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仕度を終えてフランツの部屋の前に立つと、柚は逃がすまいと焔の腕を掴みながら、インターフォンではなくドアを軽くノックした。
遠慮がちに声を掛けたが、返事どころか物音すら返ってこない。

柚は焔と顔を見合わせ、ため息を漏らした。

「だから言ったろ」
「そうだな……」

二人で食事を終えると、早朝の自主トレーニングを終えたフョードルが食堂に入ってくる。

柚達とフョードルの生活時間はなかなか合わない。
まず、規定訓練の時間帯が違えば講義の時間も違う。
さらにフョードルは、暇さえ見付ければトレーニングか勉強の毎日だ。

「おはようございます。今日はフランツ殿はいらっしゃらないのですか?」

不思議そうに首を傾げるフョードルに悪意はない。
柚は「うん、今日は」と苦笑を浮かべて返した。

食堂での食事中、先に食事を終えたライアンズにも訊ねられた言葉だ。
曖昧に返す柚の態度で、ライアンズは何かあったのだと察した様子だったが、フョードルは純粋に誤魔化されている。

「じゃあ、悪いけど私先に行くな」
「いえ、お気になさらないでください」

はきはきとした口調でフョードルが見送った。
焔がその後に続こうとして、食堂のドアの前で柚が足を止めたことに目を留める。

食堂の前の廊下を、アスラが横切った。

「あ、アスラ。おかえ――」

柚が声を掛けると、アスラが横目で柚に一瞥を向ける。
その視線は瞬きと同時に柚から逸らされ、人形のように端整な顔は横を向き、足も止めずに去って行った。

(あ、あれ?)

柚はドアの前に立ち尽くし、戸惑う。

「なんだ、あれ。感じ悪ぃ……」

焔が横から顔を出し、自分のことを棚にあげて不愉快そうに呟く。
柚はアスラに声を掛けたときに上げかけた手を止めた姿勢のまま、まるでメデューサに睨まれたかのように硬直した。

(無視された……っていうか)

顔が引き攣る。

――睨まれた?

「なんだろ、何したんだろ」
「気のせいじゃねぇの?」

規定訓練に向かう途中、ぶつぶつと考え込む柚を鬱陶しそうに、焔は無関心に返す。
柚は半眼で焔を見上げた。

「なんだよ、その他人事のような態度」
「……いや、他人事だろ」

柚は盛大にため息を漏らす。

「もういい。はぁ……フラン、規定訓練には出てくるかな」

午後からの講義の時間は決められているが、規定訓練の時間は比較的自由だ。
入隊したばかりの頃はジョージに時間帯を指定されたが、最近は特別な訓練相手との手合わせなどがない限り、廊下に張り出されている時間割表の空欄に名前を入れておけば、ジョージの方が都合を付けてくれる。

食事と一緒で、特に約束をしたわけではないが、三人は朝食の後、一休みをしてからいつも一緒に訓練を受けていた。
誰かが任務で抜けることやフョードルが混じることはあったが、すっかり身に付いた習慣だ。

最も、ジョージがもはや指導の必要なしと判断した者達は、規定訓練の義務こそあれど、訓練内容や訓練時間は本人の自由であり、ジョージの監視も指導も付かない。

訓練室に入ると、すでにジョージが待っていた。
ジョージは現れたのが柚と焔だけだということを視認すると、特に追求もせずにため息と共に腕を組んだ。

その日の訓練の成果は散々なものだった。
気を抜けば考え事で、全く集中出来ない。

訓練に身の入らない柚にジョージが声を掛けた。

「柚、人の心配をしている場合か?」
「分かってるんだけど……」

柚はため息を漏らして首を鳴らす。

すると内線が鳴り、ジョージが柚から離れて受話器を手に取った。
一言二言、言葉を交わしたジョージが通信を切り、柚に声を掛ける。

「柚、訓練が終わったら、元帥の執務室に行け」
「え……」

心なしか柚が青褪めた。
そんな柚を見やり、ジョージも青褪める。

「お前は問題を起こさずに生活できんのか!もういい、後十分くらいだからまけてやる、さっさと行ってこい」
「え!嫌だ、怖い!教官一緒に行って?焔でもいいんだけど」
「馬鹿もん!さっさと行け!!」

腕にしがみ付く柚を、ジョージの怒声が追い出す。

柚はしぶしぶ訓練室を出ると、廊下を渡り、自分達の宿舎と研究所を繋ぐビルの階段を登った。
エレベータもあるのだが、逃げたい気持ちが時間の掛かる階段を選ばせる。

数段昇るごとにため息を漏らし、やっと辿り着いたアスラの執務室の前で、柚は何十回目のため息を漏らした。

(何言われるんだろ。無視するくらい怒ってたんだから、よっぽど何かとんでもないことしでかしたんだろうな)

意を決してドアをノックすると、淡々とした抑揚のない返事が返る。
柚が部屋に入ると、アスラは椅子に座ったまま、手にする書類から顔も上げずに「ドアを閉めろ」と冷たく言い放った。

柚は首を竦めながらドアを閉め、ちらりと部屋の中を見回す。
部屋の中にはアスラ一人、助け舟を出してくれそうな人が誰もいない。

書類を捲る音が静かな室内に響き、柚はびくりと体を強張らせた。

「研究所側から報告を受けたが、一昨日はハーデスと共に夜を過ごしたそうだな」
「……え?」

顔を上げないアスラに向け、柚は目を瞬かせる。

確かにハーデスと一緒の部屋で寝たが、あの日はパーベルもいた。
イカロスとて、二人の間に何もなかったことを知っているはずだ。

「今夜、俺の部屋に来い」
「は?」
「ハーデスと何度寝ようと、子供は産まれん」
「なっ――ちょっと待て、誤解だ!」

柚が慌てたように声を張り上げる。

「一緒にって、本当にただ寝ただけで、ハーデスはソファで――」
「言い訳は聞かん」

アスラの声は突き放すように冷たい。
優しい声を聞くことに慣れてしまっていたのだろうか……まるで、出会ったばかりの頃のようだと感じる。

「ハーデスと性行為に及んだならば、お前が抱いていたセックスへの抵抗ももうないだろう」
「アスラ!言い訳じゃない、本当にハーデスとは何もなかった!」
「命令だ、今夜は俺の部屋に来い。子供さえ産めば、お前が誰と行為に及ぼうと俺は気にしない」

顔も上げない、当然目も合わせない。
柚は俯き、拳を握り締めた。

やっとの思いで、声を絞り出す。

「信じてくれないんだ……」

声が掠れたように裏返る。
その声に、アスラがやっと書類から顔をあげて柚をみた。

途端に柚の瞳がアスラを睨み返す。

「誰がお前の部屋なんていくか」

吐き捨てると同時、背を向けて部屋を飛び出していった柚の瞳から涙がこぼれる。

アスラは瞳を大きく見開き、勢い良くしまるドアの音を聞いていた。

何故、泣く?
その疑問と同時に、胸を何かが締め付ける。

(泣きたいのはこちらの方だ)

そんなことを考えた自分自身に気付くと、アスラはため息と共に椅子の背もたれに体重を預けた。

(泣きたい気分か……人を好きになるという感情は面倒で嫌なものだな)

自分自身を制御出来なくなる。

たったひとつの感情に振り回されたとしても、何かを得られるのならばまだいい。

だがどうだろう?
結局、何も手に入らない。

むしろ残るのは、絶え間なく押し寄せてくる切ない虚しさ。

(こんな思いをするならば、やはり俺には余計な感情だった……)

窓から吹き込んだ風が、目など通していなかった書類を床に散らした。
アスラは力を使い拾い上げようとした動きを止め、ため息を漏らして椅子から立ち上がる。

それは胸の内で吹き荒れる痛い程に冷たい風とは違い、頬を撫でるように暖かで柔らかな春の風だった。



泣きながら廊下を走っていた柚は、自室の部屋の前で肩を掴まれ、勢い良く振り返った。

「アスラ?」
「い、いえ……大変申し訳ないのですが、フョードルです。泣いている姿をお見掛けした為、心配になって……デーヴァ元帥をお呼びして参りましょうか?」
「い、いいいいいい!呼ばないで!」
「そ、そうですか!申し訳ありません」

首が飛んで行きそうなほどに首を横に振る柚に、畏まったようにフョードルが返す。

柚が黙り込むと、フョードルはおろおろとした様子で掛ける言葉を捜している。

今は誰かと話をしたい気分ではない。
柚はフョードルが去ってくれる事を、心の中で望んでいた。

だが、フョードルは去らずに疑問を投げ掛けてくる。

「あ、あの。差し出がましい事をお聞きしますが、何かありましたか?」
「あ……ううん。なんでもない、ちょっと目にゴミが入っただけ」

誤魔化そうとした柚は、思い直したように緩やかに首を横に振った。
フョードルがあまりにも心配そうに自分を見ていたことに始めて気付く。

これほど自分を心配してくれたフョードルに対し、自分が考えがあまりに申し訳なくなった。

「ごめん、嘘付いた。ちょっと、なんていうか、誤解されて……信じてもらえなくて、それが悲しくて、悔しかったんだ。それだけ」
「柚殿……」
「うん、大丈夫。なんとかなるさ。心配してくれて有難う、フョードル」
「……いえ、お力になれず」
「そんなことないよ、じゃあな」
「あ……はい」

何かを言いたそうにしながら、フョードルは柚を見送る。
フョードルは視線を自分の足元に落とすと、小さく頷き、踵を返した。





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