17


「柚、柚?お願い、起きて……」


――柚…


「?」

柚はゆっくりと顔を起こし、振り返った。

「今、ハーデスの声がした気がするんだけど。ハーデスもここにいるのか?」
「ううん。パーベルはまだ、ママをここに呼ぶのが限界。でもいつかちゃんとパパ達も呼ぶよ」

パーベルの声に重なるように、ハーデスの声が耳に届く。
柚は再び振り返り、眉を顰めた。

「パーベル、ハーデスが呼んでるから……私は一度起きるよ」
「だめ!」

パーベルは立ち上がった柚にしがみ付き、必死に首を横に振る。
柚は困ったように、小さなパーベルを見下ろした。

「だめ!ママはもう、ずっとここにいるの!でなきゃ――」
「そこまで」
「うわぁあ!」

悲鳴を上げ、小さなパーベルの体がボールのように弾かれて地面に転がる。

柚が青褪めてパーベルに駆け寄ると、難しい顔をしたイカロスが白い世界に降り立った。
亜麻色の髪が揺れ、いつも柔和に微笑んでいる瞳がパーベルを睨む。

なぜここにイカロスがいるのか……柚は困惑した面持ちでイカロスを見上げ、思い出したように眉を吊り上げた。

「イカロス将官!何するんだよ、パーベルが怪我したら――」
「君は早く目を覚ましなさい」
「え?」

柚は目を瞬かせた。

その瞬間、パーベルが顔を険しくしてイカロスを睨み返す。
オーラのようなものがパーベルを包み、力の放出と共にイカロスへと襲い掛かった。

「甘い」

腕を組むイカロスが、「ふっ」と小さく笑みを漏らして瞼を閉ざす。
ゆっくりと瞼が開かれた瞬間、いつもは新緑のような柔らかい緑の瞳が色を増し、奥深く透き通ったダークグリーンの瞳が姿を現した。

イカロスの足元から風が巻き起こり、一帯を覆いつくすような衝撃波が放たれる。
パーベルの体が吹き飛び、真っ白な地面の上を二転、三転と転がった。

素早く起き上がったパーベルの瞳が色を増し、パーベルの足元からも衝撃波が放たれる。

パーベルが放った攻撃を身構えもせずに受け止めたイカロスは、何事もなかったかのようにパーベルを見下ろす。
亜麻色の髪のみがさわさわと風に揺れ、目に掛かった髪の間からダークグリーンの瞳が目を眇めた。

パーベルの喉がひくりと鳴る。
次の瞬間にはパーベルの体が足元から弾かれて、木の葉のように宙に投げ出された。

「パーベル!」

柚がパーベルの落下を食い止めようと、指先を向ける。
だが、力が全く反応を返さない。

「え……?」
「無理だよ、ここはパーベルの中だからね。俺のような力がないと、ここで力は使えない」

落ちたパーベルを猫のように摘み上げながら、イカロスが告げる。
先程まで二、三歳くらいの子供の姿をしていたパーベルが、柚の見慣れた赤ん坊の姿になっていた。

戸惑う柚に、イカロスはため息交じりに振り返る。

「この子は君を、自分の精神世界に閉じ込めようとしていたんだよ」
「……え?えーっと?さっきから何?さっぱり意味が分かんない」

頭の上にいくつも疑問符を浮かべたような顔をしている柚から引き離すように、イカロスはパーベルを自分の目の高さにまで持ち上げた。
パーベルは手足をばたばたとさせ、赤ん坊とは思えない明瞭な口ぶりで、「放せよ!」と叫んでいる。

「それがママの為なんだ!」
「彼女は君のママじゃない」
「あんたに言われなくても知ってるよ、そんなこと!あんたなんか嫌いだ!」
「嫌いで結構」

うるさそうに耳元からパーベルを離し、イカロスが小さくため息を漏らす。

「ママ、助けて!」
「え?あ、あー……イカロス将官?よく分からないんだけど、その辺で止めてやってくれないだろうか?」
「だーめ。俺は怒ってるよ?最初の教育がものを言うんだからね。悪い子にはたっぷりとお仕置きしなきゃ」

"にこり"というよりも"にたり"と笑うイカロスに、柚とパーベルの顔からさっと血の気が引いた。

いよいよパーベルが大声をあげて泣き始める。
イカロスはパーベルを地面に下ろすと、再び腕を組んだ。

「さてパーベル、少しは懲りたかな?」
「……だって!このままじゃママに良くない事が起こるから、だからここにいれば安全だと思ったんだもん!」
「良くない事?」

柚が眉を顰め、イカロスの顔を見上げた。
イカロスは少し考え込むようにパーベルを見下ろし、小さく唸る。

「多分、予知だね。人間の子供にも、子供特有の不思議な行動ってあるだろう?何もないところをじっと見ていたり……あれと似たようなもので、使徒の子供はたまに小さな予知をするらしいんだ。この力は大人になると失われることが多いけどね」
「へぇ……どうせなら、明るい未来を予知して欲しかったよ」

柚がげんなりとした面持ちでつぶやく。

「ねえ、パーベル?その良くない事ってどんなことか分かるか?」

パーベルは指をしゃぶり、首を横に振る。
仕草までもが退化したようだ。

「そっか」と残念そうにつぶやき、腕を組んだ。

「うーん。まあ、結局良く分からないんだけど、パーベルが私の為にやってくれたことなんだろう?」
「うん……」
「なら、今回はそれでいいよ。ありがとう、パーベル」
「ママ!」

柚がパーベルを抱き上げると、パーベルが涙を流して柚に抱き付く。
イカロスが「やれやれ」と苦笑を浮かべると、パーベルはイカロスに向けて舌を出した。

「こら、パーベル!そういうことしちゃ駄目だろ」
「はーい、ママ」
「ははは。本っ当に可愛くないね、パーベル」

イカロスがにこやかに吐き捨てる。

「ところで、将官。パーベルはなんでしぼんじゃったんだ?」
「パーベルね、ママ達に大きくしてもらったんだ」

イカロスに代わり、パーベルが嬉しそうに柚を見上げた。
柚が首を傾げてパーベルの大きな瞳を見下ろす。

「前例がないから断言は出来ないけど、多分この子は柚ちゃんや他の仲間の力を食べたんだよ」
「た、食べた?」
「そう。どうやってかは知らないけど、使徒の幼児が持つ本能に従ったんだ。目を凝らしてみてごらん、見えるかい?」
「あ……」

使徒が纏う力の気配は、その人物の周囲をオーラのように包み込んで見える。
パーベルの力に混じり、見知った自分の気配の他に、ハーデスや焔、フランツの力が僅かに混じっていた。

「力が吸われていること、気付かなかった?」
「う、うん。全然」
「それはきっと、君達が人よりも膨大な力を持っているからだよ。きっとフランツ辺りは不調を感じていたはずだ」
「だから、夕飯出てこなかったのかな……」

納得したように、柚が呟きをもらす。

「パーベルはずっと保育器の中にいて、君と接触した後、体調が安定してきているよね?それも何か関係しているんじゃないかな。何にせよ、まだまだ何も断定出来る段階にないよ」

柚の顔が僅かに曇る。
イカロスは穏やかに柚に告げた。

「君という存在が赤ん坊に接することで、今まで見えてこなかったことが見え始めてきていることは確かだね」

微笑むイカロスの瞳は、いつも通り……
澄んだ若葉の色だ。

柚は肩から力を抜き、小さく微笑み返した。

「そっか。疲れてるのに、迷惑掛けてごめんなさい。もう大丈夫だから」
「そのようだね。ハーデスの声が聞こえるかい?」
「うん、聞こえる」
「なら、あっちに行きなさい。そうすれば目が覚めるよ」
「分かった」

イカロスに見送られ、柚は声のする方へと足を踏み出す。

次第に真っ白な景色は、霧が晴れるように消えていく。
昨夜と同じだ。

ゆっくりと瞼を起こすと、心配そうに自分の顔を覗き込むハーデスと目が合った。

「ハーデス……」
「柚、よかった!」

ハーデスが柚の体を力強く抱きしめる。

「夢の中にイカロスが出てきてね、柚を起こせって言ってきたんだ。良く分かんないけど、柚のこと何度呼んでも起きてくれないし、柚が死んじゃったみたいで凄く怖かった」
「ごめん、ハーデス。もう大丈夫」

柚はハーデスの腕を軽く叩き返した。
その視線を、ベビーベッドへと向ける。

「夢の中で、パーベルに会ってたんだ……」
「え?」
「パーベルね……」

柚はハーデスの顔を見やり、にこりと微笑を浮かべた。

「ハーデスのこと、パパって呼んでたよ」
「俺のことを?」

ハーデスが驚いたように体を離し、まじまじと柚の顔を見る。
柚は微笑みとともに、こくりと頷き返した。

「血の繋がりが全てじゃないよね……?」
「うん、うん!」

ハーデスが、何度も嬉しそうに頷く。
今にも踊りだしそうなハーデスを、柚はくすくすと笑みを漏らしながら見守った。





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