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「……そうか。それは気の毒だ」
攫われたのは自身の子供ではないが、大切な者を攫われた気持ちは分かる。
青年はそう告げたアスラの顔を上げ、何かを安堵したように、僅かに肩から力を抜いた。
「宮 柚は、あなたの婚約者と伺っている……」
「……そういうわけではない。ただ、私にとっても彼女がかけがえのない存在であることには違いない」
自ら背を向けたにも関わらず、皮肉なものだと、アスラは自嘲を浮かべかけた。
あの時に感じた怒りが、嘘のように跡形もなく消え去ってしまっている。
今はただ、失う事を恐れていた。
彼女という存在が、もしこの世からいなくなったら、もし二度と声を聞くことすら叶わなくなったら……。
この世に何の意味があるだろう?
そう思えるほどに大切だ。
大切な者を想う気持ちの大きさは、恐ろしいほどに自分を支配する。
それは時に喜びであり、怒りであり、悲しみであり、優しい感情を湧き起こす。
以前、柚が任務中に重傷を負ったと知らせを受け、失う恐怖に怯えた。
そのとき、自身が柚という存在をこれほどまでに大切に想っていたのかと、これほどまでに大きな存在だったのかと、思い知らされた。
あの時以上の感情はないと思っていたというのに、今はあの時以上に不安で恐ろしい。
子を奪われた親は、心の中で同じ恐怖や不安を感じているだろう。
もしかしたら、それ以上かもしれない。
親と引き離された子供も泣いているだろう。
フョードルも、不安を感じているはずだ。
ならば、柚は?
気丈で、だが本当は臆病な彼女は……
きっと今、不安と戦い、仲間を励ましているだろう。
愛した少女は、そういう人だ……。
子供は六歳くらいだろうか?
涙に濡れたエメラルドグリーンの瞳。
小さな頭に、綿菓子のようなふわふわのキャラメルブラウンの髪。
子供は暫くの間、疲れないのだろうかと思うほどに泣いていた。
やっと子供が泣き止む頃には、フョードルの方が疲れた面持ちで壁に凭れている。
「セシル君?お話出来るか?私は柚、こっちがフョードル。私達はセシルと同じ使徒だ」
「!」
子供がびくびくとしながら顔をあげた。
柚の顔を見るなり、途端に馬鹿にしたように言い放つ。
「嘘だぁ」
「いや、嘘じゃないんだけど……」
「だって、女の使徒がこんなところにいるわけないじゃん!子供だと思って嘘付くなよ、ババア!」
セシルが生意気な顔で舌を出す。
柚の顔がひくりと引き攣り、拳を握り締めた。
フョードルが慌てて柚とセシルの間に入る。
「ゆ、ゆゆ、柚殿!落ち着いてください、相手は子供ですよ」
「わ、分かってるさ。大丈夫大丈夫」
二人は大きく深呼吸をすると、改めてセシルに笑みを向けた。
「ババアじゃないぞ、お姉ちゃんって言い直そうね」
「柚殿、問題はそこじゃありません」
フョードルが真顔で首を横に振る。
セシルは知らん顔で、いぶかしむように柚とフョードルを見ていた。
そんなセシルの疑問に答えるように、柚は静かにはっきりと告げる。
「私達はアジアの使徒だ」
「え!」
途端にセシルが目を見開く。
「写真の方が綺麗だった……ママには劣るけど」
「ーッ!?」
「柚殿ー!!」
拳を振り上げる柚の手を掴み、フョードルが必死に柚を止める。
数分後、すっかり子供の相手に自信をなくしてしまい、隅で膝を抱える柚に代わり、フョードルがセシルに声を掛けた。
「セシル、捕まったのは君だけ?」
「多分ねー。つーか、あんた等大人のくせに捕まったの?ダッサー」
「ぷっ」と、セシルがフョードルと柚を笑う。
フョードルが青筋を立てて怒りを堪えていると、柚がくしゃみを漏らす。
それに気付いたフョードルが、慌てて柚の顔を覗き込き、上着を脱ごうとした。
「柚殿?大丈夫ですか?えっと……これを!」
「いい、いい!私は大丈夫だ、フョードルが風邪ひいちゃうだろ」
「ですが!」
「有難う、私は本当に大丈夫だから、な?」
「……はい」
そう言いながら、柚は軍服のケープを外すと、セシルの肩に掛ける。
心配そうにこちらを見ているフョードルを招くと、柚はセシルとフョードルの顔を見た。
「セシル、お前は軍人か?」
「……僕はまだ見習いだけど」
他国の使徒である柚達を警戒しながらも、セシルがおずおずと頷き返す。
「なら、冷静に状況を判断して行動できるな?自分が誰に捕らえられたか分かるか?」
「……知らない」
「連中は"双頭"だ」
セシルが青褪め、息を呑んだ。
「嘘だ!あいつ等はパパが退治しに行ったんだ!パパがあんな奴等にやられるわけない!」
セシルの声がよく響いた。
見張りが、外から「うるさい」と文句を言っている。
柚はセシルに言われて初めて、仲間の作戦が単純に失敗したのではなく、攻撃を受けたという可能性に気付いた。
もしそうであれば皆無事かと、少しだけ不安になる。
だが、それ以上に強く無事を信じていた。
仲間がそう簡単に負けるはずがない。
生意気だったセシルも、自分を捕らえた者達の正体を知ると、ショックを受けて黙り込んでいる。
手を握ってやると、その手はすっかり冷え切っていた。
すると、セシルがぽつりと弱音のような不安を漏らす。
「ねえ、パパ達助けに来てくれる?僕どうなっちゃうの?もう二度とパパとママには会えない?」
「来てくれるさ、大丈夫。セシルのパパは強い?」
「強いよ!パパは世界一強い!あんな奴等、パパにやられちゃうもん!」
「そうかそうか。なら、何も心配することはないな。パパが来るのを待っていよう」
セシルを抱きしめながら、柚はパーベルが自分のことをママと呼んでいたことを思い出す。
パーベルの言った"良くない事が起こる"とは、このことだったのだろうか?
ここ最近、良くない出来事が多過ぎて、しっくりこない。
「パパはきっと大丈夫、問題は私達の方だ。パパのところに帰りたいならばよく聞いてくれ」
「……」
今頃、自分達が攫われたことで政府は大変な騒ぎになっているだろう。
(多分、一般に公表はされないんだろうな)
その方がいい。
父と母が心配してしまう。
(焔とフラン、無事かな……。いないってことは、捕まってないんだろうけど)
いないということは、もしかしたら……という不安はある。
だが、考えれば考えるほどによくない方に考えてしまいそうだ、今は無事を信じるほかない。
(アスラ達にはまた迷惑掛けちゃってるな、カルヴァン佐官とかに嫌味言われてなきゃいいけど。嫌味だけならまだしも、責任とか言われてたらどうしよう……)
柚は微かに長い睫毛を揺らした。
(アスラにまだ謝ってない)
忙しそうだったからと理由を付け、ついつい先送りしてきてしまったのだ。
(帰ったらまず謝って……あー、でも、どれから謝ろう。この間のことが先かな?それとも今回のことかな)
思わず苦笑が漏れそうになる。
そんなことを考えていると、無性にあの日常が懐かしく、帰りたくなった。
(怒られるのは嫌だけど……でも、やっぱり帰りたい)
いつからだろう……?
本当は帰りたくてしかたがない家があるというのに、今、帰りたいと思った場所は、仲間がいて少しだけ息苦しいあの場所だ。
(けど、迎えは来ない……きっと)
手には冷たい手錠。
冷たくて硬い石畳。
体から体温を奪っていく冷たさ。
感情など持ち合わせていないように冷たくて、ビー玉のような水色の瞳。
それは目が合った瞬間に心を凍えさせるような厳しさだ。
理解出来ないかのように、目の前の真っ直ぐな瞳がアスラを見上げた。
「それほどに想っているのならば、あなたとて一刻も早く助け出したいのでは?」
アスラは青年から顔を逸らす。
予想通り、彼は仲間の為に自分と話をしに来たのだ。
なんとも使徒らしい。
感情を消し去った顔で、アスラは目の前の青年を見下ろした。
―NEXT―