21


イカロスの部屋を出て最初の角を曲がると、柚は突如全速力で駆け出した。

(びっくりした、びっくりしたぁぁあああ!)

雄叫びとも悲鳴ともつかない声を心の中であげながら、開け放たれた二階の窓から身を乗り出す。

「はぁ……」

外の空気を吸い込みながら、何度か深呼吸を繰り返すと、力が抜けたように、窓に手を掛けたまま柚はずるずるとしゃがみ込んだ。
そして、思い出したように立ち上がる。

(あ、フョードル)

フョードルが森と向かい合うように、ぼんやりと立っていた。
柚は窓枠に頬杖を付き、首を傾げる。

「フョ――」
「何やってんだ、お前」

背後から声を掛けられ、柚はびくりと飛び上がった。

階段からこちらを見上げる焔が、半眼で立っている。
柚はみるみる赤くなり、窓の前でしゃがみ込んだ。

「いつから見てた?」
「お前が廊下の端から猪のように突っ込んできたところから」
「さ、左様ですか」

恥ずかしそうに返し、柚は壁にとんっと背中を預けた。

「何人かひき殺してんじゃねぇ?あの勢いじゃあ、ハムサも逃げるな」
「嫌な名前を出すなよ」

柚は頬杖を付き、憂鬱そうに焔を見上げる。
焔は階段を昇りきると、柚と一定の距離を保ったまま腕を組み、まるで様子を伺うようにこちらを見ていた。

上官達の居住区である上の階に、焔の用事があるとは思えない。
もしかして、フランツとの件で落ち込んでいた自分を心配して、捜しに来てくれたのだろうか?
そう考えるのは都合が良過ぎるだろうか?

じっと焔の顔を見上げていると、耐えかねたようにふいっと顔を逸らされる。

「ねえ、フランどうしてるかな」
「さあな」
「……さあなって、それだけか?」

面倒臭そうに返す焔を柚が睨み返す。

「しらねぇよ、そんなに気になるなら自分で様子見てくりゃいいだろ」
「そんな勇気があったら、あの時に追い掛けてるわ!」

柚が怒鳴り返した。
すると、焔が柚の首筋に目を留める。

「お前なんか襟の所、赤いぞ?」
「え?あれ?やだ、これ……血、付いちゃってる?」

柚は窓を鏡代わりに、軍服の襟に付いた汚れに顔をしかめた。
すると、焔が眉を顰める。

「なんで血なんてついてるんだよ」
「え?あー……ああ、まあ、いろいろあって」

詰め寄る焔から思わず目を逸らし、言葉を濁した。

すると、焔が柚の襟を掴んで広げ、首筋に視線を落とす。
首筋に微かに残る赤い痕に、焔は血相を変えた。

「ブラウスまで血が付いてるじゃねぇか、首もまだ赤い傷痕付いてるぞ!また玉裁かフェルナンドに何かされたのか?」
「ち、違う、違うよ」

まるで自分のことのように怒る焔に、柚は慌てて首を横に振る。

「じゃあ、なんだよ!」
「そんな、それほどのことじゃないんだ。本当に……えっと、ちょっとした事故、みたいな感じで。ちゃんと謝ってくれたし、本当に、もう大丈夫だから……えっと……」

柚は血の付いた襟を掴む焔の手に、遠慮がちに触れた。
激情に駆られていた焔が、はっとした面持ちで手の力を抜く。

「ありがとう、心配してくれて」
「べっ、別に心配なんてしてねぇよ!」
「あー、はいはい、そうですか」

耳が痛いほどの大声で返す焔を半眼で見上げ、柚は小さく噴出した。

「うん、でも……なんていうか、ちょっと嬉しい」

柚の白い頬が淡く桃色に染まると、それは控えめな少女らしい愛らしさに満ちた微笑みになる。
他の誰かに見せることが惜しくなるような微笑みに、焔の胸の内に燻ぶる想いが疼く。

「なんだよ、それ。意味わかんねぇ……」

照れたように頬を染め、焔はぼそぼそと呟きながら顔を背けた。

「ま、その調子でフランの心配もしてくれると有難いんだけどな」

次に顔を向けた瞬間にはいつも通り、逞しさとふてぶてしい態度を前面に押し出したかのように、柚は腰に両手を当てている。
焔は心の中で、「可愛くねぇ」と悪態を漏らした。

「ほっとけよ、あいつの問題だろ。一々構ってられるか」
「なんだよ、それ!薄情者!」
「わーかった、分かった。とにかくお前は俺にどうしろって言いたいんだ!」

などと、勢いに任せて訊ね返したのが間違いだったと思う。
すっかり日が暮れた頃、焔は自分の押しの弱さと迂闊さを恨んだ。

(俺向きじゃねぇ、絶対向いてねぇ。くそっ、やっぱり柚に関わるとろくなことがねぇ。何が何でも無視しときゃよかった。なんで俺はいつも学習しないんだ、いつになったら学習するんだ?)

夕食にも出てこなかったフランツの部屋の前に佇み、焔はインターフォンを押せないまま後悔の念に駆られていた。

「私、ここにいるから。頼んだぞ!」

勝手にインターフォンを鳴らし、柚はそそくさとドアの傍の壁に隠れてしまう。

焔が溜め息を漏らして待つ間、部屋から返事はない。
仕方がないので、自ら二度目のインターフォンを鳴らすが、返事は無い。

短気な焔は苛立ちを覚えた。

「おいこら、てめぇ、いんのは分かってんだぞ!開けやがれ、ドアぶん抜くぞ!」
「何処の借金取りですか!?」

勝手にドアを開けて部屋に入ってきた焔に、ベッドの上に丸まっていたフランツが悲鳴を上げる。
焔はドアを締め、溜め息を漏らした。

「何やってんだよ、お前は。うじうじしてっとキノコ生えるぜ」
「生えませんよ、もう。どうせ柚に泣き付かれて来たんでしょ?僕の事なんか放っておいてください」

フランツが焔からふいっと顔を逸らす。
焔は溜め息を漏らし、フランツを見下ろした。

短い髪に指を通し、言葉を探す間、持て余すように指を絡ませる。

「なんだ、その……一応、話くらい聞くぜ?俺も、その、この間世話になったし」
「……ああ、柚の――」
「あー、待て待て。言うな!」

ばつが悪そうに、焔が顔を逸らしながらポケットに手を突っ込む。

「そんなに面白くないか?あいつに負けたこと。それともイカロスのことか?あいつ、イカロスの件は本当に誤解だって言ってたぞ?」
「……」

沈黙が長く感じた。

ベッドの前に立ち続ける事に息苦しさを覚え、手持ち無沙汰に軍服の裾を弄ってみたりと時間を持て余す。
次第に待つことに飽き、苛々が募り始める。

やがて苛々を通り過ぎ、もう自分がいることすら忘れられているのではないかと不安に感じ始めた頃、ようやくフランツが重い口を開いた。

「悔しいです……」
「……」
「凄く、悔しいんです」

フランツが、何かを堪えるように歯を食いしばる。
再び沈黙が流れたが、焔は何も言わず、じっと俯くフランツを見詰め続けた。

彼が膝の上で握り締めた手は、筋が浮かび上がるほどに握り締められている。
手に込められた力に相反し、彼の声は弱々しく途切れ、少しずつ言葉を紡ぎだした。

「下級クラスだから、その分精一杯っ、努力してるんです。それでも、あっさり焔や柚に抜かれて行って……あなた達には、僕の気持ちなんて分かりませんよ」

彼が今まで一度も表に出さなかった苦悩が、空気を伝い、言葉を伝い、胸の内に沁み込んでくる。
生れ持った力の違いを言われてしまえば、上位クラスの自分達には何も言えない。

「しょうがないじゃないですか、僕は元々強い力を持って生まれなかったんですから!こればっかりは、努力したって補えないんですよ」

彼が食い縛る唇。
それに同調するように、焔は眉間に皺を刻み、奥歯を噛み締めた。

「どんなに頑張っても、誰も僕を認めてくれないんです。だったらもういいでしょ?僕なんて必要ないでしょ?僕はここに必要ないでしょ?……もう、疲れましたよ。家に帰してくださいよ……」

嗚咽交じりの言葉が、静かに部屋に響いては消えていく。

後はただ、噛殺した嗚咽のみが廊下に座りこむ柚の耳に届いてきた。
柚は膝を抱き寄せるように抱え込み、顔を埋める。

焔は何も言わない、きっと、何も言えない。
焔でなくとも、誰も、彼に掛けられる言葉はない。

どんなに努力しても、生まれ持った力が増える事はないのだ。
それでも彼は努力に努力を重ね、仲間達に劣らぬよう、必死に頑張ってきたのだ。

柚や焔達は歳が近いからこそ、フランツの中にある劣等感は一層強い。
フョードルの出現がより一層、フランツの価値を揺るがし、精神的に追い詰めていたのだろう。

誰も悪くはない。
だからこそ、解決の方法などありはしない。

(ああ……)

これから自分達は、どうすればいいのだろう……?

目の前が閉ざされたかのように、柚の胸の内に暗い影を落とした。





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