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聞こえていた演説の声が、気付けば全く聞こえてこない。
悲鳴すら耳に届く気配もない。

「フョードル、大丈夫か?」
「は、はい」

濡らしたハンカチを口に当てて歩くフョードルは、柚の問い掛けに緊張しきった面持ちで頷き返した。

そよぐように、通路の中に風が流れ込んでくる。

周囲の人々が少しずつ毒に犯されていく中、柚の自己治癒は逸早く、柚本人すら気付かない体の異変を感知し、回復の為に力を使い始めた。
柚を自力で歩けるまでに回復させた自己治癒は、現在も柚の意思に関係なく働き続けており、柚から体力と力を消耗させ続けている。

通路の出口に辿り着くと、扉の陰に身を隠し、柚とフョードルは外の様子を伺った。

演説を聴いていた人々が、力なく倒れ込んでいる。

その中央の通路を、黒服の男達が堂々と闊歩してきた。
観客席の中からガスマスクらしきものを付けた数名が何事もなく立ち上がり、黒服の男達に合流する。

「……フョードル、使徒だ」

柚は驚愕を露わに呟いた。

「え?」
「あの中に使徒の気配がある。けど、誰だ……?固まっていて特定出来ない」

口惜しそうに、柚は唇に爪を立てる。

消費された力は、多少の睡眠では回復しない。
気を抜けばいますぐにでも眠ってしまいそうだ。

「フラン、焔。聞こえるか?」

通路を移動中、何度も無線で呼び掛けた相手へと、柚は再度呼び掛けた。

あの二人がそう簡単にやられるはずがない。
だが、化学兵器と思しき物が使用されたのであれば話は別だ。

『ゆ、ず……?』
「フラン!よかった、フョードルも無事だ!そっちは大丈夫か?」
『すみません。僕も状況が……急に体がしびれて……中は、明議員は大丈夫ですか?すぐそっちに行きます』

苦しそうなフランツの声が返ってきた。

自己治癒のないフランツが、すぐにこちらに到着するなど不可能な話だ。
ましてや戦力になるかも怪しい。

「フラン、これは毒ガスか何かの影響と考えていいのか?」
『ええ……』
「なら、撒かれたものを風で吹き飛ばすことは出来ないのか?」
『っ、無理です!ガルーダ尉官ならまだしも、僕程度の力じゃ無理です!』
「……なら、私は?」
『え?』
「雨を降らせて、毒素を沈静化させられないか?」
『それは……使用されたものにもよると思いますけど……でも止めて下さい。あなたも使徒の気配を感じているでしょう?みすみす居場所を知らせることになります。それに、一度体内に吸収されてしまったものは、僕達にはどうしようもありません』
「じゃあ、どうすれば……」

柚がはっと顔をあげる。

男達がステージに向かっていた。
ステージ上では、先程慌てて駆けていったボディーガードと、まだ動けた黒人のボディーガードが、動けない明の腕を肩に回して男達から逃がそうとしている。

先程柚達を馬鹿にした男達だ。

柚は前方を見据え、唇を引き結んだ。

「フラン、行く。フョードル、お前はここに残れ」
「私も戦います!」
『駄目です!あなた達は動かないで!あなた達に何かあったら――』
「悪い、フラン。けど私は、明議員を護る為に呼ばれたんだ」

黒いスーツの男達がステージ上に上がろうとした瞬間、炎が男達の前に壁を作った。

(焔!何処だ……)

柚が周囲を見渡すと、ステージの下で刀を地面に突き立て、やっとの思いで倒れそうになる体を支えている焔の姿を見付け出す。

焔は自由にならない体に舌打ちを漏らした。

手足が痺れ、力が入らない。
今は辛うじて刀に掴まっていられるが、握力ももはや限界だった。

「はや、く……早く連れて行け!もたねぇぞ!」

焔は、驚いて足を止めている壇上のボディーガード達に怒鳴る。

頭の中が気持ち悪いほどに痛む。
非常に良くない状況だという焦りが、波のように押し寄せていた。

観客も皆、椅子や地面に倒れこみ、壇上に居た者達が辛うじて動ける状態だ。
もし、敵が標的を観客に変えたら、この人数を護る方法などないに等しい。

統率されていない革靴の足音が、こちらに向かってくる。
銃口が向けられると、焔の頬を嫌な汗が伝い落ちていく。

焔は意地で足を奮い立たせ、立ち上がろうとした。
その時……

「焔!」

柚の叫び声が響き、水の刃が焔と男達の間をすり抜ける。
柚とフョードルが焔に駆け寄ると、柚はステージ上に一瞥を投げた。

ボディーガード達が、自分達ですらままならない体を必死に動かし、移動している。

柚は曇り空を見上げ、小さく手を上げた。
ぽつぽつと、しっとりした霧雨が降り始める。

「フョードル、あの人達の手伝ってくれ。明議員を頼む」
「はい!」

フョードルが舞台の上へと駆けて行くと、柚は後ろに立つ焔へと肩越しに振り返った。

「立ってるのもやっとって顔してるぞ?焔は休んでれば?」
「はんっ、よく言うぜ」

雨を降らせながら、柚が焔に意地の悪い笑みを向ける。
弱気になり掛けていた焔が、炎の壁を消し、口元を吊り上げて刀を抜いて構えた。

「一応言うが、銃を下ろして手を上げろ」

柚の声が、雨の音に静まり返った会場に響く。
リーダーと思しきスキンヘッドの男が口角を吊り上げた瞬間、右手を上げた。

一斉に銃が火を噴き、柚達に向けて弾丸が襲い掛かる。
焔が掌を翳すと同時、炎が地面から空に向けて吹き上げ、二人の目の前で鉛球を焼き焦がした。

柚が片膝を付いて地面に手を付き、地面へと力を送り込む。
水は水飛沫を上げながら地面を突き進み、男達の足元で氷の刃のように姿を変えて襲い掛かる。

その瞬間、柚は小さくうめき声をあげて手を引いた。

自分が送り込んだ力の中に別の力が入り込み、相殺する。
水が霧散する中、柚は一人の男を睨み据えた。

「お前か……」

スキンヘッドの男の隣に立つ、周囲から浮くほどに華奢な青年だった。
チョコレートのような髪色をしており、その表情は何処か頼りない雰囲気を感じさせる。

「……っ」

青年がおどおどとした様子で柚から顔を逸らす。

柚は迷うことなく地面を蹴った。
前列の二人の男達が、ぎょっとしたように上体を引きながら、銃口を向ける。

照準に捕らわれぬよう、柚は左右に走り抜けながら、振りかぶった右手に水を集めた。

柚の掌の中の水が鋭い刃へと姿を変える中、男達が焦ったように銃の引き金を引く。
銃弾は走る柚を捕らえきれず、地面に跳ねた。

その瞬間、柚がはっとした面持ちで急ブレーキを掛け、後方に手を翳す。
跳弾した弾が、通路側で赤ん坊を抱きしめていた母親の方へと飛んで行く。

危機を察した母親が子供を抱く腕に力を込め、首を竦めながら顔を背ける。

その瞬間、柚の力が母子を守るように水の壁を生んだ。

分厚い水の壁の中へと弾丸が潜り込む。
水の中で少しずつ速度を落としながらも、弾丸は水中を突き進んでゆく。

(まずい!押さえきれない!)

咄嗟に張った水は、弾丸を食い止めるほどの強度がなかった。
柚は全身を強張らせながら、祈るように力を込める。

(止まれ!)

思わず、手を握りこんでいた。

潰れた弾丸の頭が水の中から顔を出す。
ゆるゆるとした回転と共に、力尽きた弾丸は、母子の足元に転がり落ちた。

柚がほっとした瞬間、足に激痛が走り、柚は苦悶の表情を浮かべて地面に転がり込んだ。

「く、うっ――…」
「柚!」

焔が叫び、柚に駆け寄ろうとしたが足に力が入らず、地面に倒れこむ。

「く、そっ!柚!」

柚の太腿から赤い血が広がってゆく。
柚は血が溢れる足を手で押さえながら、唇を噛んだ。

全身の力が傷口に集中していく。

(これは、まずい……)

目が霞み始めた。
ただでさえ消耗していたところに、追い討ちを掛けるように力が急速に吸い上げられてゆく。

抗う術もないまま、意識は眠りへと落ちて行こうとする。

焔の声が聞こえた。
それはパーベルの精神世界に閉じ込められたとき、ハーデスの声が道になったように、意識を繋ぎ止める唯一の頼りだ。

一瞬、意識が完全に飛んでいた。
次の瞬間、近付いて来る足音にはっと体が強張り、柚は必死に瞼を起こし、体を捻る。

水の刃が使徒の青年の首元を掠めた。
青年が驚いたように、首からぽたぽたと流れ始めた血に触れる。

「無駄な抵抗はしないで」
「っ……」
「でないと……」

青年は悲しそうな面持ちで、柚が守った母親に銃口を突き付けた。
青褪めながら震える女性は、声も出ないほどの恐怖に震えている。

柚は小さく、口角を吊り上げた。

「撃てないくせに……」

根拠はないが、彼の顔を見た瞬間、確信のように感じていた。

彼の答えを聞く前に、柚は後ろからスキンヘッドの男に頭を殴り付けられる。
どの道、柚自身も意識を保つことが限界だった。

痛みが遠い。
手足の感覚が完全になくなっている。

闇の中に落ちていくように、柚の意識はそこで完全に途絶えた。



ステージを照らすライトや配線が取り付けられた屋根裏の上で様子を見ていた男は、くすくすと笑いながら目を細めた。

悠然とした微笑みは、決して嘲笑ではない。
薄く笑みを浮かべる唇は艶やかに弧を描き、その中で、慈愛を感じさせる瞳は男が持つ特有の雰囲気を醸し出す。

「エヴァを守るのではなかったのかな……アスラよ」

男は穏やかな声音で呟き、音もなく舞うように……
地上に向けて踏み出した。





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