24


柚は鼻を啜りながら、「はぁ」とため息を漏らした。

外れの渡り廊下は人通りもなく、部屋にいるときよりも落ち着くことが出来る。
生い茂った若葉が影を作り、今は少し肌寒い。

(目、腫れそう。嫌だな、これから講義あるのに……)

柚は膝の上に顔を埋め、瞼を閉ざした。

(もう、さぼっちゃおうっかな……)

すると、廊下からバタバタと走る音が聞こえてきたかと思うと、急ブレーキを掛けるように足音は背後で止まり、荒い呼吸音が聞こえてくる。
柚が振り返ろうとするよりも早く、息を吸い込む音と共に、「ごめんなさい!」と謝罪が降った。

柚は目を瞬かせ、後ろで深々と頭を下げているフランツを見上げる。

「え……?」
「え?」

きょとんとした面持ちの柚に対し、フランツも首を傾げた。

「え?は?えっと……何が?」
「いえ、だって……柚が僕のせいで泣いてるって、焔が怒鳴り込んできて……」
「え?」
「は?」

二人は互いに首を傾げ合う。
すると、壁の影からこちらを覗いている焔とフョードルの二人と目が合った。

柚は頬を掻き、「えっと……」と言葉を濁す。
すると、フョードルがわたわたとしながら、振り返るフランツと柚に訴えた。

「あ、いえ、私がいけないんです!柚殿と親しい焔殿になんとかしてもらおうと思ったら、焔殿がフランツ殿のお部屋に向かって行って、それで……」
「は!俺のせいかよ!つーか、お前じゃなきゃ原因なんだよ」

焔が赤くなりながら小声で反論する。

「……原因は、少なからずフランじゃないけど……」
「で、ですよね!そういえば、柚殿はデーヴァ元帥の名を呼んでおられましたし!」
「てめぇ、そういうことは一番最初に言えよ!恥掻いたじゃねぇか、ちょっと殴らせろ」

自分の勘違いに気付いた焔が、フョードルの胸倉を掴み睨み付けた。
平謝りするフョードルと焔を見やり、フランツは肩の力を抜きながら、小さく笑い始める。

そんなフランツを、柚は泣き濡れた瞳でぼんやりと見上げた。

自分が泣いていると勘違いして、あんなに必死に駆け付けてくれたのだ。
嫌われたわけではないと、思っていいだろうか?

「よかった。僕が泣かせちゃったのかと思いました……でも、僕も反省する点はありますし……ごめんなさい」
「違うんだ。ちょっと別のことで――」

皆の優しさが胸に沁みる。
止まりかけていた涙が、ネジを失くしたように再び溢れてきた。

言葉に詰まる柚を見て、フョードルが気を利かせ、ハンカチを濡らしに戻る。
柚は涙を見せないように膝に顔を埋めたまま、焔に抗議の声をあげた。

「大体焔、私が訓練途中で抜けたの知ってるだろ?」
「……そういや、いなかったな」
「あー、そう。焔にとって私の存在感なんてそんなもんなんだ」
「そっ、そんなの一々気にしてられるかよ!」

半眼を向ける柚に、焔はばつが悪そうにふいっと顔を背ける。

フョードルが息を切らせて戻ってくると、微妙な空気が漂う三人の顔を見やり、柚に遠慮がちにハンカチを差し出した。

柚はお礼を言ってハンカチを受け取ると、泣き腫れた目を覆う。
身が竦むような冷たさだが、熱い瞼にはちょうどいい。

「で、結局誰のせいなんだよ」

少し距離を置いて壁に凭れた焔が、焦れたように問い掛けた。
「アスラのせいか?」と出掛けた言葉は、喉の奥に詰まる。

「……ううん」

柚はため息を漏らし、三人に振り返った。
その瞳に睫毛が影を落とす。

「一昨日の夜、ハーデスと部屋で一緒に寝たって言ったら……皆はどう思う?」

後ろで焔が噴出すように咳き込む。
そんな焔を横目で見やり、フランツは頬を掻いた。

「まあ、ハーデスとなら何もなかったでしょうが……」
「うん……」
「馬鹿かお前!」

フランツの言葉を押し退けるように、焔が怒鳴る。
柚は首を竦め、焔を見上げた。

「あいつはお前のこと好きなんだろ!そんな相手と二人きりになって、お前もう少し警戒心持てよ!何かあってからじゃ遅いんだぞ!」

息を付かずに捲くし立てた焔に、思わずフランツとフョードルが小さく拍手を送る。
すると、柚の瞳に再びじわりと涙が浮かんだ。

「あ、焔が泣かせましたね……」
「ち、違う。そうじゃなくて……皆は私の言葉を信じてくれるんだ、って……」
「なっ、何だよ!お前が違うって言うんだから、信じるもなにもねぇだろ」

いぶかしむように、焔が柚の顔を見やる。
柚は俯きながら涙を拭うと、不服そうに口尖らせた。

「……違うって言ってるのに、全然信じてもらえなかった」
「……」
「それどころか、話すら聞かないで言い訳するなって……それって、私のこともハーデスのことも、信用してないってことだよな?」

拗ねたように告げる柚に、焔とフランツが顔を見合わせる。
フョードルが、「何処の誰だか知りませんが、柚殿があんまりです」と、今にも貰い泣きをしそうだ。

「とやかく口出ししたくはないけどな……」

焔が長いため息を漏らし、頭を掻いた。

「前々から思ってたけど、いくらお前にそういうつもりがなくても、お前ももう少し考えて行動するべきなんじゃないのか?」
「……考えてって?」

柚が不機嫌に訊ね返す。
まるで相手の味方をするのかと責めるような目に、焔はたじろぎそうになる。

「だから、ハーデスは一応男だろうが。普通の奴は、男と女が夜、同じ部屋で二人きりって言えばそう勘繰るだろ」
「そういう考え嫌だ。なんで、皆すぐそっちに考えるんだよ」
「嫌って言ったってしょーがねぇだろ。俺のせーじゃねぇよ」

物分かりの悪い柚に呆れたように、焔が眉間にしわを刻んで返す。
柚はむすっとした面持ちのまま、膝の上に顎を乗せて黙り込む。

「言っとくがソイツの肩持つわけじゃねぇぞ。まあ、頭ごなしに決め付けるソイツも悪いとは思うが、けどハーデスの奴じゃそういう常識知らねぇだろ」
「そうですね。もし研究所で育った人なら、そういう目的以外で男女が一緒の部屋に寝ることの意味が分からないでしょうし」
「お前は油断しすぎだ」
「……」

焔とフランツの言葉に暫し黙り込むと、柚は膝を抱き込むようにして顔を埋めてしまう。

「……確かにそうかも。……分かった、ちょっと不満ではあるけど、後で一応謝ってみる。でもなんか悔しい」
「何が」
「焔がまともなこと言ってる」
「どういう意味だ、こら」
「だって……焔はいつも誰彼構わずに喧嘩売って歩いてるのに」
「歩いてねぇよ!?」
「焔が怒ったー!」

二人のやりとりに、いつの間にかフランツとフョードルがくすくすと笑っている。
柚が顔を上げると、はっとした面持ちでフョードルが謝罪を口にした。

「すみません。お二人は本当に仲がよろしいなと思いまして……」

フョードルの言葉に、柚は小さく口を開く。
開かれた口は一度閉じ、視線がゆっくりとフランツを一瞥した。

「……ううん。フランがいなきゃ……駄目なんだ」

静かに首を横に振り、柚は泣き腫れた目をしながら肩を竦める。

「焔と二人じゃ全然会話にならん。私の話なんて全然聞いてないで適当な相槌ばっかりだし、歩いてても全然歩調を合わせてくれないし……フランがいないと駄目なんだ」
「……」

フランツが声なく柚の名を呟いた。
フョードルがゆっくりとそんなフランツを見上げる。

柚は座ったまま、フランツの手を掴んだ。

「今日は、一緒に夕飯食べてくれる?」
「……」
「後、明日の朝とお昼も、夜も……それと、ずっとその先も……」

フランツは柚から顔を背けるようにして、自由な手で顔を覆う。
引き寄せられるように膝を折り、柚の隣にしゃがみ込んだ。

言葉なく、フランツは小さく頷き返す。

柚は、一人で落ち込ませてもくれないのだろうか?
だが嫌な気はしないのだ。

自分の返事に、きっと嬉しそうに笑っているであろう柚の顔を見る事は出来ない。
手で隠しきれない頬が、耳が、まるで夕焼けのように赤く染まる。

(ああ、本当にこの人は……)

口元が、何かを堪えるように微かに震えた。

(――あなたの勝ちですよ、柚)

さわやかな風が、呟きを風に乗せて連れ去る。
ピンクの瞳を瞼で閉ざし、フランツは自然の流れに身を任せることにした。


その日、柚はジョージの講義を始めてさぼった。
誘ったわけでも、行っていいと促したわけでもないが、焔は何も言わずにいつも通り、少し距離を置いて傍にいる。

フランツとフョードルが戻り、どれくらいの時が経ったか……
コンクリートの床に寝転び、しばらく空を流れる雲を見詰めていた。

ぼんやりと過ごす柚にとっては短い時間だったが、焔にとっては長く感じたかもしれない。
それくらい、柚にとっては無に等しい時間だった。

空を見上げていた柚は、ゆっくりと焔に顔を向ける。
瞼を閉ざした焔の横顔が見えた。

「そういえば、やっぱりあの時……聞こえてたんだな」
「は?」
「ハーデスの」
「あ、いや、たまたま……わ、わざとじゃねぇぞ!」
「私、正直ショックだったんだ」

焔がぎくりとする。
柚は何処か遠くを眺め、ぼんやりと呟いた。

「ハーデスってああいう性格だから、こんな言い方失礼だけど、アンジェやライラみたいに年下に感じて、好きって言われて、なんだろ……考えもしなかったっていうか……」

憂鬱そうに、柚がため息を漏らす。

長い沈黙の後、水面に雫を落としたように、ぽつりと言葉が紡がれた。

「……このままじゃ駄目なのかな」
「は?」

焔が眉を顰め、柚の顔を見下ろした。

「仲間のままじゃ駄目なのか?」
「……」
「私は皆と、今のままの関係でいいんだ。私が誰かを好きになったら、それだけで今の関係が壊れそうで恐い」

彼女は悲しい顔をして語る。
一言一言を、焔は受け止めるように聞き入った。

柚は逃げている。
今の関係を壊そうとする者から、決着を付けるでもなく、逃げる道を捜していた。

彼女の気持ちは分かる。
だが、胸の内に浮かぶのは賛同ではなかった。

「それでも……俺は、このままなんて無理だ」

柚がゆっくりと焔を見上げる。
彷徨う瞳は、心細そうに揺れていた。

ただ静かに、「そうか」と返される呟きは、二人の距離を感じさせる。

柚は反動を付けて上体を起こすと、掌の中で乾いたハンカチを見下ろした。
次に柚が顔を上げると、柚は下手な空元気の笑みを自分に向けてくる。

「寒くなってきたな。今何時だろう?講義の時間は過ぎてるだろうし、怒られるよな……。付き合わせて悪かったな、事情は私が説明するから。とりあえず顔だけ出す?」

立ち上がり、スカートの砂を払う柚を、焔は腕を組んだままただ何も言わずに見ていた。
ただ、苛々だけが焔の中に募る。

柚がそんな焔の前を通り過ぎた。
太陽が雲に隠れる。

柚は建物の中に入ると、ぴたりと足を止め、わざとらしさすら感じるようなぎこちない態度で口を開いた。

「あ、そういえば……」
「?」
「ハーデスの好きって、多分恋愛の好きじゃないんだ。母親の代わりを求めてるんじゃないかなって――」

柚の言葉は、壁に拳を叩きつけた焔に遮られた。
柚が驚いたように目を見開きながら振り返り、息を呑む。

「そんなの、お前がそう思いたいだけだろ!」

焔は俯いたまま、激しく叫んだ。
鼓膜を震撼する鋭い声に、心臓が跳ね上がる。

肩を掴み向かい合わされると、言葉を忘れたように、柚は目を見開いたまま焔を見詰めていた。

「お前のこと好きなんだよ!」

掴れた肩が痛いと感じた。
だがそれよりも、向けられた瞳から目を逸らせず、呼吸すら忘れる。

真っ直ぐとした黒い視線。
揺るぎない強さの中に、縋るように訴える弱さが揺らぐ。

何も考えられず、ただ"どうして分かってくれないのだ"と訴える焔の顔に視線が釘付けになった。





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