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隣で立ち上がり掛けていた焔がイカロスに顔を向け、フョードルが目を見開く。
素直な反応に、イカロスはくすくすと笑みを漏らした。

「皆、こっちで手一杯になるだろうからね」
「そっか……あながち他人事でもないんだな」
「そういうこと」

資料を机の上で纏め、イカロスは微笑んだ。

皆が忙しい中、その様子をただ見ている事しか出来ないのだと思っていた柚にとって、それは朗報だ。
少しでも力になれるのならば嬉しい。

柚は部屋に戻ると、ベッドに腰を下ろして後ろに倒れこんだ。
ベッドのスプリングが軋みをあげる。

白いシーツの上には、プラチナピンクの髪が広がった。

与えられた資料を捲ると、そこには双頭に関する情報が記されている。
メンバーと思しきリストの中には顔写真が載っているものもあるが、肝心のボスは名前のみだ。

(ワーナー・デ・ファルコ、か)

旧時代のチャイニーズマフィアとイタリアマフィアが合併して膨れ上がった巨大な犯罪組織だ。
冷戦中ということもあり、各国との情報交換がスムーズに行なわれないこの時代が、彼等をここまで巨大で狡猾な組織へと成長させてし

まった。

(使徒を狙う、第四の組織……ってところだな)

使徒を生体兵器として手元に置く各国政府。
人間主体の世界を、使徒中心の世界に創り変えようとするアダムを宗主とした教団・神森。
使徒を人類の脅威とし、殲滅を主張するテロ組織・エデン。

使徒を私欲の為に売り捌く双頭。
そして、その使徒を高値で買い取る者達もいる。

(こういうのって本当に、テレビや映画の中の話にしか思えなかったんだけどな……)

柚は資料をぼんやりと見上げたまま、小さく溜め息を漏らした。

(まあ……政府がやっていることと双頭がやっていることは、そう違わないと思うけど)

ごろりと寝返りを打ち、柚は悪態を漏らす。
すると資料が捲れ、柚は動きを止めた。

(双頭のメンバーの中に、使徒がいる可能性大……?)

信じられない思いで体を起した柚の目が、資料に釘付けになる。

(使徒が使徒を売ってるってことか?なんだそれ!)

認めたくない思いと、腹立たしさが同時に込み上げた。





春とはいうものの、夜空の下にはまだまだ肌寒さが残る。

フランツは武器の針が仕込んである愛用のグローブを見下し、小さく溜め息を漏らした。

空には星が浮び、空を薄暗く照らしている。
それはあまりにも頼りなく、道に迷ってしまいそうな、弱々しい光だった。

掌に刻まれた皺。
針を持つことで出来た蛸。

何度見下しても、自分の手だ。

さわさわと頬を撫でていく風は冷たいが、いつも傍にあるものだ。
意識を集中させれば、風は掌の上で渦を描いた。

渦を巻く風はふいに四散し、花が散るように消えていく。

(どうしよう……)

フランツは震える手を握り締め、体を折り曲げて抱き込んだ。

震えは止まる気配を見せない。
不安ばかりが溢れ、このままではイカロスに気付かれてしまうという焦りが大きくなる。

(やっぱり力が……弱くなってる……)

吐き気を覚えるような不安だった。

(なんで?まさか、ずっとこのまま?)

戦争やテロが横行する時代、親の愛が子供を生かす為にと与えた奇跡。
それが使徒の力だ。

だからこそ使徒は肉親に抗えない愛情を抱き、自身の力に触れるたび、親の愛に満たされる。
力を使うことは、使徒にとっては何よりの喜びであり、むしろそれは快楽に近い。

父と母の愛の証である、使徒の力を失いたくない。
これ以上、自身の存在価値を失いたくない。

(恐い、恐い……)

震える手を抱き締めながら、フランツは恐怖に支配されそうな心を飲み込むように、血が滲むほどにきつく唇を噛み締めた。





焔は部屋で、参考書を目の前に悩んでいた。

勉強をするか、しないか……。

元より勉強は好きではない。
とはいえ、両親がいた頃はそれなりに勉強をし、それなりに好成績を残している。

両親に勉強を頑張れと言われたわけではない。
いい成績であれば、両親が嬉しそうにしていたので、ある程度は自発的に取り組んで来た。

そのせいか、妹の雫は「お兄ちゃんの成績がいいから、ママに怒られた!」と、八つ当たりをしてきたくらいだ。

だが、今となってはあえて嫌いなものに取り組んだ所で、何も張り合いがないのだ。

(ま、勉強しなくてもなんとかなるだろ。それより自主トレの方を……)

時計に視線を向け、焔は小さく溜め息を漏らす。

気が付けば、すでに夕飯の時間だ。
約束をしているわけでもないが、大抵、柚かフランツが迎えに来る。

普段ならばフランツか柚が誘いに来ていてもいい時間だった。
迎えに来ない限り、自分から誰かを誘いに行くことはまずない。

(あいつ等、今日は様子がおかしかったしな……昼も誘われなかったし)

焔は机に頬杖を付き、後五分だけ待ってみるかと、心の中で呟く。

五分後、さらに五分追加し、さらに五分後にまた五分追加し……。
焔ははっと、眉を顰めた。

(まさか柚の奴、ハーデスと食ったんじゃ……!)

焔は音を立て、椅子から立ち上がる。

(いやいや、だったらなんだよ。大体、あいつが誰と食おうと関係――は、ないが、ないんだが……)

心が少しだけ落ち着きを取り戻し、焔は溜め息と共に項垂れた。

(あいつ、ハーデスになんて返事すんだろうな)

邪まな心など持たないかのように、無垢な笑みを浮かべていたハーデス。
アスラも好きという気持ちを伝えることに躊躇いを見せない。

(恐く、ないんだろうか……)

焔は考えを中断するように、再び溜め息を漏らした。

(飯、食いに行こう)

ポケットに手を突っ込み、部屋を出た瞬間、柚とぶつかりそうになる。

「わー、ごめん!」
「何やってんだよ、お前は」
「あ、焔はもう食べたよな?うっかり寝ちゃってて、気付いたらもうこんな時間だった!」
「え、あ……俺――」
「なんで起してくれなかったんだよ、焔のばかー!!」

捨て台詞を残し、焔を置いて柚がバタバタと走り去って行く。

「お、れも、食って、ねぇから……」

取り残された焔の声が、萎むように消えていった。


「食べてないならそう言えよ!」
「お前が聞く耳持たないで行っちまったんだろ!」

喧嘩をしながら食堂に入ってきた焔と柚に、料理長が呆れたように声を掛けた。

「なんだお前等。今日は随分遅いな」
「うっかり寝ちゃって」
「まあ、構わんがもう冷めてるぞ。今温め直すから、少し待ってろ」
「お願いしまーす」

柚がカウンター近くの席に座り、その正面に焔が座る。
すると、料理長がカウンターから身を乗り出した。

「ところでフランツはどうした?」
「え?フランも食べてないの?」

柚が心配そうに顔を曇らせる。

「ああ。いや、お前達が来る前は部屋に運んだりしていたから、珍しいこともないんだが。最近はお前等いつも一緒だからな」
「……うん。じゃあ私、声掛けてくる」

柚が席を立とうとすると、料理長がそれを止めた。
目の前にトレイが運ばれてくる。

「いやもういい。部屋に運んでおくから、お前達はさっさと食べろ」

柚が、「何か聞いてるか?」と言いたげに焔の顔を見た。
焔か軽く肩を竦めて返す。

人のいない食堂は、奥で片付けをする音がよく聞こえてきた。
その音すら消えてしまったら、焔は耐えられなかっただろうとしみじみと思う。

いつも明るく話題を提供する柚が無口で、普段は柚の話相手になるフランツがいない夕飯は、焔にとってとても息苦しいものとなった。





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