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焔がはっとした面持ちで目を見開く。
慌てて柚から手を放した。

「ぁ、いや……今のは、ハ、ハーデスの奴のことで……」

焔は自分の頬が赤く染まっていくのを感じる。
おろおろとしながら言葉を探す焔に、柚が目を瞬かせ、ぎこちなく笑みを浮かべた。

「え?あ?ああ。びっくりした。だ、だよな、あはは、はは……」

柚の笑い声が止まると、二人の間に気まずい沈黙が流れる。

(あ、あれ?何故こんな気まずい雰囲気?本気にとっちゃったみたいじゃないか。え、えっと、なんとかこの場を和ませないと……)

と、柚が必死に会話を探す隣で、焔は後悔の念に駆られていた。

(勢いに任せて何言ってんだ、俺!?気まずい、もの凄く気まずい、いっそ死にたい)

そんな二人の後ろからジョージの怒声が響き渡った。

「お前等!俺の講義をボイコットとはいい度胸だ!」

こちらに猛進してくるジョージは鬼の形相だが、その存在は今まさに、天の助けとも言える。
二人が顔を輝かせてジョージに振り返ると、怒っていたジョージの方がぎょっとして、思わず足を止めた。

「きょうかーん!聞いて聞いて!」

柚が勢い良くジョージに抱き付く。
怒りに任せて突っ走ってきたジョージが、柚のタックルを受けて壁に激突し、頭が派手な音を立てる。

「フランと仲直りしたんだ!」
「何!そうかそうか、そいつはよかったな」

頭にたんこぶを作り涙目になりながらも、ジョージは自分のことのように嬉しそうに笑みを浮かべた。

「だが、それとこれとは別だ!明日、お前等は訓練前に訓練室を一時間走っておけ!」
「鬼ー!?」

柚が悲鳴をあげる。
すると、ジョージは意味ありげに「ほう」と口角を吊り上げた。

「お前等が今日さぼったこと、元帥に報告しないでやった俺のどこが鬼だ?」

柚が動きを止め、一瞬ジョージから顔を逸らす。
焔は軽く片眉を上げ、むすっとした面持ちでポケットに手を突っ込んだ。

「ただし、お前等がテスト勉強に真剣に取り組むことが条件だ。今回だけだぞ、次からは報告するからな」
「え……てすと?」

柚がきょとんとした面持ちで首を傾げた。
ジョージが頭を抱える。

「おーまーえーはァ、この間言っただろ!!」

ジョージに怒られる柚を、通り掛った玉裁がにやにやとしながら通り過ぎていった。





机と向かい合っている内に、イカロスは自分が気付かぬ内にうたた寝をしてしまっていたのだと気付いた。

イカロスの夢は、夢ではない。
自身の中に閉じこもる時が、最も心が安らぐ。

だが、心と体を休めるはずの睡眠を苦痛に感じ始めたのは、そう最近でもない。

眠りにつくと、それがチャンスとばかりに、イカロスはいつも自身の中をさ迷い歩いていた。

ここはパーベルのように、真っ白で無垢な世界ではない。

空はどんよりとした鋼色。
空から黒い水が、一滴一滴降り注いでいた。
それが蓄積され、地面はどろどろのコールタールの沼のようだ。

歩き回るだけでも、イカロスの精神を疲弊させる。

暫く歩いていると、闇の中に幼い自分が膝を抱え、ぼんやりと座り込んでいた。

コールタールのような水が、座り込むイカロスの腰の辺りまで覆い尽くしている。

「!」

イカロスは思わず歓喜した。

イカロスは必死に水を掻き分け、駆け足で進む。
粘度の強い水は足に絡みつき、足取りに鈍らせた。

(やっと見付けた)

イカロスは幼い自分の前に到着すると、荒い呼吸を繰り返す。

まるで宝物を見付け出したかのような気分だ。
その顔には、無意識に笑みが浮かぶ。

(これで……)

瞬きすらせずに座り込んでいる幼い自分を、水の中から引き摺りだした。
人形のように無反応だが、まるで足に根を張っているかのように、子供とは思えないほどに重い。

眉を顰めて足元を見下ろすと、黒い水が無数の人の手のように子供の華奢な足を掴んでいる。

それは見覚えのある顔をした人の形になり、イカロスに向けてにやりと笑う。

「……ふん、どこまでも……」

手を払うと、水が砕けて飛び散る。
飛び散ったところから、また手が伸び、人の姿になってゆく。

イカロスは幼い自分を抱えたまま、衝撃波で泥人形を吹き飛ばす。

自身の精神世界だ。
思い通りにならないことの方が少ない。

(とはいえ、きりがないな)

何処か遠くから声が響く。
泥人形を蹴散らしながら進むイカロスは、その声を完全に聞き落としていた。

イカロスは自分が来た方向へと走りだす。
重い水音が響き、体力ばかりが奪われて行く。

イカロスが泥人形達に振り返った瞬間、目が眩む眩い閃光が走った。

「ス……」
「っ!?」
「イカロス」

はっと顔を起こすと、アスラが隣に立っている。

「っ!ぁ……」

イカロスは自分の腕を見下ろし、愕然とした。
何も"抱いていない"。

「なんてことをしてくれたんだ!」
「?」

思わずアスラに怒鳴ってしまった。
だが、アスラがそれについてどう思おうと関係ない、こちらは泣き出したい気分だ。

アスラが眉を顰める。

「あと少しだったのに!」
「何の話だ」
「ああ、くそっ!」

まるで、失くしたものが落ちていないか捜すかのように、イカロスが視線を部屋中に彷徨わせた。

何度見ても、ここは見飽きた自室だ。
喪失感は計り知れない。

「やっと見付けたのに、君が俺を起こしたから!」
「イカロス、話が見えない。大体、居眠りをしていて随分な言い草だな」

落ち着けと言いたげに、涼しげな声が返ってきた。
それがより一層、イカロスの感情を逆撫でする。

苦虫を噛み潰したかのような顔で頭を抱えると、イカロスは横目でアスラの顔を見た。

「……何か用かい?」
「報告書がお前で止まっていたから、回収に……」
「はっ!見え透いた言い訳だ」

イカロスが馬鹿にしたように、大袈裟に両手を広げてみせる。

「彼女のことを聞きに来たんだろう?くだらない」

アスラが目に見えてむっとした表情になった。

思わず笑ってしまいたくなる。
自分でもそう思っていたくせに、何を怒るのだ――と。

「もううんざりだ、疲れるよ!何でもかんでも俺を頼るな!俺がいなくなったら、君はどうする――」

全てを言葉にする前に、イカロスが口を押さえて咳き込み始める。
アスラが何かを言おうとすると、イカロスはアスラに背を向けるようにして机に伏せながら、アスラの動きを手で制した。

肩でしていた呼吸が落ち着き始めると、イカロスは重そうに、机に伏せていた上体を起こす。

緩やかな癖のある髪が、俯くイカロスの横顔を隠していた。
こちらに目も向けず、イカロスが小さく開いた唇から空気が抜けたような呼吸だけが漏れる。

アスラ自身、驚きに、次の行動に移れずにいた。

「イカロス……」
「ごめん、少し……疲れていたようだ」

遮るようにイカロスが告げる。
いつも通り、穏やかな口調のイカロスは、アスラを嘗てないほどに安堵させる。

「……そのようだな。報告書は明日でいい、今日はもう休め」
「……ありがとう、アスラ。そうさせてもらうよ」

顔を上げたイカロスが、ぎこちなく笑みを浮かべようとして、失敗した。





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