孫 玉裁という人物はどうも苦手だ……と、キースは心の中で涙を流す。
粗暴で、一般兵部隊間での評判は最悪だ。

何処となく気まずい空気のまま、二人で缶コーヒーと紅茶を両手に抱えて戻ると、遊戯室は人一人いなくなっていた。

「あれ、誰もいませんね」
「あ、書き置きがある」

柚はテーブルに缶を置き、テーブルの上に置いてあった紙を手に取り、読み上げる。

「キース、お仕事の時間だから先に行くって」
「はっ!あ、そうでした!もうこんな時間、まずい!失礼します!」

あたふたと壁の時計と腕時計の両方に視線を落とし、キースは部屋を飛び出していく。
ぽつんと一人取り残され、柚は床に散らばった鶴の前にしゃがみこんだ。

(そういえば最近、いつも誰かと一緒にいた気がするな。一人って久しぶり、ちょっと寂しいかも……)

柚はしゅんとした面持ちで口を尖らせた。

ひとつひとつ鶴を拾い上げ、用意されたダンボールの中に丁寧に片付けていく。
大勢で折った為、作業は予定よりも早く進み、箱がいっぱいになってしまった。

最後のひとつを片付け終えても、誰も帰って来る気配がない。

(あっちはなー、何処かに行けば大抵誰かがいるんだけどな。ここは知ってる人も少ないし)

大きく背伸びをしてソファーの上に寝転がる。
天井を見上げてゆっくりと瞬きをした柚は、僅かに顔を曇らせた。

(今頃、パパは仕事かな?ママは買い物とか?また誘拐とかされないように、政府が護衛付けてくれてるって聞いたけど……不安だな)

両親に会いたい、思いっきり抱き付いて、抱き締めて欲しい。
沢山話したい事があるし、久しぶりに母の料理が食べたい。

一人になると考えないようにしていることを考えてしまう。

柚は溜め息を漏らし、ソファーから起き上がる。

誰かを捜しに行こうと立ち上がった柚は、施設の中を歩き回り、ようやくガルーダとジャンの人影を発見した。
名を呼んで駆け寄ると、ガルーダが柚を抱き上げて、ぐるぐると回転する。

「戻ったら誰もいなくなってて寂しかったー」
「ごめんごめん。皆任務の準備だって言うし、ニエとウラノスが訓練の時間だったから、ついでに休憩にしたんだ」

ガルーダが柚を下ろすと、柚はガラス張りの一室に視線を向けた。

自分達が使用した訓練室とは違い、半分ほどの広さしかなく、沢山の機材が並べられている。

その中で、何人もの研究員に囲まれる二人の子供がいた。
ニエとウラノスだ。

二人は機械から生えるケーブルを何本も腕や体に貼り付け、目の前に置かれた石を睨みつけている。

「何してるんだ?これが、訓練……?」

柚は眉を顰めた。
訓練と言うよりは、実験にしか見えない。

ニエが集中すると、目の前に置かれた石がカタカタと揺れ始める。
たったそれだけのことで、ニエの額には脂汗が滲み、顔が青褪めていく。

「ニエ……」
「行ってはいけない」

「やめさせて」と訴える柚を、ジャンが厳しい眼差しで止めた。

「あの子達は頑張っているんだ。無理と判断すれば、医師が止める」
「……うん」

柚は視線を落とし、沈んだ声で頷く。

ニエの前で石に亀裂が走った。
僅かに、欠けた石の破片が飛ぶ。

だが、ニエが苦しそうに息を吐いた瞬間、石は弾かれたように床に転がり落ちた。
胸を押さえて肺から空気が抜けるような呼吸を繰り返すニエを抱き起こすでもなく、大人たちは冷静な眼差しで見下ろしている。

すると、愚図っていたウラノスが、ついに声をあげて泣き始めた。

ウラノスはまだ三歳の子供だ。
見るもの全てが目新しく、じっと座っていることも出来ず、何にでも興味を示す。

自分が創られた意味すら理解出来ていない。
注射をしようとする研究員を、ウラノスは泣きながら拒んでいた。

当然だろう。
昨日見たウラノスの腕は、痛々しいほどに注射痕ばかりだった。
見兼ねたヨハネスが、治癒を施していたくらいだ。

最初はウラノスをなんとか宥めようとしていたが、いつまで経っても泣き止まないウラノスに研究員達も苛立ち始める。

見兼ねたジャンは、静かに部屋のドアを潜った。
研究員達に退いているように告げ、涙を流すウラノスの頭に触れる。

「我慢だ、ウラノス。パパとママに会いたいだろう?」

穏やかで、耳に溶け込む声音
彼の仕草は、やはりイカロスに似ていると感じる。

ウラノスの肩がぴくりと揺れ、泣き声が止まった。
ゆっくりと上げられる濡れた幼い瞳の奥に、僅かな火が灯る。

柚は複雑な心境で、ジャンの言葉を聞いていた。

「頑張りなさい、ウラノスが頑張ればきっとママが会いに来てくれる。パパも君達が来るのを待っているよ」

柚は訓練室の壁に手を付き、額を押し付ける。

なんて魅惑的な言葉だろう。
だが裏返せば、自分達と同じ戦場に身を置く身になるという意味だ。

彼等がずっとこの場所で、穏やかに暮らすことが出来ればどんなに幸せだろう?
だが、使徒としての価値が見出されなければ彼等に未来はない。

「甘やかす事と手助けは違う」

ぽつりと、ガルーダが言葉を漏らした。
心配そうに落ち着かない様子でニエを見詰めていた柚は、ゆっくりと顔をあげてガルーダに振り返る。

「あの子達に必要なのも、彼等が欲しいものも、そういう助けじゃない」

柚は視線を落とした。

「今は手助けを受けて生かされている彼等だ。でも、弱者に生きる道はない」
「そういう世界だから……?」
「そう、何処も同じっしょ?使徒や人間だけじゃない、生物全般に言える常識」

ガルーダの獣のような瞳が、射抜くように子供達を見据える。
柚は何も言わず、目を細めた。

「弱い者から死んでいく」
「そんなの冷たい……」
「冷たいかもしれない。けど、だからこそ強くなって進まなきゃ生を得られない」

突き放した物言いが少し苦手だと、柚は感じる。
我が子を谷底に突き落とす、まるで獅子のようだ。

「俺はそう教えられたよ、俺を生んだ人に」

腕を組んでいたガルーダが腕を解き、片手を腰に当てる。
ガラスにガルーダの顔が映り込んだ。

柚は目を見開き、ガルーダを見上げる。

「会ったこと、あるの?」
「ある、一度だけ。いや、赤ん坊の頃にも会ったことがあるんだろうけど、覚えてるのはその一度だけ」

いつもは力強く笑うガルーダの口元に、滅多に見せない穏やかな笑みが浮かんだ。

「尉官にそういう話聞くの、初めて……」
「うん」

頷くガルーダを、柚が伺うように見上げる。

静かに頷き、ガルーダは再び閉ざされた空間の中へと視線を向けた。
だが、その視線が何処か遠い彼方を見詰めている。

ガルーダからは、草原の香りが漂ってきそうな気がした。

「多分、柚が思っているのとは違う。俺は、イカロス達とは違うから」

柚は目を瞬かせる。

「会ったとき、俺はその人が母だとは思わなかった。その人も、母だとは名乗らなかった」

母だと気付いたのは、後にイカロスの様子を見てだ。
人の心を読む力のあるイカロスは、全てを知っていた。


今でも忘れられない。
転がったボールを追い掛け、導かれたように森の中に佇む女の人と出会った。

部外者であることは一目瞭然だったが、白衣の研究員や兵達に囲まれながらも、怯むことなく毅然とした態度が美しい豹のようだと感じた。
褐色の肌に目を惹きつける刺青が施され、鳥の羽飾りが長い黒髪を鮮やかに飾っていた。

その女は足元に転がってきたボールを拾い上げると、鋭い眼差しでガルーダを見下ろした。
女ながらも、細い手足にはしなやかな筋肉がのっている。

ガルーダが聴いたこともない言葉で、女はガルーダに何かを告げた。
それと同時、ボールが差し出される。

「有難う、おばさん」と、ガルーダはお礼を告げた。
その時、女は少しだけ厳しい表情を崩し、何処か寂しそうな顔をしていたことをよく覚えている。

女の厳しい眼差しとは対極な、優しい手がそっと髪に触れた。

「楽しいカ?」

たどたどしい共通語で女が問い掛ける。
幼いガルーダからすれば、それは変なしゃべり方にしか思えなかった。

「うん!凄く楽しい!」
「寂シくはないカ?」
「ないよ、イカロスやアスラがいるから。イカロスは意地悪だけど、アスラは可愛い。まだこんなにちっちゃいんだ」

ガルーダは、赤ん坊のサイズを両手で示す。
その頃は自分よりも小さな赤ん坊が可愛くて、周囲に自慢したいほどに夢中だった。

揺り籠の中で眠っているアスラを連れて来ようとすると、女は静かに首を横に振る。

女の飾り気のない唇が、ガルーダの知らない言葉で相槌を打つ。
女は寂しそうでもあり、誇らしげでもあった。

女の指がしなやかに伸ばされ、生まれてすぐに施されたという顔の刺青に触れた。
同時に何かを呟きながら、女はガルーダの前で印を刻む。

すぐにまじないだと気付いた。

ガルーダにはさっぱり理解出来ない言葉で呪文のようなものを唱えた女は、ガルーダを見下ろす。
ガルーダは、突如現れた知らない女の瞳をまっすぐと見詰め返した。

「我等ガ希望。ニグラ族の血ヲ継ぐ男。心かラ強くなレ、さすればニグラの、しいテは己ノ母ノ誇りとなるダロウ」

女の声には、静かながらも逞しさが漲っている。
まるでその声に呼応するように木々がざわめき、その女を中心とするように雲が円を描いているようだ。

力強い、強烈な存在感を持つ女
こんな人間がいるのかと、ガルーダは高揚を覚えていた。

「そノ名に恥ジヌよう、強くなレ、"ガルーダ"」

額にキスを残し、踵を返した女は大人達と共に消えていった。

あの頃は、女の言葉の意味を全て理解することは出来なかった。
女のこと自体、変な人だとすら思った。

だがそれは、ガルーダが母より唯一与えられた教えとして、今も強く胸に刻まれている。

もはや、女の顔など覚えてもいない。
どうせならば、もっと良くその顔を見ておけばよかったと思うほど……一瞬の邂逅は他人としての出会いだったのだ。


思い出しただけでも、懐かしい。
そんな思い出を胸の内に留め、ガルーダは静かに口を開いた。





NEXT