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名前を呼ばれ、青年は振り返った。
夜の帳の下、血色の悪い肌をますます悪く見せる長い前髪。
その間から覗く瞳からは生気が感じられず、ハーデスの伏し目がちな瞳が寂しそうな揺れる。
酷い顔だと、ユリア・クリステヴァは心の中で呟きを漏らした。
「柚が戻るのは明日だよ」
「……うん、分かってる」
ぼそぼそと呟くように答えを返し、小さく俯く。
見渡す限り、背の高い木々が一面を被っている。
一本道の先には、何重のゲートと高い塀が境界線を刻んでいた。
敷地内には、研究施設と使徒が住まう居住区が鏡合わせに並び、二棟を繋ぐビルは国旗をはためかせ、高く背を伸ばしている。
そのビルの屋上は、敷地内で一番見晴らしのいい場所だ。
気もそぞろに、ハーデスが再び声を発した。
「分かってる……」
自分に言い聞かせるように繰り返し、ゆっくりと膝を折る。
風がハーデスの髪を揺らした。
膝を抱えるようにしゃがみ込みながら、その視線は唯一の出入り口であるゲートを見詰め続ける。
「健気だね」
ユリアは風に揺れるハニーブラウンの髪を手で押さえ、呆れ混じりの笑みを浮かべた。
眩いばかりの太陽の光が降り注ぐオーストラリア連邦は、絶好の観光日和だ。
柚は大きく口を開けて、柵から身を乗り出した。
自分と同じくらいの大きさで、ぴんと立ち上がった耳に長いしっぽ。
二本足で立ち上がったり寝そべったり、何頭ものカンガルーがくつろぎ、跳ねて歩いている。
そちらに目を奪われ、すっかり立ち止まっている柚に、カロウ・ヴが笑顔で声を掛けた。
「コアラもいるし、だっこも出来るよ」
「し、したい……」
「……柚」
カロウ・ヴの言葉に目を輝かせつつも、立場上ぐっと堪える柚に、アスラが低い声を投げ掛けた。
「コアラと写真撮影も出来るんだ。今なら特別、僕との撮影もセットでーす」
「コアラだけでいいんだけど。っていうか、任務中だし……」
「駄目駄目、僕もセット。はい柚、こっち向いて。はい、チーズ」
カメラのシャッターが押されると同時、アスラに突き飛ばされたガルーダの顔がレンズの前に割り込む。
シャッターの降りる音と共に、カロウ・ヴが憤慨して抗議の声を上げた。
「何すんだよ、折角柚と写真撮ってたのに!ああ!僕の顔だけ写ってない!」
「ごめんごめん、悪かったって!」
泣きだしそうな顔で詰め寄ってくるカロウ・ヴに、ガルーダが慌てた様子で宥め返す。
ガルーダは身を翻し、素知らぬ面持ちで横を通り過ぎるアスラに詰め寄った。
「アスラ!」
「なんだ?」
「なんだじゃないだろ、いきなり突き飛ばして」
「任務中に注意力が足りない証拠だ。あそこですっかり任務を忘れて遊んでいる柚にもそう言って来い」
「……自分で言えばいいだろ」
「……あまりしつこく注意をすると、俺の好感度が下がる気がする」
「俺のだって下がる」
「ガルーダの好感度が下がったところで、たいした支障はないだろう」
通り過ぎていくアスラを恨めしそうに見やるガルーダの隣を、すっと小柄で華奢な眼鏡を掛けた青年が横切る。
アスラが足を止め、ガルーダが横目でその青年の姿を追った。
ゲシュペンストという名の、オーストラリア連邦に所属する使徒だ。
観光の護衛に今日から同行している。
常に薄ら笑いを浮かべているが、愛想がいいとは感じない。
むしろその薄ら笑いは、どちらかというと気に障る部類の笑みだ。
「なんか、あいつ好きになれないな」
「私情を――」
「挟むなって?分かってるよ」
アスラの言葉を遮り、頭の後ろで腕を組んで歩き出すガルーダ。
そんなガルーダに駆け寄り、柚がガルーダに写真を見せた。
「尉官、見て見て。偶然にも尉官とツーショット」
「おっ、本当だ。柚とツーショット」
柚に写真を見せられたガルーダが、アスラに聞こえるような声で繰り返す。
肩越しに振り返り睨み付けてくるアスラに背を向け、ガルーダは舌を出した。
クックはそんなやりとりに穏やかな笑みを漏らしながら、黄へと顔を向ける。
「午後からは、我が国のアース・ピース基地に是非お立ち寄り下さい」
「アース・ピースの基地に?宜しいのですかな?」
「もちろんですとも。これから同盟を結ぶということは、いざという時、共に戦うということです。両国の連携強化の為にも、是非我が国の戦力を見て頂きたいのです」
「なるほど」
クックの言葉に、黄は静かに頷く。
思わず好奇心に呑み込まれ掛けた柚は、眉を顰めるアスラを見上げ、不安になった。
アスラやガルーダに比べれば、柚の戦力などまだまだ足手纏いの域だろう。
希少な女ということもあり、柚は存在自体が足手纏いでもある。
アスラとガルーダは黄のみならず、柚まで守らなければならないのだ。
オーストラリアには十二人の使徒がいる。
いくら二人が強くても、もしもの場合、全員を相手に黄と柚を守り、オーストラリアを脱出することなどほぼ不可能だ。
ついつい旅行気分で浮かれていた自分を反省しながら、柚はやんわりと断る黄の背中をほっとしながら見詰めた。
午前中の観光の後、黄とクックを乗せた車は会談の場として用意された会場へと向かった。
黄とクックの車には護衛として、アスラとマーシャルが同乗している。
柚は、ガルーダやオーストラリアの護衛達と共に別の車両に乗り込んだ。
窓の外を流れて行く風景は新鮮だった。
自国では見掛けない街路樹が並び、気候も異なる。
風景に見とれる柚の視線を奪うように、カロウ・ヴが柚に向けて身を乗り出した。
「ねえ、柚。柚はデーヴァ元帥の子供を産むの?」
「は?」
「違う?じゃあ、このおっかない感じのお兄さん?それとも、春節で一緒に踊った西並 焔?」
カロウ・ヴがガルーダを指差す。
「なっ!」と抗議の声を上げようとする柚の隣で、ガルーダがぴくりと片眉を吊り上げ、「機密」とのみ素っ気なく返した。
「えー、いいじゃんそれくらい」
カロウ・ヴは口を尖らせ、不満を漏らす。
「僕なんて知りたくても柚について知れる事なんて限られてるんだし!でも会えない間ずっと、僕は柚のこと毎日想ってたんだ。柚は僕のこと考えてくれた?」
「え、えーっと……ありがとう。でもカロウ・ヴは前に、想像していた私と違うってがっかりしてたじゃないか」
「がっかりなんてしてない!確かに女の子らしい柚を想像してて、実際の柚は全然違ったけど、僕は柚をもっと好きになったし」
「ほ、ほんと?」
頬をほんのりと朱に染めた柚が、驚いたように身を乗り出してカロウ・ヴの顔を見上げた。
そんな柚とカロウ・ヴを横目に、ガルーダは頬杖を付く。
「なんだ、じゃあ、私の勘違いか」
「何が?」
「ううん、なんでもない。有難う、カロウ・ヴ」
「柚はさっきも有難うって言ってたよ?僕は、何かお礼を言われるような事したかな?」
「うん、好きって言ってくれた」
嬉しそうに微笑む柚を見て、カロウ・ヴが理解出来ないといわんばかりの面持ちで首を傾けた。
「そんなことで柚が喜ぶならもっと言おうか?」
「い、いいよ、もう十分」
慌てて首と手を振る柚に、黙って外を見ていたゲシュペンストが小さく鼻で笑う。
柚はばつが悪そうに、赤くなって顔を俯かせた。
「失礼、気を悪くしないで下さい」
「い、いえ」
「カロウ・ヴの話しには聞いていましたが、驚くほど普通の方なのですね」
ゲシュペンストの言葉に、柚が視線のみでその意味を問い返す。
ガルーダが、ゲシュペンストに横目で視線を投げた。
あまりガルーダの態度が好意的ではないように思える。
ただでさえ、顔にまで及ぶ刺青が近寄り難く見せている所、笑っていないガルーダは、初対面の者からすればいい印象を受けないだろう。
だが、ゲシュペンストは気に掛けた様子もなく、口を開いた。
「悪い意味ではありませんよ。女性でスローンズの使徒ともなれば、さぞ傲慢な女性なのだろうと思っていたもので」
「は、はぁ……」
そう思う人もいるのだと、柚は少し複雑な気分になる。
とてもそうはなれないだろう。
今の自分のステータスを楽しむというよりは、厄介さと不安の方が遥かに大きいのだから。
「まあ、それくらい余裕があればいいんですけどね。皆には迷惑を掛けてばかりですし」
「一応、自覚はあるんだ」
「あ、尉官ひどい!」
「うそうそ」
ガルーダの言葉に口を尖らせる柚に、ガルーダが笑い返す。
すぐに笑みを浮かべる柚に、ガルーダが口角を吊り上げてゲシュペンストを見た。
ゲシュペンストが、再び斜に構えた笑みを漏らす。
その笑みを浮かべたまま、視線はゆっくりと窓の外へと投げられた。
「さて、着いたようですよ」
車が静かに動きを止める。
外から開けられたドアを潜り、外に出た柚はビルを見上げた。
そんな柚の肩にゲシュペンストの手がぶつかる。
「おっと失礼」
「いえ、私もぼーっとしてましたから」
柚がゲシュペンストに詫び返していると、ガルーダが柚の肩を掴んで前へと押す。
「柚、アスラみたいなことを言うつもりはなけど、あんまり不用意な接触は避けて」
「はーい」
本当に理解しているのか怪しい返事を返しながら、アスラの方へと小走りに駆けていく柚を見て、ガルーダが腕を組んで小さな溜め息を漏らした。
ゲシュペンストの言う通り、柚が傲慢でないことはいいことだが、周囲の者からすれば、柚は自身という存在の価値に対する危機感が薄いように思えてならない。
他者の心を読む力を持つイカロスでなければ見透かせないような罠が、いつ何処で張り巡らされているとも知れないのだ。
「では、私はお先に失礼しますよ」
「?」
見送る体勢のゲシュペンストに、ガルーダは眉を顰めた。
「私の任務はここで終了です。この先はラッド元帥とカロウ・ヴが同行しますし、圏内には他の使徒がすでに配置についていますのでご心配なく」
「……ふぅん」
「では、ごゆっくり」
逆光を浴びた眼鏡が、妙に不気味に映る。
やはり最後まで好感を持てない相手だったと心の中で呟き、ガルーダはゲシュペンストに背を向けた。
最後尾にいたガルーダがドアを潜り抜けると、観音開きのドアが閉ざされる。
昼食の後、午後の最終会談が開始された。
同盟の調印式に向け、準備が進められていく。
他国の動向や同盟内容の再確認が繰り返され、柚にとっては長く退屈な時間が過ぎる。
(いい加減、立ってるの疲れた……)
やっと会談が終了すると、書類を纏めながら、クックが黄へと遠慮がちに話を持ち出した。
「実は国内で上がっている声なのですが……」
「なんですかな?」
「彼女の件でして」
遠慮がちにちらりと向けられたクックの視線に、こっそり背伸びをしようとしていた柚の動きが止まる。
先程まで和やかに会話を交わしていた黄のみならず、隣に立つアスラからも警戒した雰囲気が伝わってきた。
「大変申し上げ難いのですが、彼女をお貸し頂けないでしょうか?」
「それは、どういう意味の"貸す"かな?」
「我が国でも、同盟を機に純血の使徒を求める声が強まっておりまして……彼女に子供が出来た際、一人お譲り頂きたいのです」
柚の呼吸が無意識に止まる。
突然、金槌で頭を殴りつけられたかのような言葉の衝撃は、暫し柚の思考を停止させた。
―NEXT―