19


「俺がもう少し気を使っていればな……」

ジョージはため息を漏らした。
本当は酒が欲しいところだが、酒は禁止されている。

「デリケートな問題ですからね」

ヨハネスは淹れたてのコーヒーをジョージに差し出し、同じくため息を漏らす。

「いや、兆候はあったんだ。しかしなぁ……フランが柚相手にああも爆発するとは」
「どうして焔君は良くて柚君は駄目なんでしょうね?」
「そりゃあ、お前さん……」

不思議そうに首を傾げて疑問を投げるヨハネスに、ジョージは膝の上で頬杖を付いた。
ヨハネスがますます首を傾げる。

「あれだろ」
「あれ?」
「いや、やめておこう」
「何ですか?気になりますよ」
「まあ……なんだ?プライベートな問題だろ、これも。フランが隠してるものを、俺がどうこういうのもなぁ?」
「はあ……?」

意味が分からず、きょとんとした面持ちで目を瞬かせているヨハネスに、ジョージは半眼を向けた。





自室の窓から風が流れ込む。
その風はさまざまな人の心を運んできた。

瞬きも忘れたような無感情な瞳とは別に、唇が微かに動く。

窓の外を見詰めていたイカロスは、ドアをノックする音にゆっくりと瞬きを繰り返し、睫毛を揺らす。
緩慢な動きで肩越しに振り返り、にこりと微笑み返事を返した。

「なんだい、柚ちゃん?」
「忙しい?」
「入って」

イカロスは踵を返し、ドアへと大股で歩み寄る。
その唇が、人知れず弧を描いた。

遠慮がちにドアを開けた柚は、ドアの隙間からそっと顔を出し、数回瞼を瞬かせたまま固まる。

「柚ちゃん」

一瞬、イカロスの微笑みが幼く感じたのは気のせいだろうか。
柚が違和感を感じ、無意識に足を止める。

その瞬間、柚は手首を捕まれて部屋に引き摺り込まれ、硬い床に押し倒された。

「いっ……」

くすりと艶やかに笑う声と共に、イカロスの指は触れて確かめるように、柚の顔に触れる。
瞼の上から瞳を撫でた指は頬の上を滑り、紅を塗るように柚の下唇を撫でていく。

柚はぞくりと体を震わせ、イカロスの顔を見上げた。
瞳に弧を描き、イカロスがいつもと変わらず柔和な顔で自分を見下ろしている。

(な、何?この状況)

困惑する柚ににこりと微笑み、その手がゆっくりと確実に柚の軍服のホックを外しに掛かった。

柚は青褪め、慌てて首を横に振りながら、イカロスの手を掴んだ。

イカロスは笑みを崩すことなく、柚の手に自分の指を絡ませる。
そのまま柚の指先に口付けると、柚の瞳をじっと見詰めながらやんわりと床に縫い付けた。

「イ、イイ、イカロス将官?どうしたんだ?」
「どうもしないよ」

耳元で囁くように返すイカロスに、柚はびくりと首を竦める。

「耳、弱いんだ?」
「っ!」

柚は悲鳴をあげたくなった。
頬が赤く染まる。

そんな柚に、イカロスは目を細めて小さく囁いた。

「可愛いね、君は……」
「将官、やめて」

柚の尖った耳を甘噛みする。
柚が過敏に反応すると、イカロスはくすくすと笑いながら、今度は首筋に唇を落としていく。

「んっ……や!」

柚の足が思わずサイドボードを蹴り飛ばすと、サイドボードの上に置かれていたアロマキャンドルが転がり落ち、ガラスの容器が割れて砕け散る。

イカロスはその音に目も向けず、柚の軍服の胸元を肌蹴た。
ブラウスの襟から手が滑り込んでくる。

「やだ!」

(変、何か変!)

心音が高まる中、柚は混乱した頭で必死にこの状況を理解しようと視線を彷徨わせた。

開け放たれた窓から見える木を彩る新緑の葉。
目を通し途中の報告書の束。
部屋のいたるところに置かれた使い掛けのアロマキャンドル達は、優しいパステルカラー。

柚の思考を遮るように、イカロスが首筋に歯を立てた。

「痛っ!?」
「おっと、大きな声は駄目だよ」

くすくすと笑いながら、イカロスの手が大声をあげそうになった柚の口を塞いだ。

「タオルで口塞ごうか。そうだ、手も縛る?それとも、パーべルがしたように俺の中に閉じ込めようか……」

柚はとても冗談には聞こえないイカロスの言葉に、さっと青褪めた。

顔を覗き込むイカロスの鼻先が、柚の鼻に微かに触れる。
目が合った瞬間、柚はダークグリーンの瞳に恐怖した。

(違う!)

ずっと笑っていたイカロスの顔が、侮蔑するように柚を見下ろす。

「違わないよ。君は本当の俺なんて知らないだろう?」
「し、知らない。だって……イカロス将官は、いつも私には遠慮したように優しくしてくれるからっ」

声が震えてしまう。

最初から変わらずそうだった。
自分にだけは何故となく気を遣っているようなイカロスに、柚は壁を感じていた。

「いつも、アスラのことやハーデスのことを気に掛けるように仕向けて、イカロス将官は自分のことを言わない、から……」
(フランもそうだ。いつも力を貸してくれるくせに……)

イカロスは柚に触れながら、柚の心の内を言葉にする。

「俺の心を見たいなら、見せてあげようか?そうしたら俺だけを見てくれるのかい?」

次第に、柚は自分が誰と会話をしているのか分からなくなった。

最初はイカロスの笑みが何処か幼いと感じた。
次にその突拍子のない行動に驚かされ、今はイカロスの口調が、自分以外の他者を蔑むようなものへと変わっていく。

「例えそれがどんなに醜くても、哀れなアスラや馬鹿なハーデスのように、俺の事も受け入れてくれるのかい?君はそこから動こうとしないくせに」

柚は息を呑んだ。

「君がそう仕向けたんじゃないか。可愛そうに……君は本当に、仲間と家族のような関係を築けると思っていたんだね」

イカロスは哀れみを込めて柚を見下ろし、慈しむように髪を撫でた。
体を震わせる柚に、イカロスの口角が不気味に吊り上る。

「なんて幼稚な考えだろう」

柚の頬がカァっと赤く染まり、イカロスを睨み上げた。
くすくすと笑みを漏らしながら、イカロスは自己治癒によりじわじわと回復していく柚の傷跡を見下ろす。

「自然に任せても君の望む関係にはなれないよ。言ってごらん?俺にどうして欲しい?」
「……もういい、やめて」

柚は自由な片手で顔を覆った。
まるで悪魔が囁くかのように、耳元でイカロスの声が囁く。

「君が欲しいのは両親の代わりだろう?」

柚はぎりりと歯を食いしばった。

「だったら俺が彼等の心を操って、君の望む関係を創ってあげようか?ちょうど俺もうんざりして――」
「イカロス将官!」

柚の声が鋭く響く。

空気が震えた。
それと同時、部屋を満たしていた陰鬱な空気が微かに流れ始める。

イカロスを逃がさないかのように、絡められた指を柚が握り返した。
赤い双眸が、射抜くようにイカロスの瞳を見上げる。

「目を覚ましてくれ!」

イカロスの肩が大袈裟なほどにびくりと跳ねた。
柚がもう一度イカロスの名を強く呼ぶ。

その瞬間、イカロスがまるで夢から覚めたかのようにはっとした面持ちで目を見開き、固まったように動きを止めた。

「っ……!」

柚から手を離し、イカロスは押し倒していた柚の上から飛び退く。
その背中が壁に軽くぶつかると、イカロスは頭を抱え込む。

「お、れは……何を――…」

イカロスの声が僅かに震え、その顔からみるみる血の気が失せていく。
柚が上体を起こすと、今初めてその存在に気付いたかのように、イカロスが驚いた面持ちで胸元を肌蹴た柚を見る。

「お、俺がやった?」

柚は、無言で頷いた。
イカロスの顔が更に青褪める。

「ごめん!あぁ……謝って済むことじゃないけど、本当に申し訳のないことを」

イカロスは慌てふためきながら、いそいそと自分で肌蹴た柚の胸元を閉め直す。
焦るあまり、うまくホックが引っ掛からずにまごついているイカロスの手を見下ろしていた柚は、僅かに肩から力を抜いた。

へらっとした笑みを浮かべ、柚がそのまま後ろに倒れそうになる。
慌ててイカロスが柚を支えると、柚はイカロスの瞳に手を伸ばした。

「よかった、元のイカロス将官だ……」
「……柚ちゃん」
「安心したら、力抜けちゃった」

柚がくすくすと小さな笑みを漏らす。
暫くそんな柚を見詰めていたイカロスは、次第に肩から力を抜き、柚の上に項垂れた。





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