18
翌朝、パーベルは朝から泣いていた。
柚達がパーベルを見送りにエントランスに出ると、眠そうにあくびを漏らしながら、イカロスが姿を現す。
イカロスの姿を見るなり、パーベルが更にけたたましい大声で泣き始めると、柚はイカロスを疑うように見上げた。
「イカロス将官……私が目を覚ました後、何かやったのか」
「はは、心外だな」
さわやかな笑顔と共に、イカロスが肩を竦める。
焔が眉を顰め、フランツが首を傾げた。
「さ、パーベル。お別れだ」
柚は涙を流しているパーベルに声を掛ける。
パーベルは柚の顔を見上げ、嫌だと首を横に振った。
「俺、パーベルとお別れしたくない」
「行っちゃ嫌だよ、パーベルー」
今にも泣き出しそうな面持ちで、ハーデスが呟きを漏らす。
アンジェが泣き始め、ライラが背を向ける。
フョードルもすでに涙目だ。
「お前等がその調子じゃ、パーベルはもっと嫌だろうな」
焔が半眼でつぶやいた。
柚がパーベルを女性職員に引き渡すと、パーベルはそれを拒むように柚の服にしがみ付く。
必死に抗うパーベルの涙をそでで拭い、柚はパーベルの萌黄色の瞳を覗き込んだ。
「大丈夫、心配してくれて有難な、パーベル。大好きだぞ」
「あー……ゆぅず……」
「次に会うときもちゃんと笑顔で出迎えるから、パーベルも元気でな」
パーベルが柚から視線を落とし、柚の服にしがみ付く手から少しずつ……力を抜いた。
小さな頭をくしゃりと撫でると、パーベルが首を竦めて目を細める。
柚がパーベルから手を離すと、パーベルは首を曲げて必死に柚の姿を瞳に映そうとした。
「あー……」
パーベルが喘ぐように、小さな唇を動かす。
何を伝えようとしているのか……。
柚は「ん?」と首を傾げながら、パーベルの顔を覗き込む。
その口から少しずつ、たどたどしい声が漏れ始めた。
声は次第に言葉になり、柚達の心をパーベルに引き寄せる。
パーベルが訴えるように拙い言葉で発したもの、それは歌だった。
「あ、これって……」
ライラが気付いたように声をあげる。
アンジェが大きな瞳を見開き、柚の顔を見上げた。
遠巻きに様子を見ていたヨハネスが、愕然とした面持ちで小さく口を開く。
柚が誰よりも驚いた面持ちで、パーベルの顔を見詰める。
「前に……私が歌った、子守唄?」
柚は思わず女性職員の顔を見た。
「この歌、誰かがパーベルに歌ってあげてるの?」
「いいえ。この子の面倒はいつも私が見ているけど……知らない歌だわ」
驚きよりも、信じられないという気持ちの方が大きい。
驚愕を浮かべて立ち尽くす柚の前で、パーベルは尚もメロディーのない歌詞を歌い続ける。
「だって私、パーベルには一度しかこの歌、歌ってないのに……」
女性職員が目を見開き、同行していた他の支部メンバー達と顔を見合わせた。
ヨハネスが、この現状を躊躇うように息を呑む。
すると、フョードルが「凄い!」と明るく言い放ち、笑みを浮かべた。
「一回で覚えたってことですよね?天才じゃないですか!」
「そうだな、凄いぞパーベル!将来楽しみだ」
柚がパーベルの頭を撫でる。
すると、パーベルはご機嫌に「きゃっきゃ」と笑い声をあげた。
「そういう問題なんでしょうか」
「さあな」
フランツが苦笑を浮かべて告げると、焔が素っ気なく返す。
その瞳がじっと柚の背中に向けられていることに気付くと、知らずフランツも柚の背を見詰め、地面に視線を落とした。
使徒という種族の仕組みすら、まだよくは分からない。
そんな使徒という生き物が、またひとつ、新たな可能性を示し始めたように思える。
別れ際にはやはり大声で泣いていたが、パーベルは支部への帰路に着いた。
車が見えなくなると、ハーデスがぽろりと一粒の涙を落とす。
「寂しい……」
「ハーデス……」
柚が呟くようにハーデスの名を呼ぶと、声を震わせた。
「泣くなよー、せっかく堪えてるのに」
柚が声を上げて泣き始めると、ハーデスも顔を歪め、声をあげて泣き始める。
連動するようにアンジェとフョードルが泣き始め、ライラがそででごしごしと目を擦った。
フランツとヨハネスがそっと目頭の涙を押さえ、焔が一人、その場を立ち去る。
(やれやれ……)
腕を組んだ姿勢で壁に凭れていたイカロスは、エントランスで声を響かせながら泣く集団に、小さく苦笑交じりのため息を漏らした。
二階の廊下からその様子を見ていたフェルナンドは、無言で踵を返した。
俯き気味に足を踏み出そうとして、びくりと足を止める。
いつからそこに居たのか……。
玉裁が底意地の悪い笑みを浮かべながら、こちらを見ている。
「よお、見送りか?」
「……違う。ただ声がしたから覗いただけだ」
フェルナンドは眉間に皺を刻み、玉裁の横をすり抜けた。
玉裁は天井を見上げるようにしながら、ポケットに手を突っ込む。
耳にひしめくピアスが小さな金属音を立てた。
「あのガキ、お前のガキだろ?」
「っ!」
フェルナンドが顔色を変えて振り返り、玉裁の胸倉に掴み掛かる。
玉裁の体が壁にぶつかり、今度は大きく、ピアスが金属音を立てた。
青褪めた顔で自分を睨み上げるフェルナンドを、玉裁は鼻で笑い飛ばす。
「違う、僕とあの子供は関係ない!」
「俺は一目見て分かったぜ?あのガキ、お前の目にそっくりだ」
「違う!!僕の子供じゃない!」
朝の静かな廊下に、感情的なフェルナンドの声が響き渡る。
「なんだよ、自分よりもハーデスに懐いてるのが気にくわねぇの?ま、そんだけ否定してんだ。そんな訳ないよな?」
「黙れ、玉裁!」
「ははっ、何命令してんだよ」
高らかに笑い、玉裁がフェルナンドを見下ろす。
理知的な瞳を吊り上げるフェルナンドは、まるで怯えを隠して威嚇する為に毛を逆立てる獣のように思えた。
フェルナンドからの反論がないと、玉裁はつまらなそうにフェルナンドの顔を見下ろす。
「何で自分のガキなんざ気に掛けんだよ。そんなに嫌なら見なきゃいいだろ」
「うるさい!お前に何が分かる!」
「わっかんねーな、俺には」
「くだらない言い掛かりで絡むのはやめて貰おうか。不愉快だ、失礼する!」
玉裁は頭の後ろで腕を組み、足早に去っていくフェルナンドに背を向けた。
「馬鹿みてぇ」
ぽつりと言葉を漏らす。
使徒である故に、抗えない感情がある。
本能に必死で抗おうとする姿は、ひどく滑稽で愚かだ。
(つまんないぜ、今のあんた)
ガム風船を膨らます。
風船は大きく膨らみ、音も立てずに萎んでいった。
ジョージは腕を組み、フランツと戦う柚を見ていた。
(ヨハネスには申し訳ないが、いまいち信じられない話だな)
自分から見れば力の使い方もまだまだ未熟だ。
大きい力ゆえに、その力に頼りきっている。
そんな彼女が、使徒にとっては重要な心の基軸を変えてしまうような力を持っているなど、信じがたい。
考え込んでいると、焔が自分を呼んでいる。
はっとするジョージに、焔は柚とフランツを軽く指差した。
「終わったぜ」
「は?」
ジョージは心の中で、「しまった」と呟きを漏らす。
余計な事を考えていて、全く見ていなかった。
案の定、ちゃんと見ていてくれたのかと、柚が遠くから文句を言っている。
「すまんすまん。で、その顔は柚の負けか?」
「それは、一応私が勝ったといえば勝ったけど……」
「!今日もお前が勝ったのか?」
思わずジョージが驚きの声をあげた。
その声に驚いたのか、鳥が鳴きながら羽ばたいて行く。
確かに柚は力を付けてきているが、力を扱う技術や経験はフランツが上だ。
さすがに、柚の勝利がここまで続くとは予想外だ。
歯切れの悪い口調で返した柚が、ちらりとフランツを見やる。
「フラン、調子悪いんじゃないのか?戦い方がいつもと全然違う」
「そんなことありませんよ」
「でも昨日も様子おかしかったし、本調子じゃないんじゃないのか?」
「そんなんじゃありませんって。柚の勝ちですよ」
フランツは心配そうにしている柚に、違うと手を振り、苦笑を浮かべた。
柚はもどかしそうにしながら、遠慮がちにフランツを見る。
「でもイカロス将官が、パーベルが私達の力を吸ってたって言ってたし、まだその影響が残ってるんじゃ……」
「!」
フランツが勢い良く顔を上げ、眉を顰めた。
「なんでイカロス将官が!柚、まさか何か僕のこと言ったんですか!」
「え?ちがっ、そうじゃなくて、ちょっといろいろあってそういう話に……」
「やめてください!僕のことは放っておいて下さいよ!」
声を荒げるフランツに、柚が目を見開く。
ジョージと焔が驚いたようにフランツの顔を見やり、呼吸すら呑み込んだ。
「僕があなたより弱いから負けたんですよ!それが現実なんだから、もうそれでいいじゃないですか!不調とか、そんなの何の理由にもならないじゃないですか!皆が見るのは結果だけでしょう?」
「フラン……?」
「止めてくださいよ……そういうの。あなたに庇われたって惨めになるだけです」
「……ぁ」
今にも泣き出しそうに震えるフランツの声が、急速に遠ざかっていく。
呼び止めようと出し掛けた手が、宙を掻いた。
名前を呼ぶ勇気すら、粉々に打ち砕かれた気分だ。
焔は、走り去るフランツの背中を無言で見送る。
あまりにも突然の出来事に困惑するジョージが、立ちつくす柚とフランツの背を交互に見やり、悔いるように「ああ」と呟きを漏らして額を押さえた。
―NEXT―