20


「いつもと様子が違うし、もうどうしようかと思った」
「本当にごめん」

心から申し訳ないと謝るイカロスに、柚は天井を見上げてわざとらしくため息を漏らす。

「前々から薄々思ってはいたけど、イカロス将官はそういう趣味な人なんだな」
「ちっ、違うよ!」

イカロスは慌てて手と首を横に振った。

「誤解しないで!縛るとかはそういう願望がある子にしかやってないし、最初は皆嫌とかいうけど、本心は結構満更でもなくて――ああ、そうじゃなくて!さすがに痛いことは今のところしてない――」
「……」
「ああ……もう、ごめん、本当ごめん」

半眼を向ける柚から逃れるように、イカロスは頭を抱えて背を向ける。

普段は落ち着いた物腰に大人の雰囲気を纏うイカロスが、取り乱してショックを受けている姿を見ていると怒る気など起きようがない。
それだけこの事態は、彼にとって想定外のものだったのだろう。

柚は引き攣った顔に苦笑を浮かべた。

「ま、まあ、そういう趣味は人それぞれだと思うし、気にしないよ……」
「とかいいながら、思いっきり目を逸らすんだね……」

気後れした面持ちでイカロスが指摘する。

気まずい会話の空気を変えるように、柚は咳払いをした。

今だ心臓の鼓動は落ち着かない。
遅れて込み上げてくる正直な体の震えを無意味に隠そうと、柚はそっと自分の手を包み込む。

柚の心を感じたイカロスは、柚が自分を見る前に視線を床に落とした。

「イカロス将官」
「……うん」
「前も、図書室でこんなことあったよな?」
「……うん」

(もうここまでやってしまったら、誤魔化されてはくれない……か)

イカロスは心の中で呟く。

あの時、自分は柚が知りたかった疑問から逃げた。
そして今も、柚の疑問をかわす方法を必死に考えている。

震え手を隠す、彼女の目の前でだ。

「ちゃんと説明してもらうからな」

覚悟を決めたように顔を上げ、イカロスは小さく小さく、頷いた。
それでも諦めの悪い自分が深くため息を漏らす。

イカロスは柚に椅子を進め、自分はサイドボードに凭れ掛かった。

「俺の力はセーブが効かないから、望まなくても他人の感情が自分の中に流れ込んでくる」

「その想いが強ければ強いほど」と、イカロスは静かな口調で呟くように付け加える。

悔いるような瞳は、今はいつもと変わらず若葉の色。
疲れを浮かべた顔はイカロスを老けさせて見せた。

「だから少しでも気を抜けば、俺自身がその感情に同調してしまうことがある。例えばアスラやハーデスのように、人を想う気持ちだったり……悪意の感情だったりね」

イカロスは憂鬱そうに瞼を閉ざす。

「特に怖いのは悪意の感情だね。体の中から蝕んでくる。呑み込まれたら最後で自分が分からなくなる」
「?」
「同調した感情が自分のものか他人のものか、境界が分からなくなるってことだよ。他人の感情が、最初からある自分の感情や考えに思えてしまう」

ゆっくりと瞬きをしながら、柚はイカロスの顔を見上げた。
柚は遠慮がちにたずねる。

「それって、誰かに乗っ取られているってこととは違うの?」
「違うね。あくまでも俺という基盤があって、その上に植えつけられてしまうということ。だから、そうだね……例えば」

イカロスが周囲を見渡し、報告書に目を留めた。

それはハーデスの名が書かれてある。
ハーデスは現在任務に出ており、夕方まで帰ってこない。

柚は、ハーデスが任務に行きたくないと漏らしていたことを思い出す。

「君を好きだと感じた。けれどハーデスはその後、どのように行動すればいいのかを知らない」
「……」
「だからハーデスは、君に好きと伝え、一緒にいることに満足してしまった――今はね」

柚がイカロスから顔を逸らした。

昨夜柚は、そのことにほっとしたのだ。
だがいずれアスラのように、きちんと向かい合わなければならない。

「俺という基盤に、他人から流れてきた柚ちゃんを好きだという感情が加わった。俺はその感情を持った"後"を知っている。だからその感情に従い、行動に移してしまった……」
「……うん」

小さく頷き返しながら、柚は無意識に自分の腕を抱き込む。

「怖い思いをさせて、本当にごめん」
「ううん。確かに怖かったけど……」

柚は顔を上げ、イカロスに苦笑を向けた。
イカロスは気後れしたように、困った面持ちで柚の視線に応える。

「呼んだら、ちゃんと戻ってきてくれた」
「……君の声が聞こえたから」
「パーベルのお陰だ。昨日、ハーデスの呼ぶ声が道になって……あんな体験してなきゃ、どうしていいか分からなかった」

イカロスは「参ったな」と苦笑を浮かべた。

柚が蹴って落としたアロマキャンドルを、砕けたガラスの中から拾い上げる。
キラキラと輝く青いガラスの破片は、皮肉にも美しい。

「こんなことになるなら、パーベルにもう少し優しくしてあげればよかった」
「次にお礼を言うといいよ」

その言葉に、イカロスはただ曖昧に笑って返した。

柚がガラス片の片付けを手伝おうとしゃがみ込むと、イカロスがそれを止める。
膝の上に乗せた手の上にあごを乗せ、柚はぽつりと呟きを漏らした。

「今まで、他人の考えが分かる将官は大変だろうなってずっと思ってたけど……想像以上に大変なんだな」
「まあ俺としては、自分の力への抵抗よりも、むしろ、周りの人間の汚さにうんざりしていたし、そういう思惑にも気付かないで呑気に笑っている周りを見下していたかな」
「い……意外」
「そうだろうね。俺、君の前では猫っ被りだから。まあ、そうだな……疲れていたり、自分でも精神的に余裕のない時なんかは、こんな力って思ってしまうこともあるよ」

「でも」と、イカロスは柚の顔を覗き込むようにして小さく微笑んだ。

「そう思うのは俺だけじゃない。どんな力を持っていても、誰だって一度は思う」
「……そうだな」

柚は視線を落とし、小さく頷き返した。

力、性別……使徒という名の人種。
自分とて何度心の中で思ったか分からない。

「それで、柚ちゃんの用件だけど……」
「あ、うん……」

柚は首を横に振りながら顔をあげた。
そのまま立ち上がると、柚は苦笑を浮かべて小走りにドア向かう。

大きな任務を控え、アスラやガルーダ不在の中、イカロス自身も忙しい。
ましてやあのような姿を見せられては、これ以上迷惑を掛けられない。

「やっぱりいいや。自分でなんとかしてみる」
「その方がいいね。心っていうのは皆が何かしらの秘密を抱える場所だ。本来、俺のような力なんてない方がいいと思うし、それが自然なんだから」

穏やかな口調で、イカロスは窓の外へと視線を投げる。

柚が相談したかったことなど、イカロスは全てお見通しだ。
彼に秘密など通用しない。

そんな彼の力を少しでも羨ましいと思った事のある柚は、彼に申し訳なさを覚えた。

「それと柚ちゃん。君が俺を信用してくれているのは有難いけど……」

イカロスは腕を組み、ドアの隣に立つと申し訳なさそうに苦笑を浮かべる。

「また同じことが起きるかもしれない。俺のこと、あまり信用してはいけないよ」
「……それは無理だ。イカロス将官を信じてる」

自分を見送る体勢のイカロスに、柚は苦笑を浮かべながら肩越しに振り返った。
赤い瞳が強気に笑う。

「でなきゃあの時、とっくに急所蹴りなりなんなりお見舞いしてたさ」
「はは、は」

イカロスが片眉を上げ、困ったように笑い返す。

頼りなさを感じる事もあるが、彼女は想像の斜め上を行く。

「今日はごめん、止めてくれて本当に助かった」
「ううん、大丈夫。それより将官はあんまり無茶しないでくれ、心配だ」

イカロスの謝罪に、柚は静かに首を横に振った。

プラチナピンクのおさげが軽く揺れる。
イカロスは目を細め、小さく呟きを漏らした。

「ん?」
「いいや、なんでもない。有難う」

暖かな陽気が指し込む廊下を、柚が歩き去って行く。
たったそれだけで、この狭い世界の風景は変わる。

イカロスは柚の気配が消えた部屋で、ソファに体を沈めて座り込んだ。
髪をかき上げ、悪い物を吐き出すように大きくため息を漏らす。

小さく咳き込んで、イカロスは柚の口を塞いだ手で口を押さえた。

「疲れただろう?もういいじゃないか……」

暗い色をした瞳を眇めると、薄い唇から声が漏れる。
イカロスは髪を握り、奥歯を噛み締めた。

「あの子は俺の苦労なんて知りもしない、感謝もしない。当然のものだと思っているじゃないか」

頭を振ると、亜麻色の髪が揺れる。
食い縛った瞼を起こすと若葉色の瞳が苦々しく姿を現し、ため息と共に頬を汗が伝い落ちていく。

(そんなものが欲しいわけじゃない。あの子達を裏切るくらいならば、死んだ方がマシだよ……)

そうだろう?
誰にともなく、問い掛ける。

重い空気が張詰めた部屋の中、くつくつと低い笑い声が響く。
部屋の窓から覗く新緑の若葉を揺らし、影がひとつ……走り去った。





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