何かが体に圧し掛かっていて重い上、体中が痛い。

「なんだ……?」

まだ寝ていたいと思いながらも、焔は瞼を起こして視線を落とす。
腹の上に、何か淡いプラチナピンクの色をしたものが乗っていた。

(まるで、あいつの髪の色だな……)

心の中で呟いた焔の寝ぼけた思考が目を覚ます。
目を見開いた焔は飛び起きかけた。

「な、なっ……!」

何故、柚が人の腹を枕にして眠っているのか……

確か、昨晩遅くまで鶴を折っていたのは覚えているのだが、途中から記憶がない。
そのまま、互いに眠気に負けて寝てしまったことは容易に想像が付く。

焔が上体を起こしても、柚は膝の上に頭を乗せて眠っている。
規則正しく伝わってくる柚の呼吸に惹き付けられるように、焔は柚の寝顔を見下ろした。

閉ざされた瞼を彩るプラチナピンクの睫毛が、まるで輝きを散らしたようだ。
無防備な寝顔は幼さを残しながらも、小さく開かれた柔らかそうな唇と長い髪の間から覗く首筋が妙に艶かしい。

さらに視線を落とすと、今にも下着が見えそうなほどにスカートが捲れている。

焔は一気に急上昇する脈拍に眩暈を覚えた。
心臓が早鐘を打ち、目のやり場に困り思わず赤くなった顔を逸らす。

「おい、起きろ」

焔が柚に声を掛けるが、腹が立つほど暢気な寝息が聞こえてきた。
こちらは理性と共に、誰かさんの頭に圧迫され続けた胃が悲鳴をあげているというのにだ。

(せめてスカートを直せ!あ、くそっ、いろんな意味で胃がいてぇ……)

何故これほどまでに無防備になれるのか、柚の気が知れない。
もしこれが自分でなかったら――例えば、アスラ・デーヴァであれば、柚ももっと警戒しているはずだ。

自分に対しここまで無防備なのは、柚が自分を男と見ていないからだろうか?
それとも、彼女が自分に信頼を預けているという事だろうか?

きっと、答えは両方だ。

(全然、分かってねぇよ……)

いつもいつも……
この衝動を押し込めようとしているのに。
蓋をして閉じ込め、風化させようとしているというのに。

こちらの気も知らずにずかずかと踏み込んでくる。
その衝動に身を任せてしまえたら、どれほど心地が良いかと思えるほどに……

はじめて会ったあの日、同じ使徒だと知った瞬間、自分は何を考えていただろう?

焔は、柚の頬に掛かる髪に爪先でそっと触れる。
小さく唇が開いた。

(誰かに取られるのは……)
"――嫌だ"

自分の心の声と重なるように、耳の奥にアスラの声が響く。
思わず、ぎくりと体を強張らせた。

アスラ・デーヴァは柚を想っている。
柚も満更でないのだろう。

今の柚は照れの方が先に来ているが、いずれはきっと、アスラを好きになる――そういうものだと思っている。
例え好きにならなくても、より強い使徒を産む為、最高位の力を持つアスラとたった一人の女である柚は切っても切れない関係になるはずだ。

胸の奥にもやもやとした不快な塊が集まり始めた。

アスラの告白を聞いてから、気が付けば考えたくもないことを考えている。
以前はそこまででもなかったというのに、二人が普通に話しているだけでも苛々としている自分がいた。

つい最近までは、思わなかったのだ……
あの感情を持たない人形のようだったアスラが、本気で柚を愛するなどと。
二人のくだらない喧嘩を聞かされる度に、何処かでほっとしていた。

だが、気付けばどうだろう?
取り残されたのは自分の方だ。

こうなるのだと、覚悟はしていたはずだった。
それなのに、認めたくはないが、今自分の中にあるのはこの気持ちを忘れようとする想いを上回る、焦りと嫉妬だ。

もし……
自分にも望みがあるとしたら?

もし……
柚に、自分も"アスラ・デーヴァと同じ"、男なのだと思い知らせたら?

もし……
もしも柚が、自分にならばと、少しでも、ほんの少しでも――

指先が吸い寄せられるように、白い頬に触れた。

――特別に想って、くれていたとしたら……?

焔は感情に呑み込まれそうになる自分にはっとして、考えを振り払うように首を横に振った。

ありえない。
踏み出せば、必ず惨めな思いをするだけだ。

女の機嫌取りに奔走しているような男にはなりたくない。
誰かと女を取り合って争うようなみっともない真似もしたくない。
早まって心を得られなかったらどうする?
毎日、どんな顔をして顔を合わせればいい?

きっと……時が経てばこの感情も薄れていくだろう。
だったら最初から最後まで、ただの仲間で終わらせた方がお互いの為だ。

焔は、視線を遠くへと投げた。

柚に触れた手を、爪が食い込むほどに握り締める。
自己嫌悪が込み上げた。

アスラは違う。
何の躊躇いもなく柚に好かれるよう努力すると告げた彼は、焔に強烈な劣等感を植え付けた。

心に秘めた想いをそのまま口にするということは、焔にとってとても勇気のいることだ。
それを躊躇いもなく口に出来るアスラは、悔しいが少し羨ましい。

なんだかんだと言って、自分は傷付くことを恐れている。
ならば傷付く前に、この感情をなかったことにしようとしている。

最初から、体裁や傷付く事を恐れ、スタートラインにすら立とうとしない自分
アスラ・デーヴァの告白を聞いた瞬間、自分は完全なる敗北を感じ、同じスタートラインにすら立つ勇気のない自分に惨めさを感じていた。

それは、今も消える事はない。
より一層、自分を臆病にさせている。

中途半端な自分に嫌気が差した。
物思いに耽る事を止め、焔は溜め息を漏らす。

恋愛感情など、自分には不要だった筈だ。
誰かを好きになったり、なろうと思った事もない。

いつから……
こんなことを考えるほど、心に余裕が出来たのだろう?

それは間違いなく、使徒としての自分を受け入れてからだ。

(ちょっと待て。それじゃあ、俺は雫を……)

自分の考えが恐ろしくなり、焔は手で口元を覆った。

(雫のことを、自分がしたことを、償いを……)

微かに手が震える。

するとその手に、何かが触れた。
焔はぎょっとして目を見開く。

「どうした……?」

いつの間に目を覚ましたのか、まだ眠気眼の柚がぼんやりとした面持ちで自分を見上げている。
自分の手に重なる柚の手を通し、まるで自分の考えが流れ出しているような錯覚を覚えた。

「泣きそうな、顔してる」

息を呑んだ。

考えるよりも早く、「なんでもない」と突き放すように叫び、柚の手を振り払う。
それは、叩き落とすと言った方が正しかったかもしれない。

肌の触れ合う乾いた音が静かな部屋に響いた。

しまったと思ったが、もう遅い。
少し赤くなった柚の手と、驚きに見開かれる赤い瞳。

(あぁ、なんで俺は……)

また、どす黒いものが胸の内に広がっていく。

(いつもこうなんだ――…)

「悪い」や「ごめん」の一言すら、咄嗟に口を出ない。
その代わり、唇を噛み締め、柚から顔を逸らした。

怒るだろうか?それとも、いい加減愛想を尽かせるだろうか?
それならそれでいい……いっそその方が、楽かもしれない。

そのとき、朝一にニエとウラノスの様子を見に医務室を訪れたヨハネスが、焔と柚を見て足を止めた。
次の瞬間には、施設を震撼させるようなヨハネスの激昂が響き渡る。

柚は不機嫌な面持ちで起き上がり、ヨハネスを半眼で見上げた。

「なに……」
「何じゃありませんよ!あなたこそ、い、いい、一体何をやっているんですか!」

青褪めていたヨハネスが赤面し、柚を指差す。
厄介な状況で厄介な相手に見付かり、焔は頭を抱えたくなった。

とはいえ、元凶の柚は悪びれた様子もなく瞼を擦っている。

「何って……千羽鶴を」
「そうじゃありません!!」

鋭いヨハネスの怒声が柚の言葉を遮った。

「年頃の娘が、お、男と同じ部屋で一夜を明かすなんて!ふ、ふしだらですよ!」
「……ふしだら」

眠気眼のまま、柚が枕にしていた焔を見る。

焔はもはや、何に対しても言い訳をする気力もない。
ばつが悪くなり、焔は柚の視線から逃れるように顔を逸らした。

まだぼんやりとしている柚がさらに視線を別の方向に向ければ、ベッドから起き上がりきょとんとした面持ちでこちらを見ている双子。
そしてさらには、その奥で怯えたようにこちらを見ているニエとウラノスの二人。

「男とって言われても……焔と子供だし」
「大いに問題あるでしょう!彼が!」

ヨハネスが焔を指差した。

「いいですか、柚君。焔君だって年頃なんです。男は二十代前後が、最もそういったことに関心の強い時期なんです!な、何か間違いがあったら、どど、どうするんですかっ!!」
「じゃあ、ヨハネス先生もそうなの?」

柚が首を傾げて問い返す。
ヨハネスの顔が火を噴きそうな勢いで赤く染まった。

「ぼっ、僕のことはどうでもいいんですよ!ぼ、ぼぼ、僕は、医師としての責務を全うする事に精一杯で、そ、そんなことに興味は――」
「というのは建前で、緊張のあまり勃たなくて、終いにはストレスで胃潰瘍になったから、今だ童――」
「ぎゃー玉裁!?な、なな、なんて事を言うんですか!あなたは!?よ、よりにもよって女性と子供がいる前で!!」

背後からぬっと顔を出した玉裁に、飛び上がったヨハネスが慌てて玉裁の口を塞ぐ。
玉裁はその手を迷惑そうに振り払い、大きな欠伸を漏らしながら医務室に足を踏み込むと、真剣な面持ちで焔の肩を抱いた。

「朝っぱらからギャーギャー騒いでんじゃねぇよ、ったく。で?焔、やったのか?」
「なっ、んなわけあるか!」

焔が赤くなって怒鳴り返す。
玉裁はわざとらしく肩を竦めて見せた。

「だよなー、お前にそんな度胸ねぇよなー」
「てめっ!?」
「そういやお前、コイツ相手じゃ勃たねぇって言ってたし?」
「……は?」

柚が眉間に皺を寄せて焔に振り返る。
焔は言葉に詰まり、逃げ出したくなった。

「ぎょ、玉裁!あなた、少しは恥を知りなさい!」

玉裁に掴み掛かる焔と共に、ヨハネスが真っ赤になって怒鳴りかかる。
すると、柚が半眼でヨハネスを止めた。

「とりあえず、本人がそー言ってるらしいし、大丈夫なんじゃないの」
「ですが……」

焔は柚の静かな怒りを感じ、ますます逃げ出したくなる。
が……柚は淡々と続けた。

「まあどっちにしろ、焔は女に興味ないし」

当然のように告げる柚に、焔の顔が引き攣る。
一体何故そうなるのか、甚だ疑問だ。

玉裁が馬鹿にしたように、「女に興味ねぇなんて病気じゃねぇの?」と笑い飛ばした。

決して、興味がないとかそういうわけではないのだが……
と、周囲に変な誤解を植えつける前にフォローを挟みたいが、羞恥心と気後れがそれを躊躇った。

すると、「それに」と柚が微笑みを浮かべる。

「あったとしても、焔は妹の雫ちゃんにしか興味ないもん」

焔はベッドの角に頭をぶつけた。

ヨハネスの声に集まってきていた研究員やキース達が、柚の言葉にどよめきをあげる。
わなわなと怒りに震える焔を他所に、ヨハネスが渋々といった面持ちで頷いた。

「まぁ……それも、そうですね」
「!?」

「何故納得する!?」と言いたげに振り返る焔を他所に、玉裁がゲラゲラと笑い声をあげている。

(こいつ等の中の俺って、一体……)

数分後には、焔が妹にしか興味のないという噂に尾びれ背びれが付いて広がっている事だろう。
お前等なんて大嫌いだと心の底で叫びつつ、焔は泣きたくなった。





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