊する。
真っ暗な廊下の中で、ハーデスは見えない相手に向かって何度も呼び掛けた。

「柚、どこ?柚ー!」

ひたりひたりと、自分の足音が響く。

真っ暗な闇はハーデスを孤独に感じさせる。
返らない返事は、ハーデスを悲しい気持ちにさせた。

「どうして返事してくれないの?返事できないようにされてるの?」

ハーデスの声が聞こえてくるほうに向け、闇に乗じ、壁の陰に隠れる男達が銃口を向ける。

「柚……ゆず……」
「今だ、撃て!」

男達が一斉に引き金を引いた瞬間、いたはずの人物は跡形もなくその存在を消していた。
目を疑うように、男達は懐中電灯で周囲を照らしあう。

「ど、何処にいった?さっきまでここに……」
「ちくしょう、化けも――ひっ!?」

顔を見合わせた男が喉を震わせた。
その手から懐中電灯が転がり落ちる。

「いたのか、何処だ!」
「……後ろ」

見知らぬ声と共に、首筋に冷たい刃が触れた。

巨大な鎌の刃が首を掬い上げるように抱え込んでいる。
もう片方の手が、男の体をしっかりと捕らえていた。

転がり落ちた懐中電灯の光が刃を反射させる。

飛び上がることすら出来ずに、男は呼吸も忘れた。

「ねえ、柚……知らない?」
「ボ、ボスが……」
「ボスで誰?ボスってあいつ?あんな顔じゃなかったと思うけど……」

ハーデスは腰を抜かしているもう一人の男に一瞥を投げ、低い声がブツブツと呟きを漏らす。

「ボスは、奥に、に、逃げ――」
「ちゃんと喋ってくれないと分からない。それとも時間を稼いでる?だったら許せない……早く柚を助けなきゃ――お前」

白い眼球の中の、吸い込まれそうに不気味な紫の眼光がぎろりと男を映し出す。
男は助けを請おうと必死に声を出そうとするが、震えるあまりに声にならない。

「邪魔するなら死ね」
「ひィ!?」

首から鮮血が噴出し、壁に血を刻む。
男の体はハーデスの手の中から静かに開放され、ずるずると倒れこんでゆく。

もう一人の男は完全に腰を抜かし、一歩も動けずにいた。

体に動けと命令を下す。
その隙にも、ハーデスの目は男に向けられた。

「お前も……」

巨大な鎌が空に向かって振り上げられる。

男は腹の底から悲鳴をあげ、閃光のように振り下ろされる切っ先を瞳に映した。





「うっ……」

自分の炎を灯り代わりに歩いていた焔は、辺り一面を染める鮮血と異臭に思わず足を止めた。

(なんだこりゃ……柚がやった、わけではないよな。他の国の連中なわけはないし、てーと……ハーデスか)

恐る恐る、死体に顔を近付ける。
首の皮一枚で繋がっているかのような状態の亡骸に、焔は思わず顔を背けた。

(こ、怖ぇ……)

ここに転がっている死体が急に立ち上がり、追いかけてくるのではないだろうかなどと、想像してしまう。
さながら、ゾンビの如く……。

自分の非現実的な考えを否定するように、焔は首を横に振った。

(ないない、有り得ねぇ)

と思いつつも、なかなか足が前に出ない。
どう通れば、血を踏まずに通れるか……、頭はそればかりだ。

すると、後ろからの物音に焔は飛び上がる。
遺体を飛び越えると、焔は目にも留まらぬ速さで逃げ出す。

中は迷路のように入り組んでいた。

道しるべのように、ハーデスがやったと思われる遺体が転がっている。
焔は迂回して通りたくなる道を、しぶしぶ通過した。

暫く歩き回っていると、銃声が遠くに聞こえ始める。

「!」

今の今まで、生きた人間に会っていない。

(銃声ってことは、誰かと戦闘になってるってことか。アスラ……は、まだ後ろだ。ハーデスだろうな)

走り回っているうちに追い付いたのだろう。

(あいつが殺しちまう前に止めて、そいつに道案内させる。よし)

焔は走る速度を上げた。

銃声が途切れ、断末魔のような悲鳴に変わる。
別の男の助けを請うような悲鳴が轟く。

焔はハーデスの名を叫びながら、「止めろ」と叫んだ。

刃が振り下ろされようとした瞬間、焔は床を蹴った。
血に濡れた床が、踏み込みを甘くさせる。

「ぐっ!」
「!」

大鎌を刀の鞘が受け止めた。
飛び込んだ体は、腕の力のみでその勢いを止めきれず、刀ごと鞘が弾き飛ばされる。

躊躇いのない刃は割り込んだ焔の首筋をめがけ、滑らかに宙を滑った。

軍服の襟よりやや上、研ぎ澄まされたように首の皮を刃が抉る。
焔は咄嗟に鎌の流れに合わせて地面に滑り込むと、右手で体に反動をつけ、地面を転がった。

手を伸ばし、転がった刀を拾い上げてハーデスを睨み上げる。

鎌を横薙ぎにした姿勢のまま焔を見下ろしたハーデスは、不思議そうに首を横に傾けた。
その瞳にいつもの無垢な印象は影も形もない。

「なんで……邪魔をする」
「なんでって……」
「焔はこいつらの仲間?」
「は?」
「じゃあ、死ねよ」

焔の答えなど待ちもせずに、ハーデスが鎌を振り下ろす。

引き裂かれた風が唸り、焔は横に飛んだ。
ハーデスの鋭い眼光が焔の動きを捉えると、ハーデスは手元に目も向けずに鎌を持ち替えて横に凪ぐ。

角度を変えた鎌に、後ろに飛び退こうとした焔の背中は壁に当たり跳ね返った。
狭い通路の壁すれすれを鎌が走る。

「っ!」

逃げ場がないと判断した焔は、上体を押し倒しながらハーデスの懐に踏み込んだ。

その瞬間、焔は後悔した。

焔の顔に向け、ハーデスが毒を含んだ息を吐く。
焔は息を止め、片手で口を塞ぐ。

同時に地面を蹴り、血に滑って転びかけながら、焔はハーデスの間合いから逃げ出した。

(また暴走か?前ほど見境なくってわけじゃないみてぇだけど、よりによってこんなときに!)

振り返ると、生き残っていた男が突如咳き込み、血の混じった泡を吹いて倒れ込む。

(冗談じゃねぇーぞ!殺される!くそっ、相手してられるか!)

焔は唇を引き結び、奥に向けて走り出した。





NEXT