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(柚が強い……?)

"私、本当はね……アスラが恐かったんだよ"

柚は、恐怖や不安を感じていないわけではない。
ただ、口にしないだけだ。

その強がりを知りながら、誰に言われたわけでもなく、そんな状況下に柚を置き続けると自ら決めた。
それが"アスラ・デーヴァ"という人物だ。

(これで、本当に正しいのか?)

"元帥として"と、ガルーダは言った。
ならば、人としては?





ぽつり……と、不安が胸の内に波紋を広げた。





フョードルが、心底申し訳なさそうに項垂れている。
柚が慌てて手と首を横に振った。

「いや、ちがっ、フョードルだから悪いとかそういうんじゃなくて!」

柚はフョードルの隣にぺたりと座りこみ、長い溜め息を漏らしてくしゃりと髪を握りこんだ。

「なんかこういう時、いつも焔と一緒だったから、今回もそうだと考えなしに思ってしまったというか……ごめん」

焔だと思っていた存在がフョードルだと気付いた途端、急に自分までもが心細く感じ始めた。
頼りなく感じる程に、薄暗い中でもフョードルの顔が青褪めていることが分かる。

途端に、柚の中の不安が固まっていく。
柚は握りこんだ髪から指を解き、俯くように視線を落とした。

「い、いえ、私のほうこそ、とっさの状況判断も出来ず……柚殿が作ってくださったチャンスを台無しにしてしまいました……。あの、この場合どうすればいいんでしょうか?私達はどうなってしまうんでしょう?」
「あー……うん」

フョードルは自分達以上に任務経験が浅い上、実戦となったのは初めてのはずだ。
緊張に体を強張らせているフョードルに顔を向けると、フョードルの体が微かに震えているように思えた。

(駄目だ、私がしっかりしないと)

柚はぐっと自分の手を握り締め、ゆっくりと指から力を抜いていく。
「よし」と呟き、柚はなるべく明るい声で告げながら、フョードルの顔を見た。

「とりあえず確認!まずフョードル、怪我とか気分が悪いとかないか?」
「いえ、特に異常はありません」
「そうか。私はもの凄く頭が痛いし気持ち悪い」
「だ、だだ!大丈夫ですか!いえ、大丈夫ではないですよね!どどどど、どうしましょう!」
「フョードル、落ち着け。変な感じするだろ?」
「はい?あ……ええ、少し」

慌てるフョードルを遠慮がちに宥めた柚が、地面を軽く指で叩く。
フョードルは大きめな瞳を瞬かせ、首を傾げた。

「何処かに……多分、ここから近い場所だ。電磁波発生装置がある」
「え?そ、それって、我々の力を無効化するという代物ですよね!」
「そう。でも完全に無効化は出来ない。だからって無理に力を使おうとしないこと。今無理をしてもろくなことはない」
「は、はい」

緊張した面持ちで、フョードルが大きく頷き返す。
柚はくすりと、フョードルに苦笑を向けた。

飛び回る蛾が電球に弾かれ、ただでさえ心もとない灯りが更に陰る。

外からは、微かに見張りと思しき男達の話し声が届いていた。

「告白すると、私は緊張してるし正直不安だ」
「柚殿……わ、私が柚殿をお守りします!なんとしても、必ず皆さんのもとへ無事に――」

慌てたように身を乗り出すフョードルを、柚の拘束された手が「落ち着け」と促し、肩を押し返す。
浮かし掛けた腰を硬く冷たい床に沈め、フョードルは不安そうな面持ちのまま柚の顔を見ていた。

「話は最後まで聞け。確かに不安だ。けど大丈夫。必ず助けは来る」
「……そうでしょうか」
「当たり前だろ?」

不安そうに俯き、呟きを漏らしたフョードルの乱れた髪を、柚の手が梳く。

不安そうな顔を上げたフョードルは、自信に満ち溢れた柚の顔を見上げた。
柚の自信に満ちた顔は、疑う余地もないかのような気持ちにさせる。

「だからそれまでの辛抱だし、安心しろ。それまで私がフョードルを守る」
「ゆ、柚殿!そんな私は!私があなたをお守りします」
「頼もしいな、フョードルは」

柚は苦笑を浮かべ、フョードルを解放した。
フョードルは柚に背を向けて蹲る。

彼の緊張を和らげてあげられる言葉が見付かればよかったのにと、柚は心の中で溜め息を漏らした。

(私も緊張してる)

不安や恐怖に胸が押し潰されそうになる時、当然のように傍にいた焔。
彼がいればこんな状況でも意地や虚勢を張っていられるのに、いないだけでこんなにも不安になる。

気を紛らわせる為のおしゃべりも出ない。
自分の震えを抑えることで精一杯だ。

(しっかりしろ、フョードルはもっと不安なんだぞ)

柚は呪文のように何度も繰り返した。

一帯を照らし出すのは、蜘蛛の糸が張り巡らされた電球のみ。
太陽も月も見えない地下牢は、時の経過すら教えてくれない。

それがより一層、不安と恐怖を与えてくる。

(大丈夫、絶対皆が来てくれる)

仲間の存在が、唯一の希望だ。
希望があるからこそ、取り乱さずにいられる。

まずは、今出来る最善のことをしなければならない。

「フョードル、次は状況確認だ。情けないことに私は途中で気を失ってしまったんだが、明議員はどうなった?それと、焔やフランは?詳しく教えてくれないか?」
「そうでした!まずは報告ですね、申し訳ありません!お二人は分かりませんが、議員は彼等に捕ったと思います。議員は彼等の狙いは自分だからと、戻ろうとされたんです」
「え?」
「私達がそれを力ずくで阻止しようとしたのですが、犯人達に追い付かれ、そうしたらいきなりボディーガードの一人が倒れて……もう一人の方がすぐに議員を逃がそうとしたのですが、いきなり倒れてしまい、私も良く分からない内に……すみません、途中で気を失いました」

落ち込むフョードルに、柚は眉を顰めて首を捻った。

「どういうことだ?追い掛けてきた連中の中にも使徒が?」
「そんな感じはしなかったのですが……」
「じゃあ、フョードルやボディーガードの人達は、倒れる直前に何をしていた?倒れる時何があったか、詳しく思い出せないかな?」
「はい。えっと……」
「!フョードル、ストップ。誰か来る」

柚がフョードルの言葉を遮ると同時、フョードルの頭を押さえ込むようにして床の上に寝転ぶ。
驚いて体を強張らせるフョードルに、柚は「寝たふり!」と小声で囁く。

地下牢に繋がる廊下から微かに灯りが漏れてきた。
話し声と足音が少しずつ近付いてくる。

柚は息を殺しながら、ぞろぞろと近付いてくる足音に耳を澄ませた。

「――回はご協力……すよ。こうも――」
「いえ――ではお約……り……残りの額は、無事目的地に――」

靴音が、小声で話す男の声を聞き取り難くする。

(協力?誰と話しているんだ?)

柚と向かい合うように寝ているフョードルがもぞもぞと動く。
柚はその動きを止めるよう、腕に力を込め、入り口の方へと顔を向けた。

黒いスーツの集団に囲まれながら、彼等とは雰囲気の違うスーツの男が、地下牢の前の廊下を通り過ぎていく。

(くそっ、見えん!)

柚が歯噛みしていると、通り掛った黒いスーツの男が中の様子を伺うように顔を覗かせるので、柚はあえなく顔を伏せた。

「さっきまで散々暴れてたが、もう寝てやがる。気楽なもんだぜ」
「なんだか申し訳ないですね、まだ子供なのに……」
「ははは。あんた、普段はもっと小さいガキを売ってる俺達にそれを言うんですかい?」
「あ、いえ、そんなつもりでは……」

再び声が遠ざかって行く。
微かに届いていた光が完全に遠ざかると、真っ赤な顔をしたフョードルが限界に達したように柚の腕を押し返し、腕の中から逃げ出した。

「なんなんだ、今の奴。私達の買取手が決まったのか?違うよな……そんな雰囲気じゃなかった。それとも、最初から今の奴が私達の誘拐を依頼したとか?」

柚がぶつぶつと呟きながら考え込んでいると、再び上からいくつかの靴音が響いてくる。
集中していた柚は、子供の泣き声にはっと顔をあげた。

「うるせぇガキだな!」

先程通り過ぎた集団とは別の男達が、一人の子供を抱えて連れてくる。
大声で両親に助けを求めて泣く子供の甲高い声は、耳が痛いほどに木霊して響く。

柚達が体を起こし、いぶかしむように子供を連れてきた男達を見上げた。

子供の相手に苛立った様子の男が、子供を柚達の牢の中に乱暴に放り込んだ。
柚が慌てて立ち上がり、子供の体を受け止めた。

「っ!大丈夫か?」
「ママ?」

子供は自分を受け止めた柚に、はっとしたように振り返る。
だがすぐにその顔は落胆に染まり、子供は再び大声で泣き始めた。

「おっ、本当にこの女攫ってこれたのかよ!すげぇー!」
「気をつけろよ。その女、四人医務室送りにしてるぜ?」

一人が鉄格子に顔を近付け、物珍しそうにじろじろと柚の顔を見る。
すると、別の男が肩を竦めて笑い飛ばした。

柚は子供の背中を撫でて宥めながら、男達を睨み付ける。

「まじかよ。けど、一回くらい味見してみてぇよな」
「食い千切られるぜ。レニィは手噛まれて、『いてぇよ、ママー』って大騒ぎしてたぞ」
「はは、手でよかったな」

男達の笑い声が遠ざかって行く。

「死ねッ!?」

柚は靴底で鉄格子を蹴り付け、怒りに戦慄いた。
フョードルがそんな柚を宥めながら、泣いている子供を見下ろす。

「この子……使徒、ですよね?これは軍服でしょうか?」
「そうだろうな……」

柚はため息を漏らし、子供の背中を撫でた。

見たことのない軍服だが、腕の腕章にはユーラシアの国名と所属部隊の刺繍が刻まれている。

「セシル・ベール……ユーラシア連盟、アース・ピース?」

所属と名前を読み上げた柚は、フョードルと顔を見合わせた。





「デーヴァ元帥!」

廊下を歩いていると、後ろから何度か自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
人と接したい気分ではなく、聞こえないふりをしてやり過ごそうとしていると、声の主は小走りに追い掛けてきた。

アスラは小さくため息を漏らし、足を止める。

濃紺の髪で小柄な青年がこちらに向かってきた。
ファーヴニルの後ろに居た、ユーラシアの内の一人だ。

「何か?」
「……先程は、仲間が失礼をしました」
「気にしていません。用件はそれだけならば、失礼させてもらう」
「あ、いや……彼は普段からあのような発言をする者ではなく、今は気が立っているんだ。許してやって欲しい……今回我が国内で攫われたのは、彼の子供なんです」

アスラは僅かに目を見開いた。





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