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その声に、フョードルが唸り声をあげて目を覚ます。
真っ直ぐとファルコとニコラを睨む柚の視線に気付き、フョードルが飛び起きて体を強張らせた。

ファルコの隣に立つニコラが緊張した面持ちで柚へと近付いてくる。

彼がその場から退くと、黒いスーツの男に銃を突き付けられた明議員の姿が目に映った。
柚とフョードルが、はっとした面持ちで息を呑む。

「明議員……」
「き、君達……逆らわないで」

明議員は柚達から目を逸らしながら、か細い声で助けを訴える。

柚は卑怯だと責めるようにニコラを睨み上げた。
怯んだようにニコラの歩調が淀む。

一瞬、後ろのファルコを気に掛けるようにニコラの視線が柚から逸らされたが、ニコラは唇を引き結び、再び足を踏み出した。

「手を」
「断る」

今にも上擦りそうなニコラの声を鼻で笑い飛ばしたくなる。
冷ややかに……そして、静かな口調の中にはっきりと拒絶の意を込めて言い放った柚は、心底自分が意地悪だと感じた。

「手を!」

先程よりも強い口調でニコラが告げる。

彼の額にはうっすりと汗が滲んでいた。
懇願するような視線が妥協を誘う。

柚はため息を漏らし、緩慢に手を差し出した。

「柚殿!」

フョードルが咎めるように叫ぶ。
柚はそんなフョードルと、大人しいセシルに視線を向けた。

フョードルは相変わらず不安そうだが、セシルはもうどうにでもなれと思っているのか、怯える様子もみせない。

今にも飛び掛りそうなフョードルに一瞥を投げ、ニコラは鋭く言い放った。

その目には、もはや最初に女性を人質にとったときのような躊躇いはない。
追い詰められた精神状態のニコラは、いつ明を傷付けてもおかしくない雰囲気を放つ。

「君達が少しでもおかしな動きを見せたら、人質の明議員を殺す」
「……」

ニコラに代わり注射器を手にした男が柚の腕を取ると、注射の針が柚の皮膚に刺さる。

先程と同じ薬だろうか。
だとすれば、多分睡眠導入剤の類だろう。

薬で眠っている間、何もされなかったとは限らない。
何もされないとも限らない。

柚は、大人しく同様に薬剤の投与を受け入れているフョードルとセシルを一瞥した。

「グランパ……やっぱり危険過ぎるよ。無理だよ、僕達じゃ扱いきれない」

ニコラは小声で、震える声で途切れ途切れに訴える。
涙目で訴えるニコラに呆れたかのように、ファルコは首を横に振った。

「何を情けのないことを」
「けど、グランパに何かあったら!それに、アジアや他の国だってこのまま黙っているとは思えないよ!殺されちゃうかもしれないんだよ!」
「案ずるな、ニコラ。何かあろうと私にはお前が付いている。そうだろう、ニコラ?」
「グランパ……」

頼られれば、もう何も言えない。
ニコラは子供のように、小さく頷き返した。

その胸の内に大きな不安と恐怖を抱きながら、ニコラは胃を抑える。

柚は瞼を閉じたまま、そんな二人の会話を聞いていた。

先程の薬で免疫が付いたのか、それとも薬が麻酔の類だったのだろうか、辛うじて意識はある。
だが、手足はまるで鉛を付けられたかのように重くて動こうとはしない。

フョードルとセシルが先に運び出された。
二人は死んだように、ぴくりとも動かない。

するとファルコは、機嫌良く明へと顔を向けた。

「さて、ご苦労さまです」
「!ちょっと!」

講義をするように明が声をあげ、ちらりと柚達の方を見る。

「はは、大丈夫ですよ。こいつ等は眠ってますから」
「はぁ……やっと終わるんですね」

安堵したように、明がため息を漏らした。
柚は困惑する。

(なんだ、どういうこと?)

「では、残りの金額は無事に到着した後にお支払いさせて頂きます。私はもう失礼しますよ」
「どうせならば、ゆっくりご覧になっていけばよろしいのに」
「勘弁してくださいよ。私はさっさと海外に逃げさせてもらいますよ」

(やられた……!)

柚は唖然とすると同時に、打ちのめされた気分になった。

なんて愚かだったのだろう。
同時に、全ての疑問が解消されていく。

そんな柚をあざ笑うかのように、男達は柚を筒状のガラスケースに閉じ込めると、その上から大きな布をかぶせて光を奪った。



地上では、一日中すっきりとしない天気のまま、太陽が地平線から姿を消した。

時計の秒針が、一秒、二秒、三秒と時を刻む。



闇夜の中で漆黒の布が翻った。

純白の軍服の上にコートを軽く羽織ったアスラが、仮設のテントを抜け、瓦礫を潜り抜けるように歩いてゆく。
その姿はあっという間に見えなくなった。

そんなアスラの背に一瞥を向け、ヨハネスは不安そうに目の前の人物達へと視線を向ける。

焔とフランツは無言で準備を整えていた。

そんな二人からは、作戦に向けての気迫が伝わってくる。
だが、逆にそれがヨハネスを不安にさせた。

そこから少し離れた席に座るハーデスは、大鎌を手にしたまま殺伐とした目で一点を睨み付けている。
そんなハーデスに話し掛けるライアンズは完全に空回りで、ヨハネスを苛立たせた。

ヨハネスは腕時計に視線を落とすと、焔の前にしゃがむようにして声を掛ける。

「いいですか、絶対に無理しないでくださいよ?あなたはいつも無茶をして、治すほうの身にもなってください」

ヨハネスが小言を漏らす。

ブーツのベルトを締めていた焔は、顔を上げてヨハネスを見た。
すぐさま隣に置いていた刀を手に取ると、立ち上がり腰のベルトに挿してヨハネスを見下ろす。

「悪い」
「……はぁ」

小走りに去って行く焔を見送り、ヨハネスはため息を漏らした。

「ハーデス、あなたも感情的になってはいけませんよ?きちんと指示をよく聞いてくださいね?」
「……」

ハーデスは殺伐とした目でヨハネスを一瞥すると、無言で去って行く。
ヨハネスは焔のとき以上にため息を漏らし、もう一人に顔を向けた。

「フラン、あなたも無茶は……」

言い掛け、すでにフランツの姿がないことに気付くと、ヨハネスは誰も座っていないパイプ椅子の上に項垂れる。

唯一残ったライアンズが大きく背伸びをし、首を鳴らしながら立ち上がった。
軽く膝を曲げ、手首を回しながら、一人ごちるように告げる。

「さて、俺もそろそろ行くかな」
「あなたなら大丈夫でしょうけど気をつけてくださいね。もしものとき、元帥や他の皆のブレーキになってあげてください」
「まあ、俺で勤まるか怪しいけどな。じゃあ、後は頼んだ」

困ったように頭を掻き、ライアンズは颯爽と去って行く。

すると、オーストラリア側の陣営から一人、退屈そうにカロウ・ヴが欠伸を漏らした。
ラッド元帥の他に、オーストラリアから派遣された三名の使徒は、優雅にトランプを興じている。

文句のひとつでも言いたくなったが、ヨハネスがそれをぐっと堪えていた。

「あー、やっと息苦しい連中がいなくなった。ピリピリしてて迷惑だよ」
「さーて、僕等もそろそろ行く?格好良く助けたら、柚ってば僕に惚れちゃうかな?」
「ははは。それより、まだ登録されてない使徒は早い者勝ちでゲット出来るらしいぜ?」
「どうせクズじゃん?」

笑いながら去って行くオーストラリアの面々に、ヨハネスは怒りに震える。

彼らが入り口を通り抜けたとき、アメリカ陣営の少年が鼻で笑い飛ばし、鋭い眼光で男達を睨み付けた。

「やる気ない奴は帰えりゃいいのに、すげぇ目障り」
「こらこら、聞こえますよ」
「聞こえるように言ってるんだよ」

十代後半か二十代はじめ位だろうか、そばかす顔で凛とした瞳が印象的な少年だった。
そんな少年の発言を、隣ののんびりとした男が和やかに咎める。

「……行くぞ」

黒人で顔に傷のある男は、口数も少なく仲間に促す。

男達が出て行くと、パイプ椅子が派手な音を立て、ヨハネスは飛び上がって振り返った。

ユーラシアの面々が殺気だった面持ちで入り口を睨み付けている。
その中でも特に怒りを露わにしているのが、褐色の肌よりも濃いブラウンの髪をした男だ。

「まあまあ、エドゥ落ち着いて。らしくないんじゃないの?心配なのは俺達だけじゃないんだよ?」

エドゥと呼ばれた男は、溢れる怒りを抑えきれないかのように肩で呼吸をしている。
全く怯みもせずに、赤い髪の男が落ち着いた様子で宥めた。

その男の視線は、頼りない面持ちで立つヨハネスへと向けられる。
赤髪の男の視線を追ったエドゥは、初めてその存在に気付いたように、ヨハネスへと視線を向けた。

椅子で傷付けたのだろう、手には血が滲んでいる。

「ああ、大丈夫ですか?血が……」

思わず、ヨハネスはユーラシアの使徒達に声を掛けていた。





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