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「力を使ったの?自業自得だよ」
「なんとでも言え。こうなることを分かって使っているんだ」

柚はフョードルの肩を支えに立ち上がり、ニコラを睨み上げる。

アスラにはまた信じてもらえないかもしれない。
それでも、自分を愛しいと微塵も想ってくれない相手に、こんなところで自分の体に触れさせるわけにはいかない。

(もう、嫌われちゃったかもしれないけど……)

今まで守られてきたものをこんなところで失えば、愛していると言ってくれた人に申し訳が立たない。

「そいつ等のくだらない遊びに付き合ってやる道理はない。これ以上何かしようとするなら、貴様等の金儲けの道具になる前に貴様等を殺してやる」

軍靴が粉々に砕けたビール瓶の破片を踏み付けた。
砂を踏むような音が微かに響く。

ニコラは自分の後ろに隠れる男達を見やり、小さくため息を漏らした。

「ボスに報告はしないでおくから、君達は持ち場に戻って」
「は?何言ってんだ、この生意気な女を――」
「分かってるよ。それは僕がやる、このままじゃ客が殺されかねないからね」

気が治まらない男達に、ニコラは落ち着いた様子で告げる。
下がり気味の目のせいか、はたまた、表情があまり変わらないせいか、どうもやる気や活気を感じさせない青年だった。

「出て」
「おい、勝手に連れ出しちゃまずいんじゃないのか」

ニコラが男の腰に下げられていた鍵を取り、牢を開けようとする。
すると、先程よりも少しばかり酔いが醒めた男達が、ニコラを制止した。

「ちょっと部屋で躾をしてくるよ。君達のことだって黙っててあげるんだ、それくらい大目に見てくれるだろう?」
「けど……」
「それと僕、ちょっと興味があったんだ。同族の女の子、ね?」

ニコラが耳打ちするように小声で告げ、男の一人の手を取り、紙幣のようなものを握らせる。
電子関連の支払いが主流となった今でも、裏社会や田舎町など、日の当たらない場所では現金の方が重宝されていた。

手を開いた男が、次の瞬間には目を見開き、にやにやと笑いながら牢の前から退く。

ニコラが牢を開けると、フョードルが素早くニコラの前に立ち塞がった。
セシルが怯えたように壁に背を預けながらも、懸命に身構える。

「フョードル、セシル、何もするな」
「ですが、柚殿!」
「いい」

ニコラを睨み据えたまま、柚が静かにはっきりと告げた。
張り付けた空気の中、その声が余韻のように耳に残る。

その気迫におされるように、フョードルが悔しそうに口を噤み、ニコラの前から退く。

「こっち」
「……」

ニコラが柚の腕を掴み、牢から連れ出した。

追い縋るように出口に近付いたフョードルの目の前で、男達が勢い良く牢を閉ざす。
フョードルは鉄格子に掴まり、柚の名を叫んだ。

「柚殿!」
「大丈夫。どうにもならなくなったら呼ぶ。その時はセシルを頼んだぞ」
「柚殿……」

心細そうなフョードルの顔と声が、柚の記憶に焼き付く。

柚はニコラに腕を掴まれたまま、来た時に通った階段を登った。

階段を上るたびに、少しずつ辺りが明るくなってくる。
階段を上りきると、薄暗く陰気だった地下牢とは違い、一瞬にして周囲の空気が変わった。

ニコラは階段に一番近い部屋のドアを開け、柚の背中を軽く押し、部屋のドアを閉ざして鍵を掛ける。

そのまま、新たな手錠でベッドヘッドに柚の手錠を繋いだ。
鎖の長さもない為、柚はベッドの隣に蹲るように膝を折り、膝を付いた体勢になる。

「こんなもので、完全に動きを封じられるとでも思ってるのか?」
「思ってない」

ニコラはきっぱりと告げ、柚を見下ろした。

「君に頼みがあるんだ」
「頼み……?」

(この状況で頼み?)

柚は眉を顰める。

手錠などすぐに壊せる強度のものだが、体力的には自分にとって圧倒的に不利な状況だ。
使徒との戦闘となり、相手がどれほどの使い手かも分からない中、活路を見出せる気がしない。

目の前のニコラは思い詰めたような顔をしていた。

二人きりの部屋にも関わらず、部屋の中を見回す。
そして、ただでさえ小さめの声をさらに抑え、ニコラは柚に顔を近付けた。

「時期が来たら君を逃がす」
「ぇ……」
「だからグランパを……見逃して欲しい」
「なっ!そんなこと出来るわけないだろ!?」

柚が声を張り上げると、慌てたようにニコラが掌で柚の口を覆う。
ニコラは焦ったようにドアを一瞥し、暫く反応がないと、柚に視線を戻して睨み付けてきた。

「君に拒否権があると思っているの?」
「んー!!」

口を押さえられながら、柚は「あるに決まってんだろ!?」と心の中で叫び返す。

そこで柚は、ニコラの手が微かに震えていることに気付いた。
よくよく見れば、ニコラの顔には汗が滲んでいる。

(こいつ……)

柚が手を動かそうとすると、ニコラがびくりと肩を揺らし、体が強張った。

「う、動くな!抵抗したら人質の議員を殺す!」

(私が恐いのか。……もしかして、やろうと思えば勝てる、かも?いや、だとしても今暴れるべきじゃないよな)

「聞いてるのか!」

柚が静かに頷き返すと、ニコラの震える手が少しだけ浮く。
柚は頭を振ってその手を避けると、冷ややかにニコラを見上げた。

「お前こそ大きな声を出さない方がいいんじゃないのか?私を連れ出したこと、バレたらまずいんだろ?」
「……君が逃げ出したことにする。見張りの彼等に期待するなら無駄だよ」

柚とニコラは暫しの間、互いに睨み合う。

生活感が漂う部屋だった。
ファルコと幼いニコラの写真が大切そうに飾られている。

ファルコの孫ならば、もう少しいい部屋を宛がわれてもいいのではないかとも思ったが、誘拐した人質が脱走した時の為に、地下牢に一番近い部屋を宛がわれたのかもしれない。

緊迫した状況が続くと、柚の方が先に折れた。

「お前、なんでマフィアなんてやってるんだ?人を殺したくないんだろう?大体、こんなことしてただで済むと思っているのか?」
「これで終わるんだ……グランパは今回を最後に引退してくれる約束なんだ。これさえ終われば……」

噛み締めるようにニコラが告げる。

余裕もなく、焦ってすらいるように感じた。

事実、双頭に破滅が向かっていることは確かだ。
双頭は国に喧嘩を売ったのだ。

それがどれだけ危険なことか、理解しているのはニコラだけのように思える。

双頭が誘拐した使徒は、大抵国が下級クラスと判断する者たちや、研究所で生まれれば処分され、発見されても保護対象から外れる第九階級エンジェルスの者達ばかりであった。
その事実を知ってか知らずか、彼等はニコラという使徒が誰よりも強いものだと思い込んでいるように感じた。

「だから頼むよ。もう君達に手出しはしない、協力してくれ」

沈痛な面持ちで、ニコラが縋るように柚の肩を掴んだ。
項垂れる青年の頭が目の前にあった。

必死な青年の姿に、柚は言葉に詰まる。

「僕には大切な人なんだよ。君も使徒なら、この気持ちが分かるだろう?」
「本当に血は繋がっているのか?利用されていないと言い切れるのか?」
「違う!君にグランパの何が分かるっていうんだ!」

激高したように、ニコラが声を張り上げた。
柚は思わず首を竦めながら、ニコラを見やる。

ニコラは無言で俯いたまま、肩を震わせていた。
祖父の期待にプレッシャーを感じ、押し潰されそうになっているように思える。

柚はニコラという青年をよく知りはしない。

だが、彼は母親を抱いた女性に銃を突き付けながら、祈るような顔で自分を見ていたことは知っている。
マフィアに属しながら、マフィアになりきれない――祖父の為に、自分の望まないことをしている。

「悪いが……」と言い掛けた柚は、言葉を呑み込んだ。
それは違う。

「使徒として……肉親を思う気持ちは理解する。けど、悪いことは悪いことだ」

使徒として、彼の気持ちは分かる。
親がマフィアだった為、彼もファルコの為に手伝いをせざるを得なかったであろう事実にも同情してしまう。

だが、ワーナー・デ・ファルコが使徒や人間の臓器を売り、悪事を働いている事に変わりはない。
そして、目の前のニコラも然りだ。

「全世界に指名手配されているお前のグランパを逃がせるわけがない。お前も他人事じゃない。お前がグランパを逃がしたいほどに想っているなら、今すぐにでも説得して逃げるんだな」

彼らに捕らえられ、命を失った者や人生を狂わされた者達が沢山いるのだ。

小さく息を吸い込み、同情を振り払う。
真っ直ぐと、柚はニコラの顔を見た。

「私はお前に協力出来ない。フョードルとセシルにも協力をさせることは出来ない」
「……交渉は、決裂か」

相変わらず憂いに満ちた陰のある瞳を瞼で閉ざし、ニコラは絶望したように頭を振る。
彼が逆上するかもしれないという不安と緊張の中、ニコラは暫し額を押さえたまま黙り込んでいた。

長い沈黙の後、ニコラは重々しく瞼を起こし、サイドボードの引き出しから小さなケースを取り出す。

「オークションは明日の夜だ」
「……」

小さなケースから、注射器が取り出された。
細い針が瓶から透明な薬品らしきものを吸い上げてゆく。

柚は体を強張らせてその行動を見守った。

液体を吸い上げると、空気を抜く。
針の先から薬品が溢れ出した。

恐怖に心臓が早鐘を打ち始める。

針の先から溢れる液体が、柚には彼の涙に見えた。

「協力してくれないというなら……邪魔はさせない」
「っ、やめろ!」

頭を掴まれ、ベッドに押さえつけられるように頭を押し付けられる。
一瞬、首筋にちくりとした痛みが走り、体内に液体が流し込まれた。

(何?今の薬なんだ?)

先程よりも、心臓が早く鼓動を刻んでいる。
手にじわりと汗が滲んだ。

「僕には、君達が理解できない……」

柚の耳に、微かにニコラの声が届く。
気が付けば、侮蔑するかのような眼差しが自分を見下ろしていた。

「正義の味方気取りかい?無理やり軍人にされて、なんで命を掛けられるんだろう?」
「……」

言い返したいが、強烈な睡魔が押し寄せてくる。

「僕達は、最初から相容れない存在だったんだろうね」

遠退く声を聞きながら、重い瞼を閉ざすと同時、柚の意識は深い闇に呑み込まれていった。





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