27


地下の出入り口から見える曇り空を見上げ、柚はため息を漏らした。

今にも雨が降り出しそうな空だ。
こんな天気の日は気分が晴れない。

柚が緊張しているフョードルに声を掛けていると、フランツと会場の下見に行っていた焔が先に戻ってきた。

「お疲れ。フランの様子、どう?」

焔は無言で肩を竦め返す。

フランツは昨日から、目に見えて緊張している。
朝も、食事など喉を通らない様子で、マニュアルを読みながらぶつぶつと呟いていた。

「フランの胃に穴が開く前に、何事もないまま終わればいいけどな」

柚は腕を組み、小さくため息を漏らす。

すると、耳に付けている無線から連絡が入った。
柚は焔と顔を見合わせ、「さて」と呟きを漏らす。

本日の主役の登場だ。

貸し切られた会場の地下駐車場に、車が数台流れるように進入してくる。

車の後部座席のドアをボディーガードが開けると、オールバックの男が姿を現した。
男は三十代後半のいでたちで、若さに溢れた爽やかさを感じさせる。

柚がぼそりと呟く。

「あれが、今日の護衛対象?」
「明議員はおば様方に人気の議員です。けど、私生活での女性関係が派手なことでも有名ですね。大物政治家の娘や奥さんに手を出したとか言う噂もあるくらいで、前回の選挙ではぎりぎりで当選したらしいです。今回も必死でしょうね」
「おいおい、今回の脅迫、そっち関係で買った恨みが原因じゃないだろうな……」
「だったら、私は今すぐ帰りたい」

戻ってきたフランツが説明を挟むと、焔と柚が明に半眼を向けた。

すると、明がボディーガード達の後ろに立っていた柚達に気付き、にこりと愛想の良い笑みを浮かべる。
ボディーガード達が道を開けた。

「やあ、やあ、宮君。西並君も来てくれたのか!よく来てくれた、明です。君の活躍はいつも見させて貰っているよ」
「初めまして、宮 柚です。今日一日、よろしくお願いします」
「後で、応援に他の先生方も駈け付けてくださる予定なんだ。こちらこそよろしく頼むよ」

愛想良く告げる明が、護衛に囲まれて去っていく。
柚は小さく息を吐いた。

(ああ、この人……)

明は一瞬――初対面の相手と交わす事が癖なのだろか――握手の手を差し出し掛けた。
だが、結局明は手を差し出さなかった。

当然ではあるが、使徒を嫌っている人間は極力触れてこないものだ。

(あんまり良くは思われてない、のかな?)

利用されているなと思いながらも、結局は利用され続けることしか出来ない。

「柚、ボディーガードの人達と最終確認しますよ」
「あ、うん」

フランツに呼ばれ、柚達は控え室のほうへと小走りに向かった。

野外会場のステージ前には、すでに人々が集まっている。
若い子連れの母親から、杖を手にした老人、明を応援するグッズを手にした主婦の集団。
選挙権はまだないにも関わらず、携帯を手にした学生の姿まである。

「えっ、学生?私、政治なんて興味なかったのに」
「あの方々はどちらかというと、柚殿と焔殿のお姿を携帯のカメラに収めることが目的の方々ではないでしょうか」

会場を映す防犯カメラの映像を覗き込み、驚く柚にフョードルが告げた。

すると、ボディーガードの者の内の一人が眉間にしわを寄せて吐き捨てる。

「まるでアイドル扱いだな」
「おい、止めろよ」

同僚が慌てたように仲間を宥め、ちらりと柚達の方を見て目を逸らした。

「ふんっ、精々こちらの仕事の邪魔をしないで貰いたいな。こっちは遊びに来てるわけじゃないんだからな」
「こっちだって遊びに来てるわけじゃないっての」

むっとした柚が、男とは反対の方を見ながらぼそりと吐き捨てる。
ボディーガード側のリーダーと話をしていたフランツが、柚に振り返り、小声で咎めた。

今度は奥の方で、口の周りにひげを生やした黒人の男と、小柄な黒髪の男がわざと聞こえる声で告げる。

「大体、アース・ピースは何を考えてるんだ。よこしたと思えば皆未成年じゃないか、舐めてるのか?」
「知名度が先走ってるお飾りの奴等と、役に立たないから作戦から外された連中だろ」

焔と柚の額にぴくりと青筋が走った。
フョードルが慌てて二人の前に立ち、「落ち着いてください」と宥めに入る。

すると、明の秘書が慌しく部屋に顔を出す。

「先生の方の準備が整いますので、そろそろお願いします」

ボディーガード達が部屋を出て行った。
ボディーガード達に続いて部屋を出ようとすると、フランツが二人に念を押すように、「お願いしますよ」と告げて先に出て言く。

フランツとフョードルが会場の出入り口付近の警備に当たり、柚と焔は明本人が見える位置での警護を任されることとなった。

柚と焔が並んで立っている姿は、観客席からもよく見える。
開演前の時間を持て余す人々が、これみよがしに携帯のカメラを向けてシャッターを切り、声援を送ってきた。

警備員達が、観客席を出てこちらに来ようとする人々を、体を張って押さえ込んでいる。

名前を呼ばれるたびに、柚はぎこちない笑みを浮かべて手を振り返した。

何処からともなく、女子高生が「焔くーん」と黄色い声援を送ってくる。
反応を返さない焔を柚が肘で軽く小突くと、焔は嫌々ながら軽く頭を下げて返す。
途端に、「きゃー!」と甲高い声が鼓膜を貫く勢いだ。

「もてもてだな、焔君」
「うるっせぇ……」

赤くなった顔を背ける焔に、柚がにやにやと笑う。

だが、会場は穏やかとは言い難い。
真剣に演説を聞きに来ている者たちにとって、柚や焔を目当てに訪れた人々の声が雑音以外のなにものでもなかった。

演説が始まってもそんな声が響いてくると、さすがに周囲の苛立ちが伝わってくる。
仕舞いには、秘書が柚と焔に、観客から見えない位置に移動するようにと指示をしに来た。

柚と焔にとっては有難い指示だ。

職員用の通路の中に入って初めて、焔は柚の異変に気付いた。
柚は呼吸が苦しそうに息を吐き、壁際に手を付く。

「なんか……体が重い」
「は?」

焔が眉を顰めて柚の顔を見た。

「具合悪いのか?」
「そうなのかな、なんだろ……急に」

声が小さくなっていく。
それはまるで、柚の声が遠退いていくような気がした。

「おい柚!」

焔は、壁に凭れて座り込んでしまった柚の腕を掴みながら、焦ったように周囲を見渡す。
無線に手を掛け、焔は声を抑えながらスイッチを押した。

「フラン」
『はい?』
「柚がいきなり体調不良を訴えた」
『え?どういう症状なんですか?意識は?』
「意識は今のところある、けど立っていられない状態だ」

焔は柚に視線を向け、早口に返す。
暫し、フランツからの返答が途絶えた。

『分かりました。柚を控え室に下がらせます。こちらからフョードルを柚の迎えに行かせるので、あなたはその位置の警備を続けてください。ボディーガード側にはこちらから連絡を入れておきます』
「あ、ああ。頼む」

フランツの声には、何故こんなときにと言いたげな苛立ちが含まれる。
焔が柚を揺さぶると、柚が重そうに瞼を起こして呻く。

「おい、柚。聞こえるか?大丈夫か?」

柚は小さく頷き返すが、柚の目は虚ろで、体からは完全に力が抜け落ちていた。
困惑しながら、焔は焦れた思いで通路へと振り返る。

(さっきまで普通だったぞ?ああ、くそっ。フョードルの奴、さっさと来いよ!)

程なくして、通路にフョードルの足音が響いた。
血相を変えたフョードルが、おろおろと柚の顔を覗きこむ頃には、柚は完全に反応を返さなくなっていた。

「一体、どうしちゃったんでしょう!」
「わかんねぇよ。とにかく横にして様子見て、駄目なようなら医者に診せるしかないだろ。頼んだぞ」
「はい!」

柚を背中に背負い、フョードルが再びバタバタと走り去って行く。
控え室の方に何度も振り返りながら、焔の内には言葉に出来ない不安が広がり始めた。



フョードルは控え室に柚を抱え込むと、応急的な診断を施した警備側の人間に迫った。

簡易ベッドに寝かされた柚の顔色は悪い。
だがフョードルには、柚がただ眠っているようにしか見えなかった。

「柚殿は大丈夫なのでしょうか?」
「どうと言われても知らんよ。俺は医者ではないからな」
「では、大至急救急車を!」
「馬鹿言わないでください!先生の演説中にそんなもの呼べるわけないでしょう。全く……任務中に倒れるとは役に立たない」

秘書がフョードルを睨み付ける。
フョードルはむっとしながらも柚の手を握った。

すると、柚が呻き声と共に薄く瞼を起こし、小さく唇を震わせる。
フョードルは身を乗り出し、柚へと声を掛けた。

「柚殿?気付かれましたか!大丈夫ですか?」
「ほ、むら……」
「私はフョードルですよ。今すぐに――」
「まずい、もど……て」
「え?ですが柚殿、今戻っても……」

頭を抑えながら、柚が体を起こす。

フョードルが見る限り、先程よりは柚の顔色が落ち着いてきている。
何度か呼吸を整えながら、柚はやっと顔を上げた。

「急いで上に連絡してくれ!自己治癒が働いてる、ハーデスの毒を取り込んだときと同じ症状だ」
「え?それって……」
「誰かが、会場に人体に有害な何かを撒いた可能性がある」

フョードルとボディーガードの顔色が変わる。
秘書が声にならない声を漏らし、内線の受話器を掴んだ。

「こちら控え室。不振な人物がいないか、至急確認を!何かが撒かれた可能性がある!」

フョードルの肩に掴まり、柚が簡易ベッドから立ち上がる。
ボディーガードが仲間の無線に呼びかけながら、外へと駆け出していく。

「お、応答がない……」

秘書は、愕然とした面持ちで返答のない受話器を見詰めていた。





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