35


「それで、お前のほうはどうなんだ」
「ご命令通り、ボゴスロフスキー氏に会ってきたよ」

イカロスが書類を取り出すと、アスラが無言で手を差し出す。
その手に封筒ごと書類を乗せると、アスラはイカロスに目も向けずに問い掛けた。

「それで、奴は何かしゃべったか?」
「残念、着いたときにはもう彼は死体だった」

アスラはその言葉に、あからさまに眉を顰める。

ボゴスロフスキーは、ユーラシアが保護しようとしていた使徒を横取りした双頭から、誘拐された使徒をオークションで落札した人物だ。
後に、ボゴスロフスキーの屋敷を首になった男が、腹いせとばかりにボゴスロフスキーの屋敷に使徒らしき男がいると通報したが全ての始まりだ。

その男が偶然にも双頭に攫われた使徒と発覚し、ユーラシアはボゴスロフスキーに司法取引を持ち掛け、ボゴスロフスキーは自身が罪を問われないことを条件に、司法取引に応じた。

「双頭はボゴスロフスキー氏にユーラシアの捜査官が接触したことを知った、あるいはボゴスロフスキーが目を付けられていることを知っていた。そこであえて偽の招待状を送り、俺達はまんまと踊らされた……というわけだね。双頭の連中は今頃、あまりにも上手く行き過ぎて高笑いでもしているんじゃないかな」
「イカロス」
「はいはい。ボゴスロフスキー氏を殺ったのは双頭で間違いない。目的はこれ以上の口止めだろうね。彼の記憶を覗かせて貰ったけど、オークションの参加者同士は、一切顔や名前を明かしていないんだ。けど、彼自身が多少の推測はしていたみたいで、彼が思い浮かべていた知人やライバルの顔や名前を覗いて、参加した可能性のある者のリストの中から照合してきた」

アスラは、回りくどいイカロスの話を聞き流すように、封筒から書類を取り出す。

「後のことはユーラシアに任せてきたよ。照合した人の中から目星を付けて、オークション開催日はすぐにでも特定してくれる。奴等のアジトも常に見張っている」

穏やかな声音が、子供に言い聞かせるように降り注ぐ。
アスラは読み上げてもいない書類に視線を落としたまま、イカロスの言葉を聞いていた。

「双頭に捕らえられていた使徒とも接触したけど、彼は連中に暴力は受けていなかった。気休めにはなるだろう?」
「……そうだな、ありがとう」

アスラの言葉に、驚いたようにイカロスが目を瞬かせる。
すぐにイカロスは苦笑を浮かべ、腰に手を当てた。

「なんだい、急に。気持ちが悪いな」
「……」
「俺はね、アスラ……本当に、君を弟のように思っているよ。この間はごめん、余裕がなかったんだ」
「分かっている」

もう言うなと言うように、アスラは机に書類を戻す。

「君には幸せになって欲しい。彼女が来てから、君が楽しそうにしているから……柚ちゃんには感謝している。君のことも柚ちゃんのことも、大好きだよ」
「イカロス、仕事に戻れ」
「はいはい、照れちゃって可愛いな」
「イカロス」

くすくすと笑うイカロスに背を向け、アスラがイカロスを追い払う。
イカロスは踵を返すと、思い出したように足を止めて肩越しに振り返った。

「そうだ、この間のお詫びってわけじゃあないけど――ひとつ、いいことを教えてあげようか?」

悪戯を思いついたように、何処か無邪気さを感じさせる笑みを浮かべるイカロス。
そんなイカロスを、アスラがいぶかしむ様に見上げると、彼は口元に弧を描いた。










ぽつりぽつりと、天井から滴る雫は時を刻むようだ。
外から聞こえていた賑やかな声が、豪快な寝息に変わり始めた頃。

柚は浅い眠りから目を覚ました。

「おはようございます」

少し離れたところから、フョードルの声がする。
間にセシルを挟み、フョードルが柚を見ていた。

飛び起きた柚は、薄暗く寒かった地下牢が明るく暖かいことに気が付く。

「フョードル……!?お前!」

その正体は、フョードルの掌の上に灯る光だ。

「フョードル、まさかずっと?そんなことしてたらお前が――」
「私は大丈夫です。上手くは使えませんが、力だけはありますから。柚殿がお風邪を召されてしまうことの方が一大事です」

にこりと微笑む幼い顔は憔悴を隠し……柚は唇を噛む。

柚はフョードルの体を抱き締めた。
驚いたように、辺りを照らし出していたほのかな光が掻き消される。

「す、すみません。すぐに……」
「もう充分だ。有難う、フョードル」

気付けなかったことが悔しい。
柚は自分の不甲斐なさに泣きたくなった。

すると、ぞろぞろと足音が聞こえてくる。
しっかりとした足取りではなく、乱れた足取りだ。

「おい、交代の時間から一時間近く経ってるぞ」
「お前等、そんなに酔ってて大丈夫なのか?今回の商品はいつもの連中とはレベルが違うんだぞ?」
「分かってるって。けど、俺等にはニコラがいるだろ?いくら暴れたって恐かねぇよ」

見張りの男達と何か会話を交わす声が聞こえてきた。
見張りの男達が、呆れたようにため息を漏らし、見張りの仕事を男達に譲る。

男達が去った途端、三名の男達が廊下からこちらにむけて顔を出した。

「いたいた」
「へぇ、本物拝める日が来るとはな」

ビールの瓶を手にした男達は、顔を真っ赤に染め、千鳥足で牢に近付いてくる。
距離が近付くと、男達からはアルコールの臭いが漂ってきた。

「……」

柚はフョードルに眠気眼のセシルを預けると、無言で男達を睨み返す。
男の一人がぴくりと眉を上げ、鉄格子に顔を近付けてきた。

「生意気な面した女だな」
「なあ、やっちまおうぜ?顔は好みなんだよな、俺」
「馬鹿、お前……商品に手出したらボスに殺されるぞ」
「どうせ初物じゃないだろ?ほら、なんだっけ?あのなんとかデーヴァって奴?そいつがもう手、出してるだろうし」

腹を立てたフョードルが、男達に向けて口を開き掛ける。

柚がフョードルを手で制し、「相手にするな」と淡々と吐き捨てた。
そんな柚の態度に、男達から不穏な空気が流れ始める。

ドレッドヘアの男が、手にしていたビール瓶を勢い良く鉄格子に叩き付けた。

「いい気になってんじゃねぇぞ、ブスが!」
「自分の立場分からせてやるぞ!」

褐色のガラス片が飛び散り、柚達の足元にまで転がってくる。
セシルが怯えて体を固くした。

柚は目をすがめ、大きくため息を漏らす。

「鬱陶しいことこの上ないな」

柚は男達に向け、ゆっくりと手を上げた。

五本の指先が男達に向けられた瞬間、風が走りぬけたように男達の髪がふわりと浮く。
それから数秒後、男達の後ろの牢の鉄格子が鋭利な刃で切られたように転がり落ち、中央に立つドレッドヘアの男の髪の束が石畳の上にぼとりと降り注いだ。

鉄格子が切り裂かれた奥の牢には、不気味に水が床を濡らす。

「え……?」
「おっと、悪いな。酔っているようだから水で酔いを冷ましてやろうと思ったんだが……面倒な装置のせいで上手くコントロール出来なかったようだ」

わざとらしく嘘を並べる柚が、肩を竦めて見せた。

ドレッドヘアだった男は、自分でも何が起きたのか分からなかったかのように、愕然とした面持ちで頭に触れている。
隣に立つ男がはっとしたように、身を乗り出して怒声を張り上げた。

「て、てめぇ!」

震える声で怒鳴る男を、ドレッドヘアだった男が小刻みに首を横に振り、手で制す。

「おい、ニコラ呼んで来ようぜ。同じ化け物同士、あいつにやらせてやる」
「お、おう!そうだな」
「どっちが格上か思い知らせてやる!」

男達がぞろぞろと逃げ帰っていく。

柚は息を吐き、壁に頭を預けた。
そのまま、ずるずると背中が壁を滑る。

そんな柚を心配して、フョードルがおずおずと遠慮がちに告げた。

「柚殿……あまり無理はされない方が」
「そう、だな……」

そう呟きながら、柚は重々しく息を吐く。
口から吐き出す息が熱を帯びたように熱い。

続けようとした言葉が、思うように声にならなかった。

こうなった以上、フョードルとセシル、明議員、そして自分の体を守らなければ……

(……帰れない)

瞼を閉ざし掛けた柚の耳に、靴音と軋んだ音が届く。

フョードルが心細そうに自分の名を呟いている。
自分を隠そうとしてくれるフョードルの背中越しに、さきほどの男達の他にもう一人、陰鬱な面持ちで立つニコラの姿が見えた。





NEXT