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ステージを降りると、アスラとイカロスが出迎えた。

イカロスが片手を腰に当て、苦笑を浮かべて柚に手を差し伸べる。
柚はイカロスの手を取り、階段を三段抜かして飛び降りた。

「全く、ヒヤヒヤさせてくれたね」
「ごめんなさい、有難う!」

イカロスに抱き付くと、イカロスは穏やかに笑みを浮べ、柚の頭を撫でる。
穏やかな微笑みと共に「ご苦労様」と労いの言葉が降ると、柚ははにかんだ笑みを浮かべて返した。

柚はイカロスから離れると、勢いを付けてアスラに抱き付く。
アスラは柚を受け止めながら、嬉しそうにしている柚を見下した。

「アスラも有難う、アスラのお陰で助かった」
「礼は不要だ」

柚と焔の面子の為でしたことではない。
世界が注目する春節の舞で失敗すれば、アジア帝國の使徒全体、如いては国の恥となる。

「今度は、任務成功?」

守れなかった命の為にも、踏み出すと決めた。
成功こそが、自分達の中でのけじめとなる。

「ああ、よくやった」

アスラが目を細め、穏やかな微笑みを浮かべた。

柚の顔がみるみる晴れ渡る。
邪気のない微笑みは、彼女を幼く見せた。

(懐かれる、というのはこういう気分か……)

アスラは心の中で呟きを漏らす。
悪い気はしないのだが、物足りない。

その時、アスラとイカロスは宙を見上げた。

「柚!」

二人の間に割り込むように、ハーデスが空間を跨いで姿を現す。
姿を現すと同時、ハーデスがそのまま柚に抱き付いた。

「凄く綺麗だったよ、なんだかわくわくした。もう一回観たい」
「え、本当?有難う、ハーデス」
「あ、でも……焔はいらない」
「何でだよ」

ハーデスのじとりとした視線に、焔が顔を引き攣らせる。

「よく分んないけど、なんだか……二人が凄く仲良しな感じで、俺寂しかった」
「なっ!何言ってるんだよ!変な事言うな!いつも通りだろ!」
「え……うん、ごめん」

焔を押し退けて柚が否定すると、ハーデスがその迫力に圧され、しゅんとした面持ちで柚の顔を見た。
焔が目を瞬かせると、アスラが僅かに眉間に皺を刻んだ。

イカロスは意外そうに柚を見やり、苦笑を浮かべる。

「なんで柚が怒るの……?」
「お、おお、怒ってない!」
「あれ、まだこっちにいたんですか?」

悲しそうに問うハーデスに柚が声を荒げて返していると、フョードルを連れたフランツが顔を出した。
「もう控え室かと思いましたよ」と明るく告げ、フランツは柚と焔に興奮気味に駆け寄る。

「二人とも、お疲れ様です。途中でどうなるかと思いましたが、ほんっとうに凄かったです。最高でしたよ!」
「有難う、フラン!」

柚はフランツにお礼を言うと、遠慮がちに離れた位置から柚を見ていたフョードルに抱き付いた。

フョードルが驚いたように顔を赤くする。
わたわたと彷徨う手が、柚の言葉にゆっくりと動きを止めた。

「あ、あのっ!」
「フョードルも助けてくれて有難う。この間はごめん。フョードルのこと、嫌いじゃないからな」
「柚殿……」

フョードルが肩から力を抜き、照れたようにますます頬を染めて俯く。

「あの、その……私も、無神経でした」

(おお、年下に気使われてる)

柚は自分の不甲斐無さに苦笑を浮べた。
すると、フョードルがおずおずと柚の肩を押し返す。

「柚殿、そろそろ、は、離れてくださいっ」
「何?フョードル照れてるの?かっわいいー」

柚がくすくすと笑みを浮べ、ぐりぐりとフョードルの頭を撫でる。

アスラが見るからに不機嫌顔だ。
刻一刻と不機嫌さが増していくアスラに、フョードルが脅えている。

全く気にも留めない柚をアスラがフョードルから引き剥がそうとした時、いち早く焔が柚の手を掴み、フョードルから引き剥がした。

「行くぞ」
「え?」
「次、このまま撮影だろ。早く行くぞ」

焔が柚の手を引き、歩き出す。

イカロスが再び意外そうに「へぇ」と呟きを漏らし、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
アスラが無言で二人の背を見送り、ハーデスが残念そうに口を尖らせていると、面倒臭そうにユリアがハーデスを呼び戻しにきた。

「ハーデス、勝手に行くなってライアンが……って、何、あの二人」

目の前を通り過ぎていく焔と柚を見やり、ユリアは興味も薄く呟きを漏らす。
フランツは耳の赤い焔と頬の赤い柚を見やり、小さくくすくすと笑みを浮かべた。

小走りで焔の歩調に合わせる柚は、振り返らない焔の背を見詰め、視線を落とす。
二人きりになると、どうしても気まずい。

(って、ちょっと褒められたぐらいで、焔のこと意識しちゃうなんて……私のばかっ。とりあえず、何でこんなに気まずい空気になってんだ、なんとかしなきゃ!)

「あー、あの、焔?」
「……なんだよ」
「さっきはごめん、ミスして」

焔が足を止め、肩越しにじろりと振り返った。

「そういや、なんであんなミスしたんだよ?」
(えっ、焔忘れてたのか!墓穴掘った!?)

責めるような視線から逃れるように、柚は焔から視線のみ逃れる。

正直にはとても言えない。
意地でも言えない。

柚は指を絡ませ、ぎこちなく笑みを浮かべた。

「え、えーっと、よく分んない」
「なんて理由が通ると思うなよ」
「ですよね」

青筋を立てる焔に、柚は顔を引き攣らせて首を竦める。

迷惑を掛けたのだ、焔には当然、知る権利があるのだが……
柚は唇を引き結び、恥ずかしそうに赤い顔を俯かせる。

焔は困惑した。

(な、なんで赤くなるんだ?え?まさか、男には言い辛い系の理由なのか?え?だ、だとしたら、俺相当デリカシーのない奴とか思われて……)

釣られるように焔の顔が赤くなる。

「い、言いたくないなら!べ、別に無理には、言わなくても……」
「え?そ、そう?」

(って、なんで焔まで赤くなるんだよ!何この状況!もしかして、私が変に意識しちゃってるの気付かれた?だとしたら……)

――恥ずかしい上、もの凄く気まずい!?

二人は同時に心の中で悲鳴をあげた。
二人は赤くなり、無言で俯く。

沈黙がより一層重い空気となり、焔はぎこちなく体を返した。
まるで、全身が錆付いたロボットのように、動きが硬くなってしまう。

「と、とりあえず、い、行くぞ」
「う、うん……そ、だな」

(ど、どう考えても不自然……)

互いに顔を逸らしたまま、普段通りに振舞えない自身を嘆いた。
歩き出そうとしたそのときだ。

「柚さん!」
「え……?」

聞き覚えのある声に、柚が振り返った。

「柚さん!お久しぶりです!」
「シェリー!」

柚は目を見開き、駆けてくるシェリーに小走りに駆け寄る。
すぐ目の前にいるのに、ここにいる事が信じられない。

シェリー・グラゴールは、柚にとって、自分が使徒と気付いてから初めての友人だ。
金のたわわな髪と透ける様に白い肌、澄んだ琥珀の瞳も、おっとりとした上品な仕草も、記憶と何等変わりのない。

「どうして此処に?」
「ふふ、お父様に無理を言って話を付けていただきました。直接お二人に感想をお伝えしたかったんです。とても感動しました」
「有難う、それを伝える為だけにわざわざ来てくれたの?」
「ええ、折角お父様のコネがあるんですもの。大切な友人にお祝いを伝える為に使ってこそ、有意義というものです」

シェリーは悪戯な微笑みを漏らした。
柚が感激した面持ちで目を輝かせる。

すると、シェリーは躊躇うようにして、意を決した面持ちで顔をあげた。

「もうひとつ、是非柚さんと焔さんに知っていて欲しくて。実は私、政治家になる為の勉強を始めたんです」
「え、シェリーが?」
「はい!」

おっとりと微笑む少女は、以前のような頼りなさなど何処にも見当たらない。
未来を見据えた覚悟の瞳が、羨ましいほどに輝いている。

だが、二人の会話を聞いていた焔は柱の影に隠れている人物に気付き、眉を顰めた。

「おい、なんだお前」
「あ、違うんです。彼は私のSPをお願いしているんです」
「え?」
「相澤さん、こちらにいらしていただけますか?」

シェリーが声を掛けると、ばつが悪そうに青年が柱の影から顔を出す。
柚が目を見開き、再び大声をあげた。

「え、相澤って、まさか本当に相澤?」
「よ、よお、久しぶり」
「なんで相澤がシェリーのSPに?話がさっぱりなんだけど?」
「私が議員になった際、軍内部からの協力者としてご活躍頂こうと思っているんです。柚さんのお知り合いの方ですし、そういった方の方が信用できると思ったのでお声を掛けさせて頂きました」
「へ、へぇ……なんか、へー」
「お前、言葉になってねぇぞ?」

驚きが勝る柚に、焔が半眼で返す。

柚にとっては元同級生の兄であり、今では同じ軍人だ。
一週間ほど研究所に荷物の運搬を行なっていた彼は、出世とは程遠い存在だった。
シェリーの大きな夢への驚きと、失礼ではあるが一般兵である相沢 慎也をSPとして雇うシェリーの考えのギャップに柚は付いていけない。

困惑する柚を他所に、シェリーは全く迷いのない眼差しで微笑んだ。

「今後、士官試験を受けて頂く為にグラゴール家でお預かりさせて頂いているんです。SPはその間のバイトとパイプ作りのようなものです」
「SPって言っても、まだ全然見習いだぜ?先輩に怒られてばっかりだし」

慎也は、赤くなりながら慌てて付け加える。

「頼りにしているんです。士官学校もグラゴール家が後継人としてバックアップさせて頂くつもりです」
「シェリー……逞しくなったな」
「あら、柚さんにそう言って頂けるなんて光栄です」
「でも、なんでシェリーが……?お父さんの跡を継ぐことにしたのか?」
「そういうつもりではありません。ただ、私がやらなくて誰がやるんだと思いました。いつか誰かがなんて言っていたら、いつまで経ってもそんな日はこないと思うんです。だからやるんです」

シェリーは頬に手を当て、したたかに微笑みを浮かべた。
柚はといえば、唖然としつつ感心するばかりだ。

「間違っていると思うんです。皆さんの家族を想う気持ちを利用して……いくら強い力があっても、柚さんなんて女の子なんです、普通の女の子なんですよ?焔さんだって、他の皆さんだって、心は私達と変わらないんです。皆さんは恐れるべき存在じゃありません。あんな場所に閉じ込められ、無理やり軍人にされて、子供を産む事を強要されるなんて絶対に変です」
「え?シェリー、まさか私達の為に?」
「はい。もちろんそれだけではありませんが」
「シェリー……気持ちは嬉しいけど、でもそれは仕方ない」

柚が目を見開き、申し訳なさそうに視線を落とした。
そんな弱気の柚を咎めるように、シェリーが僅かに声を荒げる。

「本当にそれでいいんですか?もう、ご家族に会いたくないんですか?一緒に暮らしたくないんですか?」
「それは、もちろん会いたい、暮らしたいよ。でも――」
「仕方ないなんて言葉で片付けていいんですか?柚さんの人生なんです、諦めないでください!私だって、こんな後ろめたい方法で柚さんにお会いしたくないんです。堂々と胸を張ってお茶をしたり、ショッピングをしたり、他愛ないお話をしたいんです。本当は今日だって、柚さんにお話したいことや聞きたい事が沢山あるんです」

顔をあげたシェリーは、ぎょっとした面持ちで柚を見た。
柚がぼろぼろと涙を流している。
そんな柚を見て、シェリーも釣られるように涙を流した。

「泣かないでください、私まで釣られちゃいます」
「ごめん、でも、だって、シェリーが泣かせたんだからな!シェリー大好き!もういっそ結婚したい!」
「私もです、柚さん!」

抱き合いながら声をあげて泣き始める二人に、焔は呆れた面持ちで溜め息を漏らし、くすりと苦笑を漏らす。
柚は化粧を気遣いながら涙を拭い、慎也に向き直った。

「相澤も、有難う」
「いや、俺は、本当、彼女に言われるままやってるだけで全然。でも俺ももっと、頑張るから」
「ううん、嬉しいよ」

その言葉に、慎也が穏やかに笑みを返す。

「では、私達はこれで。次にお会いする機会に恵まれた際には、皆さんを良い報告を持って参ります」

まるで、再会が夢であったかのようだ。
暫らくの間、柚はぼんやりと、二人が消えた廊下を眺めていた。

そんな柚を急かすでもなく、焔は小さく呟きを漏らす。

「凄いな……」
「うん、シェリー凄い」
「あいつもだけど……お前もな」
「えー、私?」

柚が不思議そうに目を瞬かせる。

友人の為に、将来に向けて大きな決断をしたシェリー。
そして、一生を変えるほどの大きな決断をさせてしまった柚。

「お前、本当凄いよ」

心の底から称賛をするかのようにくつくつと笑みを漏らす焔を見上げ、柚は赤くなりながら口を尖らせた。

「全然分からん、さっぱり分からん。大体、焔の方が凄いだろ」
「あ?何処が」
「だって、シェリーにもっと自分を大切にしろ!とか言って説教したんだろ?お前はオヤジか?」
「てめっ、人が折角誉めてやってんのに!」
「はは」

柚は笑みを浮かべ、焔の横を通り過ぎて振り返る。
長い髪がかんざしと共に揺れ、さきほどまでの冗談交じりの笑みは何処へやら……柚の顔に妙に大人びた笑みが浮かんだ。

「でも、シェリーは私の大切な友達だから、感謝してる」
「……」
「これがアスラだったら、高確率でシェリーが喰われてただろうし……」
「ま、まあ、否定はしないが、もう少し信用してやれよ」

青褪めて戦慄く柚に焔が顔を引き攣らせる。
すると、柚は意外そうな面持ちで焔の顔を覗き込んだ。

「へぇー、焔がアスラを庇うなんて珍しい。やっぱり今日の焔は変だな」
「ま、まあ認めたくないが、今日はあいつに助けられたしな。ところで、やっぱりってなんだ」
「ううん、こっちの話」

柚は慌てたようにそでで口を塞ぎ、焔に背を向ける。
焔がいぶかしむ様に眉間に皺を寄せていると、スタッフがいつまで経っても戻ってこない二人を呼びにきた。

雑誌やテレビの取材と撮影、その後、式典の出席を兼ねた警護。
スケジュールはぎっしりと詰っている。

「焔」
「あ?」

歩き出した焔に、柚が思い出したように声を掛けた。
焔が足を止め、肩越しに振り返る。

柚は苦笑を浮べ、焔に追い付くとぐいっと肩を引き寄せた。

「新年快樂!」


柚の晴れやかな笑みと共に、空では太陽が輝く。


そんな太陽の光の届かぬ場所で、床榻(しょうとう)に横たわる男の長い睫が揺れた。
ゆっくりと開かれる瞼の下からは、血のように紅い瞳が姿を現し、僅かに身じろげば肩に掛かる長い黒髪が滑り落ちる。

「お目覚めですか、アダム」
「ああ、おはよう、サラーサ」

線の細い顔立ちと柔らかな物腰、女性と見間違うような美しい顔立ちの男は、床榻に寝転ぶアダムへと微笑み掛けた。

「如何でしたか、エヴァの舞は」
「実に素晴しかった」

アダムは体を起こすでもなく、艶やかに目を細めて恍惚とした眼差しで遠くを見詰める。
まだその夢に浸っていたいとでも言うかのように、夢の世界に想いを爆ぜるアダムの姿を、サラーサは穏やかな眼差しと共に見守った。

「さすが……というべきかな。アジアの彼等はまだ気付いていないようだが……彼女本来の価値と才能を垣間見たよ」
「それは頼もしい。それにしても、エヴァの舞を私も是非拝見しとうございました」
「見せてあげたかったよ、君もきっと気に入る」

アダムはゆっくりと体を起こし、床榻を出る。

岸壁がドームのようにぐるりと円を描き、まるで水面鏡を覗き込むかのように、中央の広場では人々の生活が和やかに展開されていた。
空から太陽の光が降り注ぎ、恵み深くさんさんと辺りを照らし出していた。
青々と生い茂る芝生の中央には、一本の林檎の木を囲む噴水から水が溢れている。

まるでそこが楽園であるかのように、誰もが安らかな笑みを浮かべていた。

噴水に腰掛けるサリーに身を包む褐色の肌をした一人の女に、顔に大きな傷のある壮齢の男が歩み寄る。
男が女の抱く赤ん坊に寛厳な顔を向け、女に窘められている姿は周囲からも朗らかな笑みをもたらす。

アダムは手摺に凭れ、くすりと慈愛に満ちた笑みを浮かべると、緩慢な動きで音もなくサラーサに振り返った。

「サラーサ。ハムサに今回はご苦労だったと労いの言葉を掛けておいておくれ」
「よろしいのですか?日頃、素行の悪さでご迷惑をお掛けしておりますのに……」
「構わないよ。あの子の悪戯など可愛いものだ」

くすくすと笑みを漏らし、アダムは目を細める。

「私が許しがたいのは、そうだな……エデン。彼等は少し、おいたが過ぎた」

指先が顎を滑り、手摺にゆっくりと頬杖を付く。
サラーサは優雅さを感じる動きで一礼し、アダムの傍から姿を消した。





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