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春節が明け、数日が経った頃。

アース・ピースの基地にも冬らしい光景が訪れていた。
研究員達の間で風邪が流行し、研究所から人の気配が薄れ、マスク姿が目立つようになる。

廊下で柚とフランツ、そしてフョードルの三人とすれ違った医師のラン・メニーは、三人を呼び止めた。

「というわけで、焔は風邪で寝込んでるけど、うつったら困るからお見舞いにはいかないようにね」
「えー」

ランの言葉に、柚が不服そうに返す。
すると、ランと共にいたマリアが柚をぎろりと睨んだ。

「柚、返事は?」
「はーい」
「伸ばさない」

まるで姉のように柚を叱るマリアを尻目に、柚は逃げていく。
慌てたようにぺこりと会釈をし、その後にフランツとフョードルが続いていくと、「守る気がないですね」と、マリアはため息を漏らした。

廊下を駆ける柚は、曲がり角でアスラとぶつかりそうになり、慌てて急ブレーキを掛ける。

「何やってんだ、お前は!」
「ごめん!」

後ろからライアンズが怒声を上げると、柚が慌てて謝罪を口走った。

「何を慌てているんだ?」
「ううん、ただ、焔が風邪で寝込んだっていうから、様子見てこようと思って」
「はー?焔もかよ、ったく」

ライアンズが頭を抱えるようにため息を漏らす。
そして、からかうように柚へと身を乗り出した。

「お前は風邪とは無縁そうでよかったな」
「なんか、馬鹿にされてる気がするんだけど、そういうライアンこそ元気そうで何よりだな」

腕を組み、柚が身を乗り出して返す。

「あいつ等とは鍛え方が違うんだよ」
「ほう……」

風邪が治りかけのアスラが、ライアンズを横目で見下ろした。
ライアンズがはっとした面持ちで音を立てて固まる。

「ざまあみろ」と小声で吐き捨てる柚に、「可愛くねぇ」と文句を言うライアンズを尻目に、アスラは柚へと視線を向けた。

「なんにせよ、油断はするな」
「うん。それよりアスラは?もう風邪大丈夫?」
「ああ」

背伸びをしてアスラの額に手を伸ばす柚に、アスラが膝を屈めて返す。
柚は、アスラとライアンズの体温を比べて満足する。

「さすが、自己治癒があると治るの早いな。でもまだ声が変だし、無理するなよ?って、元帥のアスラに言うのが無理だろうけど……何か手伝えることがあったら、手伝うから」
「そうか、ではとりあえず大人しくしていろ」

嫌味でもなく、当然のように出たアスラの言葉に柚の顔がひくりと引き攣り、ライアンズが「ぷっ」と噴出す。
すかさず柚はライアンズの脛に蹴りを入れると、舌を出して走り去っていく。

そして、思い出したようにアスラに振り返り、大きく手を振った。

「アスラー、お昼の約束大丈夫そうー?」
「ああ」
「じゃあ、時間になったら迎えに行くから」

去っていく柚を見やり、ライアンズはアスラを見上げる。

「約束、ですか?」
「ああ。柚に、食事は一人で食べるよりも一緒に食べた方がいいと言われた」

アスラは、止まっていた歩を進めた。
「へぇ」と呟き、ライアンズはその顔に笑みを綻ばせる。

「そりゃ、そうでしょうね」
「そうか、俺は知らない事ばかりだな……今度はお前に、風邪をひかない鍛え方というものでも教わろうか」
「げ、元帥……いや、さっきのは、そのっ、すみませんでしたっ!」

慌てるライアンズを見て、アスラの顔に小さな笑みが綻んだ。



「うん、いい傾向だ」

木に凭れるイカロスは、腕を組んだまま微笑ましそうに呟きを漏らす。
木の上に座るガルーダは、「なにが?」と関心薄く訊ね返した。

すると、下からイカロスが咳き込む声が聞こえてくる。

「背中でも、擦ってやろーか?」
「そんな暇があるなら、仕事の手伝いをして欲しいな」

ガルーダは、「またそれだ」とでも言いたげに肩を竦めて返す。

ライラが感染し、続いてヨハネス、ジョージ、フランツ、フェルナンド、そしてハーデス、ユリア、アスラ、焔。
すでに回復した者もいるが、半数以上のメンバーが風邪に寝込んだ。

「誰かさんはやる気がないようだし……俺も、おちおち寝込んでいられないよ」

イカロスは手にする書類の束に視線を落とし、溜め息を漏らす。
日頃から笑みを絶やさない彼にしては珍しく、顔に疲れが浮かんでいた。

「俺がやったら文句を言うのは誰?」
「……俺だね」

イカロスが溜め息を漏らし、再び咳き込む。
隣に飛び降り、背中を擦るガルーダを横目で見やり、イカロスは再び溜め息を漏らした。

「で、どうだった?随分時間が掛かってたようだけど」
「そりゃあ全員人間だったかも怪しいほどに黒焦げだったからね。脳に残された記憶も、四、五体に一体、かろうじて拾えるものがある程度さ。まあ、遺体はやはりというか……エデンだった。脳は完全に損傷してるし、残留思念を読み取るのもやっとだったけど間違いない」

政府はその情報を一切公開していないが、春節の日、会場から少し離れた場所に数十体の黒焦げになった死体が発見され、衝撃を呼んだ。
死体の損傷が激しく、さじを投げた検死官の代わりにイカロスに御鉢が回ってきたのだが、死んだ人間の残留思念を読む作業はイカロス自身が死を味わうようなもので、イカロスにとっても精神的なダメージが強い非常に危険な仕事だ。

「あーあ、今回は神森に助けられちゃったってことか」
「悔しいけれどそうなるね。俺達は面子丸潰れだ」
「癪には障るけど、俺としては春節が大成功だったんだから、それでいいと思うけど」
「そうもいかないのが人間の社会さ」
「同意」

ガルーダがくつくつと笑みを漏らし、横目でイカロスを見た。

「後、どれくらい?」
「君って奴は……いくら相手が俺だからって、もう少しオブラートに包んで欲しいな」

呆れたかのように呟き、イカロスがガルーダを見上げれば、ガルーダの真剣な眼差しが自分を見下している。
小さく苦笑を浮べ、イカロスは静かに首を横に振った。

薄い雪に覆われた大地。
見慣れた風景が、新鮮な色彩を放つ。

雪は、明日には溶けてしまうだろう。

春は目覚めの季節だ。
そして、別れの季節でもある。

「そういえばガルーダ、聞いたかい?辞職したマクレイン女史が、助手のハドソンって人と結婚したって」
「へぇ、そういう関係だったんだ。気付かなかった」
「俺が前に行った時は完全にハドソンの片思いだったんだけどな。うーん、侮れないね」
「知ってたなら教えろよ」

ガルーダが不満そうに口を尖らせると、イカロスはくすくすと笑みを漏らす。

「ごめんごめん、君ってそういうことにあんまり興味がないでしょ」

「ただ」と、イカロスは遠い眼差しで空を見上げた。
寒さに、冷たい指先を握りこむ。

「彼はそういうのを割り切っていて、伝えるつもりも報われるつもりもなかったんだ。だから、その話しを聞いて少し意外だったかな」
「へえ、イカロスを驚かせるなんて、ハドソンやるな」
「全くだ。人間ってのは本当に奥が深いよ。けどね、ガルーダ。どんなに孤独に感じても、ふと足を止めて振り返れば、ちゃんと見ていてくれる人がいることに気付くものさ」

そこで初めて、その人物への感謝と大切さに気付くのだ。

愛しそうに……くすりと穏やかな笑みを浮べ、イカロスは瞼を閉ざした。
閉ざした瞼には、太陽の光が光点のように焼き付いている。

「一時期は駄目かと思ったけど……柚ちゃんと焔も自力で回復してくれて良かった」
「よく言うよ、心配なんてしてなかったくせに」
「心外だな、してたさ。けど、それ以上に信じてたよ。あの二人なら大丈夫だってね」
「あの二人は――二人でなんとか一人前だからなぁ」
「確かに」

軽く笑い飛ばし、イカロスは白い息を吐いた。
腕を組み、その白い息を吹き飛ばすように息を吐きながら、イカロスは木へと凭れて目を細める。

「まあ、この程度で躓いてもらっては困る」
「……」
「あの二人も、アスラにもね……」





風邪をひいて寝込むのは、随分久しぶりだ。
瞼を起こしたばかりのぼんやりとした視界の中、突如大きな赤い瞳が覗き込んでくる。

「ゆ、ず……」
「起きた?魘されてたぞ」
「……夢、見てた。雫と、お前の夢」
「え?私?そんな?」

柚が苦笑を浮かべた。
そんな柚を見上げ、焔はふいっと顔を逸らす。

「雫と逃げてるんだ。気付いたら、俺の周りに知ってる奴等の死体が転がってて、俺も怪我して血だらけなのに全然痛く感じないんだ」
「な、なんだか、物騒な夢だな。熱があるからだろ、そういう時って良く恐い夢見るし」
「……そうしたら、お前が出てきて……怪我してるぞって、痛くないのかって聞いてきて」
「なんだ、それ。手当くらいしてやればいいのに、夢の中の私は気が利かないな」
「お前に言われて……怪我すると痛いってことを思い出したんだ」
「なんだ、そりゃ?」

噛み合わない会話の中、柚が眉を顰めた。
焔は、その問いに答えを返す気など毛頭ない。

政府から逃げ回っていた自分は、いつしか自分ではなく、雫を通して物事を考えるようになっていた。
両親が死んで雫が悲しむ、自分が掴まれば雫が一人になる。
自分という存在を、何処かに置き忘れてしまったかのように……しずく、雫。

だが、"雫を通して世界を見る焔"にではなく、直接"焔"に声を掛けてきたのは柚だった。

怪我がないかと気遣われた、柚にとっては何気ない言葉だ。
だがその言葉に、焔は始めて自分という存在を忘れていた事に気付いた。

だがそれは、果たして忘れていたのだろうか?それとも、忘れようとしていたのだろうか?

両親の死の原因となり、妹まで傷付けた使徒の力を嫌っていた自分は、単に自分が妹から離れるのが嫌で、使徒として政府の飼われる人生が嫌で、逃げる理由に"妹"を使っていただけではないのか?
雫の為といいながら、それは本当に雫の為だったのか?

だがそれよりも恐ろしいのは……

「焔、水いる?それとも何か食べるか?」

考えを遮るように穏やかな声が降り注ぎ、自分の弱い心を守っている殻が溶けていくような気がした。

「リンゴ貰って来たぞ、うさぎにしてやろうか?」
「……お前、そもそも皮剥けんのかよ」
「失礼だな!病人は大人しく甘えとけ」
「じゃあ、期待しないで待ってる」

柚の言葉に、焔がふっと力の抜けた穏やかな笑みを浮かべて返す。

柚はそんな無防備な焔の顔に思わずくすりと笑みを漏らした。
思わずアンジェやライラにするように焔の頭を撫でたが、特に抵抗もなく、焔は瞼を閉ざす。

「じゃあリンゴ剥くから、手、放して」
「?」

焔は、自分の手へとゆっくり視線を向けた。

知らぬ間に、自分の手が柚の手を握っている。
とはいえ、いくらでも振りほどける程度の、触れているような力でだ。

(我ながら、どうしてこういう状況に……)

焔はぼんやりと考えながらも、柚の方へと寝返りを打った。

「ほーむら?手放してくれないとリンゴ剥けないぞ?」
「いらない」
「え?」

柚が目を瞬かせる。

小さな手だ、抜けるように白い。
今はこの手がどんな薬よりも頼もしい。

「こうしてる方がいい」
「は?」

柚の手からリンゴが転がり落ちた。
柚があんぐりと口を開いて固まる姿は、いささか間抜けで笑いを誘う。

「お、おお、お前、深刻だな。もう一回、お医者さんに診て貰ったほうがいいんじゃ……」
「ああ、医者はいらねぇけど……お前が、甘えろって言ったんだろ」

瞼を閉ざしたまま呟いた焔から、柚がどんな顔をしているかなど知る術はない。

ただ本当に、柚がそこにいることがとても安心感をもたらす。
今だけは、自分だけの心配をしてくれる。

今だけは……

「俺……少なからず今は、此処に来てよかったと思ってる」
「え……?」

驚いた面持ちをした柚が、戸惑いを誤魔化すように苦笑を浮かべた。

「何言ってんだ、お前。シスコンの癖に」
「シスコンって言うな」

焔は不機嫌に呟き、腕で目を覆い隠す。

眩暈がする。
もう、自分が何を口走っているのかも分からないが、どうでもよく思えてきた。

「……雫は大切だ。けど、俺は雫に疲れてたんだと思う……」
「焔?お前、正気か?」

柚が心配そうに覗き込んでくる気配がする。

「自分でもよく分らんねぇけど、はっきりと言えるのは、俺は不安で苦しかった。逃げても逃げても終りが見えなくて、また雫を傷付けるかもしれない不安もあって、一緒にいると雫の火傷見る度に罪悪感で苦しくなって――…」
「……」
「此処に連れてこられて、最初は嫌だった。でも今は……雫の為にも、俺の為にもこれでよかったと思う」

毎晩のように悪夢と力の暴走に脅えていたあの頃よりも、今は不安もなく眠れていることにも気付いた。

雫に罪悪感を持ちながら、雫への罪悪感で押し潰されそうになり、本当は雫から逃げたかったのではないのか?
雫の火傷も、両親の死も、全て自分のせい、妹はそれに巻き込まれただけのこと。
自分でも、本当にそう感じていたのか……あの頃は、そんな事に気付く余裕もなかったが、妹の人生を狂わせた張本人がもし、被害者である妹を"重荷"などと感じていたとしたら――妹は、そんな兄をどう思うだろう?

そんな自身に気付いた支部でのあの朝、自身の考えに恐ろしくなった。

雫を大切に想う気持ちに偽りはない。
引き離される日が来るであろうことに脅えていたのも確か。

「雫と一緒にいられなくなったらって考えると、凄く不安だったのに……お前がいたから耐えられた」

何物にも変え難い喪失にも、耐えることが出来た。

「な、なっ、何言ってんだよ。焔、ほんっっっとうに大丈夫か?相当酷いぞ」
「ああ……多分、熱のせいだ」

だから、その言葉は忘れてくれと言うように……。
焔は静かに、呟く。

「ハムサと初めて戦ったときも、お前がいなきゃ考えなしに突っ込んで死んでただろうし、アスラの奴も嫌な奴のままだったと思う」
「も、もういいよ。分った、分ったから。焔は具合悪いんだから寝てろよ」
「俺、短気だしすぐ周り見えなくなるし、全然素直になれねぇし、人付き合いとか凄く苦手だけど、お前がいたから、此処でも良かったって思えるし、いろいろな事に気付けたんだ」

いい事ばかりではない。
だが、いつも救いの手を跳ね除けてしまっていたフランツという存在の有難みに気付いた。

「お前が必要なんだ。此処に、いてくれ。傍に……」

柚は自分の頬が赤くなっていく感覚に襲われる。

寝息を立て始める焔を見下し、柚は安堵した面持ちで溜め息を漏らした。
ベッドに肘を立て、焔の寝顔を見詰める。

「はやく元気になれよ」
(ついでに、早くいつも通りの焔に戻ってくれ。でないと――…)

柚は、自分の体温がますます上昇するのを感じ、口元を押さえてベッドに顔を伏せた。

(私まで、変になりそうだ)

焔は友人。
気が合い、お互いの事情を知り、肩を並べていられる友人。

消化不良の恋愛から逃げ出す、安息の関係だったはず。

(早く、元に戻らなきゃ……)

このままでは、焔の顔すらまともに見る事が出来ない。

そこで柚は、思い出したように顔をあげた。
焔の部屋のデジタル時計は昼を回っている。

(あ、アスラとの約束の時間過ぎてる。どうしよう)

誘った時、アスラの表情に乏しい顔は嬉しさを滲ませていたのだ。

だが、その柚を引き止めるように、体温の高い手が自分の手を握っていた。
そっと抜こうと思えば、すぐにでも抜き取ることは出来る力だ。

焔の寝顔を見詰め、柚は諦めたように溜め息を漏らす。

(ごめん、アスラ。今日は、今日だけは……)

柚は焔の毛布を掛け直し、後ろめたさを感じながら椅子へと凭れた。



アスラは手を止め、窓の外へと視線を投げる。

自室で一人で食べる昼食。
それは、いつも通りの昼食のはずだ。

それなのに……

(確かに、不味いな……)

それよりも、虚しい。

アスラはフォークを置き、椅子へと深く凭れ掛かる。
気付けばため息を漏らしている自分に気付き、憂鬱な気分になった。










雪が溶け、太陽の光が暖かく感じられる季節。
庭の木々にも少しずつ緑が芽生え始めていた。

「ニエ」

名を呼ばれ、ニエはゆっくりと振り返る。
にこりともしない、まるで全てを敵と言わんばかりの鋭い眼光に、ジャンは僅かに顔を歪めた。

「まだ外は寒いよ、風邪をひいてしまう」
「ウラノスは……」
「ニエ」
「もっと寒かった」
「ウラノス、ニエの事は……仕方がなかったんだ。もう、忘れなさい」

そう告げたジャンの手を振り払い、ニエが走り去っていく。
彼の為に用意したマフラーが、地面に吸い込まれる。

「……ニエ」

ジャンは膝の上の手紙へと視線を落とした。

ニエに向けられた、柚からの手紙。
彼女はどんな気持ちで、この手紙をニエに書いたのだろう?
自身を責めた相手に綴った手紙は、きっと何度もペンを鈍らせ、自身の傷を抉っただろう。

だが結局、届いたばかりの手紙を彼に渡すことが出来なかった。

ウラノスが、二度と見ることの出来ない春。
ウラノスが生まれてから、ニエがウラノスと共に過ごせない、初めての春。

(ウラノス。ここはまだ……とても寒いよ)

溜め息が白い息となり、花曇の空に舞った。





―End & To be continued…―



更新が途絶え、申し訳ありませんでしたm(__)m

今回もまた予想以上の長さと、すっきりしないラストとなりましたが、なんとか完結です。
更新が途絶えても、見捨てずにここまでお付合い下さった方、心より感謝です。

四部は、ちょくちょく触れてきたマフィアのお話になる予定です。
オーストラリア組や、他国の使徒もちらほらと出て参ります。

四部にもお付き合い頂ければ幸いです。
最後まで、有難う御座いました!

管理人/もも