37


誰かが自分を呼んだ。

(起きなきゃ……)

きっとマリアだと思った。
それ以前に、そう思ったことに疑問を感じる。

(私、寝てた?いつの間に寝たんだろ?シャワー浴びたかな)

学生以来、目覚ましを掛ける習慣がない。
いつもマリアが起こしてくれるから、ついつい頼ってしまっている。

(今何時?まだ眠いのにもう朝?あー、また一日、同じことの繰り返しか)

少しだけ、うんざりした気分になった。

「いつまで寝ているんだい?」
「んー……まだ眠い……」
「眠いのならば、まだ寝ていても構わないよ」

誰かの膝の上だ。
優しい声と手が、髪を撫でていく。

その感触があまりにも心地良く、柚は膝に擦り寄る。

声はマリアのものではなかった。
男の声だ。

誰だろうと思いながらも、頭が働くことを拒否している。

「パパ……?」
「違うね」

くすくすと、朗らかに笑う声が降った。

「もう、眠るのはやめるのかい?」
「あ……」
「ん?」
「怖い夢をみてた……」
「どんな?」

全てを知っており、尚且つ、あえてその質問をしているかのように、男が笑みを含んだ口調で訊ねてくる。

「どんなだろう、よく思い出せないけど。パパが悪いことをしてるんだ。私は使徒で、力があって、パパは悪いことをするときに私の力を貸して欲しいって言うんだ」

男が「それで?」と、先を促す。
誰と話をしているのだろうと思いながらも、どうしても瞼を起こす気にはなれなかった。

「私が力を貸さなきゃパパが捕まっちゃうから、本当は嫌なんだ、嫌なんだけど……私も一緒に悪いことをするんだ」

そのときの気分を思い出すと、不安で胸が苦しくなる。

「パパの仲間がその度に、お前は凄い!とか、パパの娘は最高だって褒めてくれて、周りの期待が凄く重いんだ。でもパパが誇らしそうだから私も嬉しくて……」

悲しみが押し寄せた。
不の感情が混ざり合う。

「でも、パパが調子に乗って手を出しちゃいけないものに手を出して、私は凄く焦ってるんだけど、パパが今回も上手くいくさって楽観的で、このままじゃパパが捕まって、いっぱい悪いことしたから死刑とかになっちゃうかもって思うと、怖くて怖くてどうしようもなくて……夢の中で泣いてた」

呼吸が苦しくなってくる。

愛しい肉親の死は、柚の世界の中核を奪うようなものだ。
その中核を失えばもろく崩れ去るのみ。

不安と恐怖で、柚は胸元を押さえた。

「パパが悪いことをしてるのは知ってるけど、パパがいなくなったらとか考えると体が震えちゃって、パパを捕まえに来る人達の方が悪者に見えてくるんだ」
「結局、どちらが正しいんだろう?」
「え……?」

柚は膝の上で首を傾げる。

「正しいのは、えっと……あれ?」
「例えば、正しいと思っている側が必ずしも正しいとは限らないのではないだろうか?そう思ったことはないかい?自身が持つ倫理こそが、体よく植え付けられたものだったとしたら?君はそんな旗を掲げる者達を信じて命を預けるだろうか?」
「え……えっと……」

柚が瞼を起こす。
ぼやけた視界の中に微笑む黒髪の男がいたが、やはり最後まで思い出せなかった。



「っ……」

飛び起きた柚は、ひどい頭痛と立ちくらみに襲われ、思わず地面に手を付いた。

先程までいた牢だ。

柚が目を覚ますと、辺りが騒がしかった。
牢の外の廊下を、人々が慌しく行き交っている。

周囲を見渡すと、隅にセシルが固まっており、じっとこちらを見ていた。
ならばフョードルは?と振り返った柚は、自分がフョードルの膝を枕にして寝ていたのだと気付く。

「フョード……」

薄く笑みを浮かべ、フョードルが自分を見ている。

(あれ?)

違和感を感じると、答えはすぐに出た。

「泣いているのかい、エヴァ」
「!」

はっとした柚は、頬を嫌な汗が伝い落ちる感覚を感じる。

そこにいるのは、フョードルのみだ。
声も顔も、体も……フョードルしかいない。

だが、分かる。
そこにいるのは、フョードルであってフョードルではない。

「アダム……」
「お利口だね、エヴァ」

にこりと……子供を褒めるように、慈愛に満ちた眼差しと口調が柚を褒める。

艶やかで上品な笑み、アダムが纏う独特の雰囲気。
フョードルの顔でありながら別人のように、一度その顔を目にすれば決して忘れる事は無いアダムの笑みが重なる。

「どうして……フョードルから離れろ!」
「離れるさ、君の涙が止まったら」
「っ――!」

柚の頬がかっと赤く染まった。
心を見透かすような黒に近い紫の瞳が、柔和に弧を描き、じっと柚の瞳を見詰めてくる。

柚はそでで乱暴に涙を拭うと、アダムを睨み返した。

「泣いてないっ!」
「そうか、では私の勘違いだろう」

アダムはくすくすと穏やかな笑みを漏らし、柚へと手を伸ばす。
びくりと肩を揺らし、柚はアダムが乗り移ったフョードルの手を振り払った。

「フョードルに体を返せ」
「もちろん」

そう言いながらも、アダムがフョードルから離れる気配は無い。
アダムは振り払われた自分の手を掲げるように見上げた。

(なんでだ?なんで、アダムがフョードルの体を乗っ取れる?)

万能な力はないと、ジョージが講義で言っていたはずだ。
柚のように自然属性の力を持つ者が環境によって力の調子が変わるように、その力が特殊であればあるほどに、力が使える範囲が定められていたり、何かしらの制約はあるはずだと聞いた。

警戒を怠らずに考え込む柚に、ゆっくりとアダムの瞳が向けられる。
目が合うと、アダムはまるで微笑みかけてくるかのように目を細めた。

「エヴァ。ひとつ伝えておこう」

その言葉に、柚はいぶかしむようにアダムを見やる。

「君に危害が加わるようであれば、私はここにいる全ての人間と使徒を消さなければならない」
「私はそんなこと頼んでない!」
「その体は誰のものだ?」
「意味の分からない質問だな。私のものに決まってる」
「本当にそう思っているのかい?」

柚は一瞬、言葉に詰まった。

政府が一度方針を変えれば、政府が決めた相手との間に子供をつくらねばならない。
それはアスラかもしれない、だが今度は、フョードルかもしれない。

アダムは目を細め、柚の髪を撫でるように触れた。

「難儀だな、エヴァ。君に意思に関係なく、周囲が君の体を欲する」
「貴様もその一人だろう」
「その通り、私の子供は君にしか産めないだろう」

政府は子供を産む道具として、周囲は偶像化された柚を興味本位で見る。
きちんと柚自身を見てくれているのは、仲間とごく少数の人間のみだ。

「だがエヴァ、私は君の心も求めている」
「ふんっ、白々しい」
「おやおや」

アダムは片膝を立てると、その上で頬杖を付いてくすくすと笑みを漏らす。

「エヴァは私に愛して欲しいのかな?」
「結構だ!」

そっぽを向く柚に、アダムは口元に手を当てながら、心底愉快そうに声のない笑いを浮かべた。
そんなアダムの態度に柚が不機嫌な顔を向けると、アダムは緩慢な動きで頬杖を付き直す。

「何がおかしいんだ!とにかく早くフョードルを解放しろ!」
「君とはいつも、ゆっくり話す機会がなくて残念だ。まあ、いい。前に言ったね、私は気が長い」

まるで触れて確かめるかのように、フョードルの白い手が柚の頭に触れ、頬に触れ、髪に軽く口付けた。

「そう遠くない未来、また話す機会もある。もちろんそのときは借り物の体ではなく、本当の私として……」

ふっ……と、フョードルの体が崩れ落ちる。
柚は慌ててフョードルの体を抱き起こしながら、隠しきれない不安を浮かべた。

接点のないアダムがフョードルの体を乗っ取る事が出来たというのならば、自分の体とていつ乗っ取られてもおかしくない。
自分だけではない、アスラや焔、仲間達がいつ、敵の人形になってしまうかも分からないという事だ。

そこで柚は、牢の隅からじっとこちらを見ているセシルの存在を思い出して慌てる。

「セシル、ごめん、大丈夫か?アダム、あ、えっと……この人に、何かされたりしなかったか?」
「……ううん」

セシルは柚からすっと目を逸らし、首を横に振った。

「本当に?」
「しつこい」
「……分かった、信じる」

会話を拒むように、セシルが膝に顔を埋める。
柚はセシルから顔を逸らし、死んだように眠り込んでいるフョードルを見下ろした。

(……フョードル)

拘束された腕では、フョードルの体を抱きしめてやることも出来ない。
フョードルの体に顔を埋めて項垂れる柚は、近付いてくる足音にゆっくりと顔を上げた。

「やあ、お嬢さん。気分は如何かな?」

機嫌の良いファルコが、はち切れそうな腹を曲げて鉄格子から覗き込んでくる。
柚が無言で返すと、満足したように手を叩いた。

「随分と我々に協力的になってくれたものだ。感謝するよ、お嬢さん」

笑う男の目は、ギラギラとした生気を放つ。
対極に、その隣に立つニコラは今にも死にそうな顔をして、幽霊のようだ。

ファルコは片手に杖を持ちながら、薄汚れた天井に向けて両手を広げる。
天を仰ぐファルコの歯が、厭らしく光を放った。

「さあ、楽しい時間の始まりだ!」





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