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「起きてる?」
「……死んでる」

柚が死にそうな目で返す。

声を掛けてきたのは、自分達を攫った使徒だった。
名前は、確かニコラと呼ばれていた気がする。

手には水の入った三本のペットボトルと毛布を手にしていた。

「なんだ、貴様。まさか見せつけに来たのか?」

飢えた獣のように血走った目で睨み付けてくる柚に、ニコラがびくりと肩を揺らす。

「一応、許可を貰って水だけ持ってきたんだけど……」
「!」

セシルが期待したように反応を返した。
柚はそんなセシルを腕で制し、ニコラを睨み付ける。

「そりゃあどうも」

鉄格子の隙間から、ペットボトルが三本、差し入れられた。
そして、最後に毛布が一枚与えられる。

「お前、なんでファルコに従っている」
「……さあね」
「お前は被害者じゃないのか?もしそうなら……」

「残念だけど」と言うように、ニコラは困ったように遠慮がちな苦笑を浮かべた。
柚がいぶかしむ様にニコラを見上げる。

「僕の名前は、ニコラ・ファルコ。ここまで言えば、もう分かるだろ?」
「……はぁ」

柚は額を押さえ、壁に背を付いた。

ニコラはワーナー・デ・ファルコの血縁者だ。
養子ということも考えられるが、使徒が情を交わし相手を裏切るはずがない。

ニコラが去っていくと、セシルがペットボトルに手を伸ばそうとする。
柚はそれを素早く取り上げ、キャップを開け、三本全ての水を溝に流した。

呆気にとられたようにその行動を見ていたセシルが、怒りで顔を真っ赤に染めて怒声を上げる。

「何すんだよ!」
「柚殿、何故……」
「薬が入っていないとは考えられない」

(あんな思いは、二度とごめんだ……)

苦い思いが込み上げた。

自らの手で、ウラノスに毒入りのコーヒーを飲ませてしまった記憶は、今でも生々しく残っている。
幼い子供の命を落とさせるようなことは、二度と繰り返したくない。

セシルはすっかり柚に腹を立て、再び柚達から距離を置いて座ってしまった。

セシルに毛布を掛けてくるようにフョードルに頼むと、柚はため息を漏らす。
子供のセシルに、これ以上の我慢と理解を求めるのは酷だろう。

柚は空のペットボトルを手に取ると、空気中の水を集めた。
水の中から混入されたものを除き出すよりは楽だ。

力を使い始めると、一気に駆け抜けたように、心臓がどくどくと音を立て始める。
動悸と共に、心臓が鷲掴みにされたように痛み出し、指先が冷たくなっていく感触が恐ろしく感じた。

電磁波発生装置の中で力を使ったことは初めてではないが、ここまで体に異変を感じたことは初めてだ。
それだけ、自分の体力が低下しているのだと思うと、柚はさらに憂鬱な気分になる。

水が早く集まるようにと気は焦るのだが、普段の倍以上の時間と力を掛けてようやくペットボトルの三分の一を満たすほどに水が溜まった。

ペットボトルのキャップを締めると、柚はフョードルに声を掛け、投げて渡す。
狭い牢ではあるが、とても隅にいるセシルのところにまで歩いていく気力がない。

「え?あの、これは……」
「水。それなら安全だから、二人で飲んで」
「まさか柚殿、力を使われたのですか!顔色が!」
「大丈夫。これくらいなら少し休めば治る」

無意識に強い口調になってしまい、柚は後悔した。

「ごめん、本当に大丈夫だから。悪いけど休む。フョードルとセシルも、見張りなんていいから、それ飲んだらちゃんと休めよ?」

柚はそう言うと、壁に頭と背を預けてしまう。

フョードルはペットボトルを見下ろすと、セシルに差し出すと言うよりは、押し付けるように差し出した。
セシルはふいっと顔を逸らす。

「いらないよ、アジアの奴が作った水なんて、それこそ何が入ってるか分からないだろ」
「ふざけるな!柚殿がお前の為にやってくれたことだろう」

年下のフョードルは、いつも自分達に敬語だ。
フョードルから堅苦しい言葉使いでない言葉を聞くと、別人のようで不思議な感じがする。

柚は、そんなことを思いながら、心細さからか……胸元へと手をやった。

「あれ……」
「どうしましたか?」
「あ、いや……」

声を上げた柚に、フョードルが不思議そうに振り返る。

(嘘だろ!いつ?何処で?まさか……盗られた?)

「なんでもない」と返しながらも、柚は動揺していた。

(指輪がない!)

胸元をいくら弄っても、首筋に触れても、チェーンすら指に触らない。
途方にくれたように呆然としながら、柚はこめかみを押さえてため息を漏らした。










本国に戻ったアスラを、ジョージとイカロスが出迎えた。

作戦途中で呼び戻され、報告を受けて現場に連れて行かれ、すぐに他国との会議の為に再びアジアを旅立った。
彼と会うのも久しぶりのように感じる。

当時、残ったメンバーに対する指揮権を委ねられていたジョージは責任を感じていた。

「申し訳ありません。フランツが行き詰まっていたことには気付いていたのですが、指揮を任せることで自信に繋がるかと」
「最終的に許可したのは俺だ」

ジョージをフォローするつもりはない。
実際、ジョージに最終判断を委ねられ、この任務ならばと了承したのは自分だ。

いつもと変わらない執務室も、数日ぶりのせいか、人の気配もなく、何処となく寒々しく感じる。
アスラは机を迂回して窓を一瞥すると、椅子に腰を下ろした。

素っ気ない態度のアスラに、イカロスは小さくため息を漏らす。

すると、部屋のドアをノックする音にアスラは視線のみを向けた。

逸早く、ドアの向こう側の客人が誰かを悟ったイカロスは、躊躇うようにアスラの顔を見る。
今のアスラには、出来ればお互いの為にも招き入れたくない客人だった。

ジョージと入れ替わりに部屋に入ってきたのは、ジョージ以上に顔色の悪いフランツだ。
フランツは開口一番に、深々と頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」
「謝って済む問題ではない」
「……はい」

イカロスは、ドアの外ではらはらと様子を伺っているジョージの気配を感じながら、何度目かのため息を飲み込んだ。

口ごもるように押し黙るフランツを、アスラは横目で見やり、淡々と口を開く。

「何か言いたそうだな」
「い、いえ……ですが」
「意見があるならば言え」

アスラはあからさまに機嫌が悪い。
イカロスから見たフランツは、泣き出しそうな顔に見えた。

「……元帥はどうして、僕にあの場をお任せになられたのですか?」
「それは、俺の判断に問題があったとでも?」
「い、いえ……そういうわけではありません。ただ、僕は下級クラスで、柚とフョードルを預かるには……その」
「そうだな」

歯切れの悪いフランツの言葉を遮るように、アスラの声は容赦なく降り注ぐ。
俯くフランツが僅かに目を見開き、ますます首を下げた。

「確かにお前がただの基準でしかないクラスなどにこだわり、判断を誤ったのであれば、俺とローウィーの判断に問題があっただろう。俺達はお前を買い被っていたようだな」
「……え?」

青褪めたフランツが、困惑した面持ちでアスラを見上げる。

「大局を見極める力と冷静な判断力、力の扱いと知識に長けるお前ならば、任せても問題ないと判断した。だがお前は俺の期待を裏切った」
「ぁ……」
「用が済んだのならば部屋に戻り待機していろ」

フランツの体が小刻みに震えていた。
ドアを閉める音すら湿って聞こえてくる。

廊下から走り去る足音が遠ざかっていくと、胸に複雑な感情が残った。

イカロスが腕を組み、ため息を漏らしながらアスラを横目で見下ろす。
そんなイカロスのため息に、アスラは不愉快そうに眉間にしわを刻み、イカロスを横目で見やる。

「……なんだ、お前も言いたいことがあるのか?」
「君はなんでそう喧嘩ごしなのかな。いいや、ないよ?言いたいことは何もない。そうだな、うん……君もよく堪えたよ」

机の下で握り締められたアスラの拳に一瞥を投げ、視線を床へと落とした。

アスラの中には、柚を心配する気持ちと共に、大きな怒りが渦巻いている。
柚を攫った者達にのみではない、何も出来なかったフランツへ向く怒りも大きい。

「けど……」

憂いに満ちたイカロスの眼差しが閉ざされたドアへと向けられ、再び重いため息が部屋に満ちる。

「あんな顔をされると、虐めているようで心苦しいね」
「……ふんっ」

「少しくらいいいだろう」と言わんばかりに、不機嫌にそっぽを向くアスラに、イカロスは小さく笑った。





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