12


地面に擦れた背中よりも、目頭が熱い。
痛みよりも、悔しさで気が狂いそうだ。

「ご、ごめん!大丈夫か?」
「大丈夫です」

フランツは体を起こすと、柚から顔を逸らして呟くように返す。
力が抜けたように、柚は地面にへなへなと座りこんだ。

訓練中の怪我など茶飯事だが、その様子から、柚が心底自分の心配をしてくれているのだと感じた。

だがフランツは、自らの掌に視線を落とす。
動揺を悟られてはならない……誰にもだ。

フランツは顔を上げ、柚へと微笑み掛けた。

「完敗ですよ、柚」
「え……?」
「フラン、大丈夫か?ヨハネスに診てもらえ。柚はフランに連勝か……ようやく、お前もマシになってきたな」
「教官……。でも、今のはフランが途中で――」

腑に落ちない面持ちで、柚が自分を褒めるジョージへと振り返る。

「いいえ、あなたの勝ちですよ。おめでとうございます」
「……フラン」

眉を顰めて自分を見下ろす柚の視線からすり抜けるように、フランツは立ち上がった。

泥に汚れた軍服が忌々しく感じる。
何故、これほど汚れが目立つ色をしているのか……。

受身も取れずに転がった背中が痛い。
爪が割れ、砂が食い込んでいる。
口の中にも、砂の味が残っていた。

ジョージが俯いているフランツへと窺うような視線を投げ掛ける。

「フランツ……」
「僕は大丈夫ですよ、今日はもう終わりですか?」
「ああ、もういいぞ」
「じゃあ僕、失礼します」
「あ……」

足早に去っていくフランツの背に向け、柚が言葉を投げ掛けようとして止めた。

これでよかったのだろうか?
フランツへの勝利が、今は純粋に喜ぶことが出来ない。

「お前達ももういいぞ。午後の講義には遅れるな。以上、解散」

ジョージに追い立てられるように、柚はとぼとぼと歩き出した。

すると、その隣にポケットに手を突っ込んだ焔が無言で並ぶ。

納得の行かないこの思いを口にしたいが、上手く言葉に出来ない。
焔もまた、何かフォローの言葉を捜しているが、見付からない。

結局、二人は一言も言葉を交わさないままで、部屋へと戻った。





「はぁ……」

柚はベンチに座り、溜め息を漏らした。

柚に抱かれるパーベルが、その度に柚の顔を見上げる。
まるでパーベルが心配をしているようで、柚はそっとパーベルの頬を撫で、「なんでもないよ」と小さく笑う。

一人で食べる昼食は味気なく、なかなか食が進まない。

すると、柚の目の前の空間にノイズが走り、音もなくハーデスが姿を現した。

「ハーデス。今日は休み?」
「……うん」

小さく頷くハーデスの晴れない顔を見上げ、柚はベンチを半分開け、ハーデスに譲る。
暫らくの間、自分の為に開けられた空間を見て躊躇っていたハーデスだが、遠慮がちにベンチの端に軽く腰を下ろした。

「柚、元気ない」
「うーん。まあ、私だってたまには悩むさ」

柚は苦笑を浮かべ、ベンチの背凭れに体重を預ける。

「なんかなぁ……。フランもアスラも変だったしなぁ」
「アスラ……どうか、したの?」

体を強張らせ、ハーデスが柚の顔を見た。

柚は小さく唸りながら、パーベルの小さな手を自分の掌の上に乗せ、上下に動かす。
暫し柚は、ハーデスの問いに返す言葉を捜していた。

「どうって言うか……なんだろうな。落ち込んでた、みたいな感じだったって言うのかな?」
「……アスラ、俺のこと、なんか言ってた?」
「え?ハーデス?いや、何も言ってなかったと思うけど……」

驚いたように目を瞬かせ、パーベルの手で遊んでいた柚が動きを止める。
「そう」と呟き、ハーデスは視線を芝生の上に落とした。

「アスラと何かあった?」
「うん……俺、アスラに嫌いって言っちゃった……」
「へえ」

柚はくすくすと笑う。
ハーデスが、笑う柚を複雑そうに見た。

「アスラを嫌いって、ハーデスの本心?」
「分からない……」

ハーデスが俯くと、長めの前髪がハーデスの表情を隠してしまう。

「あのね、柚……俺、本当はアスラのことよく知らないんだ」
「?」
「だって、ちゃんと話したこともないから。アスラはいつも忙しそうで、"元帥"って忙しいからその仕事の邪魔しちゃいけないと思ってたから……」
「うーん。じゃあ好きとか嫌い以前の問題だな」
「……そう、なのかな?」

ハーデスは頼りない面持ちで呟き、空を見上げる。
膝の上の手が、持て余すように指を絡ませては離れた。

パーベルが舞い落ちてくる木の葉を見上げ、両手をあげて無邪気な声をあげる。

そんなパーベルを微笑ましそうに見詰めている柚の横顔を、ハーデスはぼんやりと見詰めた。

「パーベルが羨ましい」
「え?どうして?」
「柚に構ってもらえる」

ハーデスの言葉に、柚は声をあげて笑う。
そんな柚を気にも掛けず、ハーデスはその素晴しさを説くように続けた。

「俺、思うんだ。柚が俺の"お母さん"ならよかったのにって」
「私がお母さんって……想像出来ない」

複雑そうに苦笑を浮かべる柚に、ハーデスはポケットから一枚の写真を取り出して魅せる。

「俺小さい頃に、支給物資の紙にお母さんが欲しいって書いて出したんだ」
「……え?」
「そうしたらこの写真が届いた。これが俺を産んだ"お母さん"」

古びた写真は、明らかに雑誌の切り抜きだ。
週刊誌だろうか……白黒で不鮮明な写真は、ハーデスが長年大事に持っていたのだろう、ぼろぼろだった。

「ずっと信じてたんだ、この人が"お母さん"だって。けどユリアに話したら、これはただの"芸能人"で、俺は嘘で誤魔化されたんだって言ってた。それでも俺はこの人を"お母さん"って思いたかった」

柚の目の前で、ハーデスは写真をびりびりに千切ってしまう。
柚はなにも言えず、粉々に砕かれた紙くずを見詰めていた。

「俺、ずっと……一人で、寂しかった。寂しいのは辛い。だからパーベルには、そういう思いをしてほしくない。だから俺、パーベルの"お父さん"になりたい」

ハーデスがパーベルをじっと見詰めた。
その視線に応える様に、パーベルがじっとハーデスを見上げる。

柚はそんなハーデスを見上げ、ハーデスの肩に額を凭れ掛けた。
驚いたように、ハーデスが体を強張らせる。

「凄いよ、ハーデス……ハーデスは凄い」
「そ、そうなの?」
「うん、凄い」

何度も繰り返す柚に、最初は戸惑っていたハーデスも、柚をじっと見下ろした。
ハーデスは溢れ出すままに言葉を紡いだ。

「俺、柚が好き」

柚が顔を上げると、隠れていた柚の視線がハーデスに向けられる。

「後、ユリアも好き。その次にライアンも好き」
「そ、そうか」

柚は、二の次にされたライアンズに少し同情した。

心臓がバクバクと音を立てている。
ハーデスが言う"好き"の意味に、胸を撫で下ろす自分がいた。

「パーベルも好き」
「うん。よかったな、パーベル。ハーデスがパーベルのこと好きだって」
「だぁー」

パーベルがハーデスを見上げ、無邪気に微笑み、両手を広げる。
ハーデスが恐る恐る手を伸ばすと、パーベルがハーデスの指を握り締めて笑う。

「喜んでる」
「うん……喜んでる。俺も、嬉しい」

頬を染め、まるで新しい発見をしたように、少し興奮気味にハーデスが告げた。
かと思うと、今度は少し寂しそうにハーデスが呟く。

「パーベルが、本当に俺の子供ならいいのに……」

柚はふと、以前イカロスが教えてくれた言葉を思い出した。

人間と使徒、いわゆる異系交配で生まれた子供の半数は、虚弱体質など、何かしらの障害を持つ。
ハーデスも健康そうに見えるが、交配をしても受胎させる能力がないという欠陥があり、子供を持つことが出来ない。

「ねえ、柚?」
「うん?」
「俺、凄い事に気付いた!好きっていろいろあるんだね。ユリア達に感じる好きと、パーベルに感じる好きは全然違う」
「?」

柚は首を傾げながら、目を瞬かせた。

「柚、好き。でもこの好きもユリアやパーベルへの好きとは全然違う好き。俺きっと、柚を"愛してる"だよ」

風が二人の間を走り抜ける。
時が止まったかのように、柚は暫し呆然とした面持ちでハーデスを見上げた。

まるで、長年求めていた答えが出たかのような晴れやかな微笑みと、前髪に隠れるはにかんだ眼差しが、自分を見詰めている。

「……え?」

掠れた声が、喉の奥から微かに漏れ出た。





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