16


「パーベルは?こっちのベッド?」
「うん、窒息しちゃうと危ないし、もしベッドから落ちたら大変だからな」
「そうなんだ……」

納得したように、ハーデスが小さく呟きを漏らす。

「柚も、俺と寝たら窒息しちゃう?ベッドから落ちて怪我する?」
「え?いや……私は――」
「じゃあ俺、ソファで寝る!」
「え?え?」

ハーデスは意気込むように、ソファに座った。
でもそれじゃあ……と言い掛けた柚が、心の中で呟きを漏らす。

(ま、いいか。さすがに一緒のベッドは、ちょっと気が引けたし……)

柚はソファに横になったハーデスに自分の毛布を掛けながら、苦笑を浮かべた。

(まあ、ハーデスだから間違いとかはないだろうけど)

「柚、もう寝るの?」
「うん、じゃあ……寝ようかな。電気消してもいい?」
「うん……」

柚は自分のベッドに潜り込み、布団を被る。

一人で眠るよりも、少しだけ緊張した。
こんなときにはパーベルの存在が心強い。

部屋の電気を消すと、小さな青白いランプがほのかに足元を照らす。

「柚、もう寝た?」
「寝てないよ」
「あのね、柚……おやすみ」
「おやすみ」

柚は苦笑を浮かべ、瞼を閉じた。

それから一分もしない内に、再びハーデスが、「もう寝た?」と小声で訊ねてくる。
「寝てないよ」と返す柚に、ハーデスが毛布を被る音がした。

「一緒に寝るのって、ドキドキするんだね」
「ふふ」
「俺、明日早いんだ。寝坊したら、またアスラに怒られちゃう」
「怒られたの?」

柚は寝返りをうち、ハーデスの方へと体を向ける。

「寝坊したからじゃないけど、遅刻するから怒られた」
「ハーデスはおっとりしてるからな」
「そう?」
「うん、してると思うけど」

くすくすと、柚は肩を揺らした。
小声で交わす会話が部屋に小さく響く。

「眠れそう?」
「わかんない……」
「じゃあ、羊を数えるといいらしいぞ」
「羊?なんで?」

ハーデスが不思議そうに問い返した。

「知らない」
「柚でも知らないことあるの?」
「あるある、いっぱいあるって」

思わず声が少しだけ大きくなり、柚は慌てて口を噤む。

パーベルは相変わらず静かだ。
ほっと胸を撫で下ろす。

「そうなんだ。じゃあ俺、とりあえず数えてみる。羊が一匹、羊が二匹……」
「ちょっとハーデス」

声に出して数え始めたハーデスに、柚はくすくすと笑った。

柚の肩から力が抜け落ちる。
柚は穏やかな声音で、瞼を閉じたまま告げた。

「声に出さないで数えなきゃ」
「そうなの?」

くすくすと、声を堪えるように柚が笑う。
柚が笑う、それだけでハーデスは嬉しい気持ちに満たされる。


その夜、柚は再び夢を見た。

やはり真っ白な世界の中央に、自分のみが佇んでいる。
すると、昨日と同じ子供が何処からともなく現れて、柚ににこりと微笑み掛けた。

「パーベル……だよな?」
「そうだよ、ママ!」

パーベルは嬉しそうに返す。
その顔はすぐに悲しそうに曇り、パーベルは柚の体に抱きついたまま、声をあげた。

「ずっとここにいたい、ママとお別れなんて嫌だ」
「……パーベル」

小さな肩にそっと手を乗せ、柚はパーベルの前にしゃがみ込んだ。

「大丈夫、きっとまたすぐに会える」

なぜかそんな言葉が口から出る。
根拠はないが、不思議とそんな気がした。

長い髪が風に揺れる。

風?何処から?
小さな疑問などすぐにどうでもよく感じ、柚は頭の中から消し去った。





消灯時間を過ぎたヨハネスの部屋には、三つのコーヒーカップが並んでいた。
すっかり冷めたそれは、どこかひんやりとした冷気を放っているように感じ、手を付ける事を躊躇わせる。

「自信はありませんでしたが、私はこう推測しています……。柚君が、以前パーベル君と胎児を静めたことはお話しましたね」
「ああ、それが?」

ジョージは冷たいコーヒーを飲みながら眉を顰めた。

「使徒の女性出生率は低い、どうやっても種の繁栄は望めません」
「それはそうだが……それが、今回パーベルを柚に預けた事となんの関係があるんだ?」

さっぱり分からないと言いたげに、ジョージが肩を竦める。
ライアンズが、焦れたようにジェスチャーを交えて先を促した。

「回りくどい話は勘弁してくれよ」
「そうですね。ただ私は、柚君の行動が本能だったのではないかと思ったんです」
「だーかーらー」

焦れたように机を指で叩くライアンズを、ジョージが制す。

ヨハネスは小さく頷き、視線を俯かせた。
彼の手の中で、先程から一向に口を付けられていないコーヒーカップが揺れる。

「元々使徒の女性とは、種を残す為に存在するわけではないんじゃないでしょうか」
「は?」

何を言い出すんだと言いたげに、ライアンズは眉を顰めた。

「おいおい、じゃあ男が子供産めって?」
「あなた馬鹿ですか、そうは言ってませんよ」

ヨハネスは、心底呆れた面持ちで眼鏡を押し上げる。
とどめとばかりに厭きれたため息がヨハネスから吐き出されると、隣のジョージまでため息を漏らし、ライアンズの心を抉った。

「胎児、もしくは自我が形成されていない子供……ですから、すでにウラノスとニエ、アンジェやライラは論外として考えてください」
「?あ、ああ」
「自我が形成されていない使徒を、女性の使徒は――変な言い方ですが、自身の支配下に置く事が出来るんじゃないでしょうか」
「はぁ?」

ライアンズのみならず、ジョージまでもが目を丸くして、ヨハネスの顔を見る。
ヨハネスは、二人の顔を見て訴えるように告げた。

「つまり、人間の女性に使徒の子供を産ませ、自我が形成される前に自身のコントロール下に置き、肉親のような絶対的な存在になってしまうんです」
「……」

いささか信じられないと言いたげな面持ちで、ライアンズは椅子を軋ませる。
ジョージが思い悩むように顎を撫でた。

反応の薄い二人を説得するように、ヨハネスが身を乗り出す。

「た、確かに突拍子のない考えだとは思いますよ?ですが、あのパーベルの様子を見ていると、そう思えてならないんです」
「昨日の夜、柚の部屋に侵入したって?」
「パーベルが始めてしゃべった言葉も、柚君の名前でした」
「あの赤ん坊が、特別じゃねぇの?」

ライアンズがひらひらと手を振る。
ヨハネスはぐっと押し黙り、カップの中へと視線を落とした。

「ですから今、柚君に預けて様子を見ているんじゃありませんか……」
「うむ。しかしだな、俺にも少々同意し兼ねる推測だな」
「ですよねぇ?大体、あの柚にそんな芸当が出来るとは思えねぇよ」
「……やはり、そうでしょうか」

しゅんとした面持ちで、ヨハネスはジョージとライアンズの言葉に項垂れる。
そのまま、ヨハネスの頼りない視線は窓の外へと投げられた。

「もしそうなら……柚君が無理に子供を産まなければならないという義務から、解放されるんじゃないかと思ったんです」
「そりゃねぇよ」
「そうだな」

ヨハネスの言葉を、ライアンズとジョージが迷う事なく否定する。
窓の外に投げた視線を二人の顔へと向け、視線のみで「何故?」と問い掛けた。

「そりゃ、決まってるぜ。一人でも多く上位クラスの使徒を望むだろ、上は」
「誰しも、"欲"というものがあるんだからな……」

二人の言葉にヨハネスは再び俯く。
光を反射するレンズが、ヨハネスの悲しげな瞳を覆い隠した。





ソファから体を起こせば、聞こえるのは小さな寝息がふたつ。

ひたりと、冷たい床を右足で踏んだ。
続けて、左足が前へと踏み出す。

「柚……?」

返事はない。
返るのは静かな寝息と、穏やかな寝顔。

ハーデスは覗き込むように身を屈め、柚の寝顔を見下ろした。
薄気味悪いと言われてきた色の髪が、柚の頬をくすぐる。

「もう、寝ちゃったの?」

瞼が起こされる気配はない。

「……ゆず」

ハーデスの指が、そっと柚の頬に触れる。

足元を照らす青白い光が、ハーデスの足元を照らしていた。





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