15


屋上から鼻歌が聞こえてくる。
梯子を上り顔を出したライアンズは、いぶかしむように眉を顰めた。

「今日は随分機嫌いいんだな。何かあったのか?」
「ライアン!」

声を掛けるなり、ハーデスが見せたこともないような晴れやかな微笑みを浮かべて振り返る。

驚いたライアンズは目を瞬かせてハーデスの顔を見やり、顔を逸らして頬を掻いた。
梯子に足を掛けたまま、ライアンズは屋上の端に組んだ腕を乗せ、その上に顎を乗せる。

ハーデスはその前にしゃがみ込み、にこにこと笑った。

「俺、凄いことに気付いたんだ」
「何?」
「俺、柚が好き。柚を愛してる。俺なんかでも、ちゃんと人を愛せたんだ」
「……」

時が止まったかのように、ライアンズがハーデスの顔をまじまじと見上げる。
冷たい風だけが、二人の間を流れていく。

ライアンズの顔が、みるみる憐れむように曇っていった。

「そ、そうか……」

ライアンズはハーデスから瞳を伏せ、顔を背ける。

頭の中がぐるぐると渦巻く。
掛ける言葉が上手く見付からない。

ハーデスは子供をつくることが出来ない。
どのみちハーデスに異常がなかったとしても、能力階級は柚のひとつ下――…。

例え柚と気持ちを繋げたとしても、政府が二人の関係を許す筈がない。

もしそれを知ったら、ハーデスが何を仕出かすか分からなかった。
度々処分を検討されてきたハーデスだ、ハーデスが政府に逆らうような真似をすれば、下手をすれば殺されてしまう。

柚への想いは、ハーデスが傷付く未来しか想像できなかった。

だが、当の本人は全くその暗い未来の可能性に気付いていない。
純粋に人を愛し、その"人らしい"感情を持てた自分に喜んでいるのだ。

(どうする、どうすればいい?)

ハーデスを傷付けず、その想いを諦めさせる方法はないだろうか……。

「ハーデス、その、あー……えっとだな」

ライアンズは頭を掻きながら、ハーデスに向ってぎこちない笑みと共に顔をあげた。
すると、ハーデスの姿が忽然と消えている。

「いねぇし……」

ライアンズは顔を引き攣らせ、やさぐれた気分で吐き捨てた。

すると、背後から鼻で笑い飛ばす声が聞こえ、ライアンズはますます顔を引き攣らせる。
嫌味なほどに整った顔をしたユリアが、指通りの良さそうな髪を風に揺らし、立っていた。

「さっさとどいてよ。君のお尻なんて見ていても気分が悪いよ」
「ユリア、てめぇ……俺が心を砕いているというのにお前は……」
「どうせ君は、無粋なことでも考えてるんだろう?」
「……」

ライアンズは、むすっとした面持ちで俯く。

「無粋は承知だ。けど、あいつにはそういう……嫌な思いはして欲しくないっていうか」

自分の考えを上手く伝えられず、ライアンズは言葉に詰った。
もどかしさを感じながら、ライアンズはユリアを見やる。

「あいつは、変に純粋な奴だから、変わらないで欲しいっていうかだな……」
「それは君の勝手な都合さ」

ライアンズの言葉をあっさりと否定し、ユリアは目を細めて口元に笑みを浮かべた。
まるで芸術作品のような完璧な美を具現化した容姿は、悔しいが神々しさすら感じる。

「ああ、違う違う」

ユリアは愉快そうに笑みを浮べ、ハニーブラウンの髪に指を通してライアンズの顔を覗き込んだ。

「君の場合、"過保護"だね」

返す言葉もなく、「うっ」と言葉に詰る。
ライアンズは梯子から飛び降り、ポケットに手を突っ込むと、溜め息と共に壁に凭れた。

「そういうユリアだって、ハーデスには甘いだろ」
「何か言ったかい?」
「なーんでも」

心の中では、ハーデスが傷付く結末がこないことを祈りながら……
素知らぬ面持ちで、ライアンズはユリアから顔を逸らした。





食事を終えて部屋に戻ると、見慣れない小さなベビーベッドが運び込まれていた。

柚がドアの前で固まっていると、柚が歩いてきた廊下の反対から、パーベルをあやしながら歩いていた女性職員が近付いてくる。
柚が戻って来たことに気が付くと、女性はにこやかに微笑んだ。

「ごめんなさいね、勝手に。昨日みたいなことが起きてこの子が怪我をしたら大変だし、今日は夜もこの子をお願いできるかしら」
「それは構わないけど……」
「私達、明日の朝にはここを出発する予定なの。お願いね」
「そっか……パーベルはもういなくなっちゃうのか」

柚はパーベルの小さな頭をそっと撫でる。
パーベルは指をしゃぶりながら、小さく首を傾け、大きな瞳でじっと柚の顔を見上げてきた。

ベビーベッドに寝かせた後も、パーベルは自ら体を起こして座り、落下防止の格子の間からじっと柚を不思議そうに見ている。

「どうした、パーベル?」
「ゆぅず……」

パーベルの声は何処か寂しげに、自分の名を呼ぶ。
まるで、パーベルは明日が別れだと理解しているかのように思えた。

格子の間から手を伸ばすパーベルを抱き上げ、柚は苦笑を浮かべる。

「よしよし、パーベル。ここにいるぞ」

小さな顔が、柚の体にことんと凭れ掛かった。

「昨日、夢の中で会いに来てくれたのは、やっぱりパーベル……だよな?」

パーベルが顔をあげ、萌黄色の瞳でじっと柚の顔を見上げる。
肌や髪は透き通るような白に近いが、瞳だけは深く底知れない。

「もしそうなら、また会いに来て」
「あー」

頷くように、パーベルが声をあげる。
柚はくすくすと笑みを漏らし、パーベルをぎゅっと抱き締めた。

すると、とんっと地面に足を付く音が微かに耳に届いた。

「柚!」
「!」

驚いて振り返ると、ハーデスが嬉しそうにパーベルごと柚を抱き締める。

「ハ、ハーデス!あのっ、ちょっと!」
「柚、柚!おやすみのあいさつに来たよ」

ハーデスは柚の肩に顔を埋め、甘えた声で何度も柚の名を呼ぶと、満足した後に柚を開放した。
柚が声を掛けようとすると、ハーデスは部屋のベビーベッドに視線を向け、柚の腕の中のパーベルに問い掛ける。

「パーベルは柚と寝るの?」
「う、うん。今日は、ちょっと、ね。それで、あの……ハーデスはこんな時間にどうし――」
「パーベルずるい。俺も柚と一緒に寝たい」

ハーデスは拗ねたように頬を膨らませて柚の顔を見た。

「は?え?いや、でも……そういうのは、その……」
「駄目?」

柚が答えに詰まると、ハーデスが悲しそうに首を傾ける。

柚はたじろいだ。

捨てられた子犬のような眼差しをしているハーデスの頼みを無下に断ろうものならば、良心が痛む。
だが、「いい」などと言えるはずもない。

柚が答えに詰まっていると、ハーデスが首を横に振った。

「ごめん、俺我侭?柚を困らせたくて言ったんじゃないんだ。もう我侭言わないから嫌いにならないで」
「き、嫌いになんてならないよ!」
「よかった」

少し寂しそうにハーデスが微笑みを漏らす。
その微笑みは、柚の良心をぎりぎりと絞め付けてきた。

今すぐにでも目の前から消えてしまいそうなハーデスを繋ぎとめるように、柚はハーデスの腕を掴んだ。

「あの、ね……ハーデス。別に、我侭言ってくれていいんだよ。そんなことで嫌いにならないし、我侭なんて思わないから。私のほうが、いろいろ我侭言ってるし」
「……柚」

ハーデスが柚の顔を見る。

ハーデスが好きだなどと言い出さなければ……
何の躊躇いもなく、了承していたかもしれない。

柚は真っ直ぐで曇りのないハーデスの視線から逃れるように、視線を床に落とした。

「柚は、優しい。だから柚のこと好き」

にこりと、柔らかな笑みが降る。

そんなことはないと、無性に否定したくなった。
本当は今は、ハーデスに会いたくなかったと――思っていたのだから。

柚はパーベルを抱く腕に力を込め、意を決して顔をあげた。

「あ、あのね、ハーデス……」
「俺、ずっと皆で寝るの憧れてたんだ」
「え……?」

ハーデスが嬉しそうにぐるりと柚の部屋を見回す。

「目が覚めて、すぐ隣に誰かがいてくれたら、今って時間が現実だったんだって思えるでしょ?」

柚は視線のみで、「何か?」と問い掛けた。
マイペースなハーデスの会話には、時々付いていけなくなる事が良くある。

「最近、夢の中で夢を見るんだ。夢の中で目を覚ますと昔の自分に戻ってて、あの幸せな時間はやっぱり夢だったんだって思うんだ」

(も、もしかして……"寝る"って添い寝の方?これは――恥ずかしい!!)

自分の勘違いに気付いた柚は、パーベルを抱きかかえたまま勢い良くしゃがみ込み、深く項垂れた。
突然の柚の行動に驚いたハーデスが、しゃがみ込む柚を見下ろして目を瞬かせている。

(だって、だって!昼間あんなこというからー!いかがわしい方向に考えちゃってごめんなさいっ!ああ、私ってばなんて汚いの、そんな純粋な瞳でこっちを見ないでー!?穴があったら引き篭りたい!!)

「柚?どうしたの?」
「な、なんでもないよ、ハーデス」

柚はぎこちない笑みを浮かべて顔をあげると、ハーデスに問い掛けた。

顔の火照りが忌々しい。
体温の高いパーベルすら、ひんやりと感じた。

「ハーデス、今幸せ?」
「?うん。俺、今が凄く幸せ」

ハーデスの微笑みは、とても穏やかで柔らかい。
例えるならば、まるで月明かりのようだ。

「だから柚、俺のこと嫌いにならないでくれる?」

柚は僅かに目を見開き、ハーデスの顔を見上げていた。

ハーデスは、好きになってくれとは言わない。
今以上の幸せなど、ハーデスは想像しようとしない。

ただ今がハーデスにとって幸せで、ただ今という形の不変を望んでいる。
今まで望んでいても叶わなかった人並みのささやかな願いを、少しずつ、柚に漏らしながら……

(なんだ……ハーデスはいつも通りだ)

柚はほっとして、小さく苦笑を浮かべた。

「ごめん、ハーデス」

ハーデスが首を傾げる。

柚はもはや、苦笑を漏らすしかない。
ハーデスの思いがけない告白に、一人で戸惑っていた自分が馬鹿みたいだ。

「いいよ、一緒に寝よう」
「え?いいの?本当に?」
「うん、いいよ」
「俺、嬉しい!」

ハーデスが柚に抱き付く。
パーベルが少し苦しそうに、身を捩った。





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