「ああ、くそっ……」

胃を抑えながら、焔は訓練室の壁に寄り掛かり悪態を漏らす。
あぐらの上に頬杖を付く焔の不機嫌な顔を見て、アンジェが怯えていた。

「男のくせに、いつまでも引き摺るなよ」
「あァ?なんに言ったか」

それを見て吐き捨てたライラの頭を、こめかみに青筋を立てた焔が鷲掴みにする。
すると、空中から柚が軽やかに飛び降りてきた。

「なんだよ、焔はまだご機嫌斜め?ライラに当たるなよー」

柚はライラを抱きしめ、「よしよし」と頭を撫でる。
柚に守られるライラが焔に舌を出すと、焔の目が据わった。

柚は腰に手を当て、睨み合う二人に溜め息を漏らす。

ライラはアンジェの手を引き、鶴折りの続きをするためにさっさと訓練室を出て行ってしまう。
広い訓練室で二人きりになると、焔は不機嫌に鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「もう、ごめんってば。いい加減機嫌直せよ」
「てめぇに妹しか興味がないとか妹とやってたとか誤解された俺の気持ちが分かるかってんだ」
「あれ、枕にしたこと怒ってるんじゃないのか?」
「どっちもだ!?」

目を吊り上げて怒声をあげる。

予想通り、噂は尾びれ背びれが付いて不名誉な噂が広がっていた。
終いには知らない研究員に、「使徒は近親相姦率が高いから気にするな」と励まされる始末だ。

柚は乾いた笑みを漏らし、もう一度軽く謝罪を口にすると焔の隣に座り込む。

朝、思わず手を振り払ってしまった事など柚は忘れてしまっているのか、気にも掛けていないかのようだった。

女はおしゃべりだし、そのくせすぐに傷付き泣いて騒ぎ、最終的には群れて謝れと追い詰めてくる。
小学生の頃の記憶がトラウマとなっており、どうにも扱いが苦手だ。
男が相手ならば気にも掛けないが、女には優しくと母に教えられてきた為、素直になれない自分が咄嗟に放つ言葉にいつも後悔を覚える。

言葉や態度も炎と同じだ。
容易く人を傷付ける。

だがいつも、それでも、厭きもせずに自分の名を呼んでくれる人
恐れず、笑いかけてくれる存在

その存在に、これ以上何を求める?

相手は、あのアスラ・デーヴァだ。

整った容姿、地位も実力も持つ、最高クラスの使徒、元帥"アスラ・デーヴァ"
対する自分は、何ひとつアスラに勝るものを持たない。

憎らしいほどに恵まれているアスラですらたやすく得られない心を、どうして自分が得られる?

人の心を得る事ほど難しい事はない。
ましてや、愛など……
どうすれば――…

隣で何かを一人で話していた柚が、唐突に――ではないのかもしれないが――焔に話を振った。

「じゃあ焔は気になる子とか居たのか?」
「は?」
「は?ってなんだ、さては人の話しを聞いてなかったな!だから、焔は友達とどんな話しをしてたんだって話。で、好きな人いたのかって聞いてるんだ」
「なっ!な……んで、そういう話になる」

焔が口を尖らせる。
柚は首を傾げて返した。

「好奇心。で、いたの?」
「い、いねぇよ」
「そういえば、そもそも誰かと付き合ったことある?」
「だからー、なんでそういう話になんだよ。そういうのは女同士でしろ」
「いないもん」

柚が即答で不服そうに返す。
「それもそうだ」と、焔は言葉に詰まる。

焔は長い溜め息を漏らした。

「皆そういう話ばっかりだったんだよなぁ。ミカはクラスメイトの山田が好きとか、今日は部活終わるの待ってるから柚は先に帰っていいよ、とか。駅前のお店の服が可愛いけど、お小遣いが足りないとか。コンサートチケットがとれなかったとか」
「……なんつーか、お前も一応普通の女子してたんだな」

柚を見やり、焔がしみじみと呟く。
柚がむっとした面持ちで口を尖らせた。

「それ、どういう意味だ。見るからに可憐な女子高生だっただろうが」
「いや……何処か?」

焔が真顔で問い返す。
柚は焔にプロレス技を掛けながら溜め息を漏らした。

「あの頃はそういう話を聞かされる度、つまらないなって思ってたんだ。でも、全くないと意外にもちょっと寂しいんだよな、これが」
「……」
「そうそうそういえば私、放課後に彼氏と自転車で帰るってのに憧れてたんだ」
「……お前がチャリ漕ぐの?う゛――いだだ!?」

締め付けられ、焔は床を叩く。
焔を開放した柚は、床の倒れ込んでいる焔を見下ろし、首を傾けた。

「で、焔君はどーだったのかな?あーでも、転校ばっかりだったんだよね。それどころじゃなかった?」
「……別に。恋愛なんて最初から興味ねーよ。か、勘違いすんなよ!恋愛に興味がないのと女に興味がないのは別だからな!」

起き上がった焔は、胡坐をかく。
視線が見飽きた訓練室を映し出し、退屈そうに投げ出される。

柚は焔の横顔を見詰め、目を瞬かせた。

「どう違うんだ?」
「惚れた腫れただの、そんなくだらねぇもんに一々振り回されるのはごめんだってことだ」
「くだらない……か」

怒るでもなく、柚は苦笑を浮かべる。

彼にとっては、彼自身よりも妹なのだということを、柚はよく知っていた。
そんな焔からすれば、妹以外はどうでもよかったのかもしれない。

「焔は雫ちゃんが一番だもんな。同じ使徒だけど、私はパパとママ以外のことも考えてたし、今もそうかな。だから、いつだって雫ちゃんを最優先で考えてる焔のことを凄いと思う」

目を細め、柚は静かに告げる。
穏やかな声で紡がれる言葉が、体温で溶ける淡雪のように胸の内で溶けていった。

心から焔を賞賛しながらも、その眼差しは何処か寂しそうに感じる。

「……あのなぁ」

焔が溜め息を漏らして、膝の上に頬杖を付き直した。
目を瞬かせた柚は、焔の顔を見上げる。

「そんな、綺麗なもんじゃねぇんだよ。そりゃ、使徒の習性ってのもあったんだろーけどな、俺の場合は償いだ」

力に目覚めてからの数年間を振り返れば、とても疲れていた記憶しかない。

眠れば、自分の力が誰かを傷付ける夢を見ていた。
眠っている間に力が暴走したらという不安に駆られ、眠っては目を冷ます毎日が続いた。
精神の疲れがストレスとなり、それが感情を不安定にさせ、些細なことで癇癪を起こすようになり、連動するように暴走する力で母を怯えさせ、その事に後悔と自責を繰り返した。

そして、ついには……

「暴走して、雫の腕に移植しなけりゃ治んねぇような酷い火傷を残しちまって、親は俺のことで研究所に相談に行った帰りに事故で死んだ」

何も言わずに話を聞いていた柚が大きく目を見開く。

「俺のせいで親が死んで、雫の人生を台無しにしちまって……だから、俺は全てを掛けて雫に償わなけりゃならなかったんだ」
「……そっか」

波の立たない湖畔に波紋を描くように、静かに柚の声音が返る。
焔は柚へと顔を向けぬまま、僅かに視線を落とした。

「そこまで雫ちゃんを想ってるなら、見ず知らずの奴を助ける為にわざわざ戻ってこなけりゃよかったのに」

呆れの入り混じる苦笑を浮かべ、柚が焔を見上げる。
その視線は、自分を見ているようで見ていない。

焔は柚を見やり、口端を吊り上げた。

「よく言うぜ、半泣きだったくせに」
「なっ!」
「大体、最初に見ず知らずの奴の為に囮になろうとしてたのは、お前だろ。全っ然、役に立ってなかったけどな」

からかうように鼻で笑い飛ばし、焔は指を付き付ける。
「嘘!」と、柚が口を尖らせた。

「た、多少は役にやっただろ?」
「いや、全く。お前が出てった後、すぐにイカロスが来たぜ?後ろから」
「うわっ、何それ!もしかしてイカロス将官、最初から居たとか?なんか恥ずかしい!!」

柚は掌で顔を覆い、床に蹲る。
そんな柚を見やり、焔は小さく笑みを漏らした。

床に置いておいた刀を手に取り、焔はゆっくりと立ち上がる。

「ま、戻ったこと、後悔はしてねぇよ」

柚はゆっくりと焔に振り返り、その顔を見上げた。
そして、柚が苦笑を浮かべて呟く。

焔らしい――…と。

そう、それでいいのだ。
自分のなかの正しさを曲げれば、一生後悔した。

逃げ続ければそれだけ雫の移植手術が遅れ、雫を振り回し、最終的には危険分子として自分は殺されていたかもしれない。
そうなれば、雫は真の意味で孤独になっていた。

「行くぞ」
「え、何処に?」

きょとんとした面持ちで、柚が慌てて立ち上がる。

「ばーか、鶴折るんだろ?後八百八十七羽」

柚が目を見開き、その頬が嬉しそうに紅潮していく。

気が遠くなる数字だ、きっと今日や明日で完成するものではない。
だが、そんなに嬉しそうな笑みを見せられたら……今日もきっとベッドで眠れないだろう。

そう思いながら、焔は振り返らずに訓練室を後にした。





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