22
空が薄暗くなり始めた空港に降り立ったアスラは、VIP用のオートウォーク通路を移動しながら小さくため息を漏らした。
ガルーダが後ろからアスラを覗き込んでくる。
「疲れた?」
「……そうも言っていられない」
白髪交じりの長官が、護衛と秘書達に囲まれながらオートウォークを降り、足早に歩いて行く。
アスラとガルーダはその後に続くと、用意された公用車に乗り込み、空港を後にした。
空港から議事堂に到着した頃にはすっかり日が落ちていたが、それでもまだ、議事堂の中を議員秘書が慌しく駆けずり回っていた。
「おや、デーヴァ元帥。今戻ったのかな?」
通り過ぎた部屋のドアが開き、黄の側近であるイワノフが後ろからアスラに声を掛ける。
アスラは足を止め、肩越しにイワノフを一瞥すると、体を返す。
「つい先刻帰国したところです」
「ご苦労ご苦労。母上に愛想を尽かされないよう、その調子で仕事に励むんだな」
身を寄せたイワノフから微かに、母が愛用している香水の香りがした。
アスラの隣で、ガルーダが鼻に皺を刻む。
「いついかなる時も、国の安全の為、我々アース・ピースは一丸となって尽力する所存です。私情など挟む余裕はありません」
「ふんっ、可愛げのない……」
イワノフが不愉快そうに小声で吐き捨てた。
「失礼します」と背を向けたアスラに、イワノフが小さな嘲笑と共にアスラに声を掛けてくる。
「そういえば、デーヴァ元帥。戻ったばかりでは知らんかもしれんが、研究所の連中は大騒ぎだ。宮 柚がある人物と自室で一夜を共に過ごしたらしい」
「……」
アスラは思わず足を止め、いぶかしむ様にイワノフへと振り返った。
ガルーダがアスラを咎めるように小さく名前を呼ぶ。
だが、そんな声などあっさりと耳をすり抜ける。
「相手は誰だったかな……そう、確か"ハーデス"。あの薄気味悪い男だよ」
イワノフの嘘だと思った。
だが、先日のハーデスの様子ならばあながち嘘とも思えない。
頭を殴られたような衝撃と眩暈と共に、腹の底から煮えたぎるような怒りが湧き起こる。
それはイワノフに向かい、ハーデスに向かい、柚へと向かう。
イカロスは何をやっていたのだと、飛び火をするように怒りは様々な者達へと向けられてゆく。
微かな空気のざわめきを感じた。
目に見えない何かが、息苦しいような圧迫感を与えてくる。
ガルーダは咄嗟にアスラの腕を掴んだ。
「アスラ!もう時間だ、行こう」
その手を振り払うとガルーダの瞳が自分を牽制し、怒りに駆られていたアスラははっと自我を取り戻す。
「アスラ、時間」
もう一度、言い聞かせるようにゆっくりと告げ、ガルーダが自分の顔を覗き込んだ。
アスラは無言で頷き、踵を返す。
アスラは自分がしようとしたことに驚きを隠せなかった。
もしガルーダに止められなかったら、イワノフをどうしていたか分からない。
自分を抑えられなかった。
その背にまるで、イワノフの笑い声が聞こえてくるようだ。
(あーあ、帰ったら大変なことになりそうだな)
青褪めた面持ちで足早に歩き出したアスラの背を見守りながら、ガルーダは無言でため息を漏らした。
「おい、こら。廊下で待ってるんじゃなかったのかよ」
「うん……ごめん」
渡り廊下の階段に膝を抱えて座り込んでいた柚は、ぼんやりと月を見上げたまま呟くように返した。
「どうすればいいのか、ますます分かんなくなった……」
「あれはフランツの問題だ、俺等にはどうしようもねぇよ」
すとんと、隣に焔が腰を下ろす。
柚はゆっくりと焔に視線を向け、彷徨うように視線を自分の抱える膝に落とした。
「うん……うん、そうだな」
小さく、小さく……
言い聞かせるように、頷く柚の声が焔の顔を曇らせる。
「ああ、もう!どいつもこいつも面倒くせぇな。お前まで落ち込んでどうすんだよ」
「……だって」
「だってじゃねぇよ」
焔の手が、柚の頬を抓った。
「痛い」と漏らす柚から手を放し、焔は音も無く立ち上がり、柚へと背を向ける。
もう行ってしまうのかと、柚は心の中で離れていく温もりをもの寂しく感じた。
焔はフランツのことが心配ではないのだろうか?
もう少し、親身に相談に乗ってはくれないのだろうか?
まるで柚の心を読んだかのように、焔が肩越しに振り返る。
「周りはいつも通りでいろよ。でないとあいつ、ますます気まずくなるだろ」
「……仲直り、してくれると思う?」
「当たり前だろ」
その根拠は何処にあるのか……。
疑問に思いつつも、焔の言葉に安堵が少しずつ沸いてくる。
焔は足を止め、暫し無言で自分の手に視線を落とした。
やはり差し出す決心が付かず、焔はポケットに手を突っ込む。
「ほら、部屋戻んぞ」
「ん……」
柚は小さく頷き、月を見上げる。
ふと、丸い月を見ると懐かしさが込み上げた。
ここに連れて来られたばかりの頃、この場所でアスラと初めて語り合った。
「なあ、焔?」
「あ?」
「あの月、見てどう思う?あ、満月とかそういうことは聞いてないから。綺麗とかお団子みたいとか、そんな感じで」
「は?」
空にはひとつ、丸い月がやさしい光で、隠れた太陽の代わりに夜の空を照らしている。
焔が眉を顰めて空を見上げた。
暫し考え込み、首を捻り柚を見下ろす。
「腹減ってんのか?」
「何でお前らは、そういうところだけ気が合うんだよッ!!」
柚が悶えるように、コンクリートに拳を打ち付ける。
焔は疑問符を浮かべながら、何故か怒り始めた柚の動向をおろおろと見守った。
その翌朝、柚はベッドから抜け出すことを躊躇った。
いつもならば、一番仕度の早いフランツが迎えに来てくれる。
だが今日は予想通り、誰の迎えもない。
「ほら、いつまでそうしてるの?早く起きなさい」
柚専属の看護師、マリア・リードが優しい声音で柚から布団を剥ぎ取る。
「おはよう、柚」
「おはよう……」
「どうしたの、晴れない顔ね」
「ちょっと考え事」
「あらあら、柚ってば、知恵熱出ちゃうわよ?」
マリアはくすくすと笑いながら、柚に体温計を手渡す傍ら、脈拍の確認を始めた。
この姉のようなマリアが、柚の日常で唯一接する女性だ。
「もしかして恋の悩み?私でよければ相談に乗るけど?」
「うーん、全然違う」
「全然違うの?」
残念そうに、マリアはため息を漏らした。
「周りにはいい男がいっぱいいるのに」
「あのねぇ……」
柚は体温計を取り出しながら、深々とため息を漏らす。
マリアは体温を書き込みながら、そんな柚の顔を見やる。
「子供を産むとか、そういうこと考えながらだと、なんか一歩退いちゃうのかも」
「好きになるのを躊躇っちゃうってこと?」
「そうそう。だって、確かにパーベルは可愛かったけど、自分が産むとなるとまだいいやって思う」
すると、マリアは「ふふふ」と朗らかに笑みを浮かべた。
「恋もしてないくせに、恋に臆病になっちゃってるのね。やっぱり柚はまだまだ子供ね」
「あー、馬鹿にしてる」
「人を好きになるって気持ちはね、そういう面倒なこと考えられなくなっちゃうの。だから問題は後から付いてくるものよ?」
嬉しそうに語るマリアを見上げ、柚は「へー」と頷き返す。
恋について語るマリアの顔は柔らかで、輝くような眩さに満ちている。
柚に着替えを渡しながら、マリアはにこりと微笑んだ。
「あなたがそういう気持ちにならないってことは、まだ本気で恋してないってことよ」
「そっか」
「あら、今安心したでしょ」
「うっ」
「ふふふ、お見通しよ」
小悪魔のような笑みを浮かべ、マリアは今だベッドから立ち上がらない柚の髪に櫛を通した。
心地の良いマリアの優しさに、ついつい甘えてしまう。
「柚に子供が出来たら、私に助産師させてね」
「マリアは自分の心配したら?」
「あら、私今、交際三ヶ月目よ?」
「うそっ、誰?私の知らない外の人?」
「ひ・み・つ。じゃあ、早く着替えてご飯食べてくるのよ」
軽やかな足取りでマリアが部屋から出て行く。
道理で最近、前以上に綺麗になったはずだと納得する。
柚は軍服を手にしたまま、「春だなぁ」とため息を漏らした。
―NEXT―