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灯りが閉ざされた会場のステージに張られた薄い水面。
会場の空気が張り詰めるように静まり返る。

波紋ひとつ描く事のない水面が、響き渡った太鼓の音に跳ねた。
観客達が、はっと息を呑む。

胎動のように、太鼓の音が鳴り響く。
その度に、魚が水面から跳ねるかのように、ステージの中央で水が跳ねる。

何が起こるのか……、観客達の緊張が高まり、頂点に達した時――

銅鑼の音が空気を震撼させ、水面から一際大きく水が跳ねあがった。
水の間から炎が噴出し、炎の中から炎の龍が立ち昇る。
炎の龍は吹き抜けのドームを突き破るように空を駆け、火の粉となって一面に降り注いだ。

物々しい会場に歌うような二胡の美しい音色が響き渡る。

二胡の音色に誘われ、空へと意識を奪われていた観客達の視線がステージの中央へと吸い寄せられた。
火の粉が照らす会場の中央に転々と現れた水と炎の蕾から、水の花びらが一枚一枚花を開いていく。

二胡の音色に琵琶の音が重なり、古筝、揚琴の音色がひとつの音へと姿を変える。

ひとつの水の花の中から、淡い色彩が溢れた。
淡く色付く花のようなそでが顔を覆い隠し、雅やかに柚が立ち上がる。

(ここで登場。そして――)

簪の鈴に重なるように、鈴の音が鳴り響いた。
右手が空に向けて美しい弧を描き、羽衣が宙を舞う。

(ゆっくり、丁寧に、花びらが開くように美しく)

柚は、心の中で李の言葉を復唱する。

鈴の音と共に顔を隠す左腕が弧を描くと、その下から宝石のように透き通った赤い瞳が微笑みを浮かべて姿を現し、鈴の音と共に、両手を広げて回り始めた。

視界が開けた柚の視線が、観客席を盗み見るように見やる。

貴賓席には大統領と政府要人、迎賓席には各国の大使、そして苦労してチケットを手に入れた数多の人々。
マスコミのカメラを通し、幾千、何万、何億の人々が、今この一時の自分の姿を記憶に刻むだろう。

自分の知らない誰かの記憶に、自分の一瞬が入り込む。
そのプレッシャーは大きい。

それだけではない、多くの人々が存在するということは、それだけ多くの思考が起こるということ。
自分の舞を見て、人がどう思うか……果たして、満足して貰えるのか。

(ああ、駄目。考えるな)

ステージに張られた水が波紋を描き、ステージの上を滑るように柚が舞う。

その姿は、水面を流される一輪の花――流民・カサンドラ。
炎とは、すなわち戦火。

水面の上で燃え盛る炎を避けて舞い続けるカサンドラを炎が追い掛け、カサンドラを囲むように炎が跳ねた。
炎のアーチを潜り抜けたカサンドラの前には火の海が広がり、すでに逃げ場はない。

「今年は演出が凝っているな」
「なんせ、ケルヴィムとスローンズだ。当然だろう」

李は、後ろから聞こえてくる迎賓客の感想に小さく溜め息を漏らした。

(時間がなくて派手な演出で誤魔化すことになったとは、口が裂けても言えんな……)

炎が捻れ、巨大な蕾となり、花を咲かせる。
開花した炎の花からは、次々と火の粉が綿毛のように空へと飛び立っていく。

広がるばかりの戦火に力尽きたカサンドラは、静かに膝を折り、蝶が羽を休めるように、長いそでをゆっくりと水面に沈ませた。

水面はまるで雨が降り出したかのように跳ね始める。
雨は涙だ。

人々が流す涙が憎しみへと変わり、憎しみは新たな戦火を呼ぶ。
炎の花が噴出す火の粉は、争いが呼び寄せた憎しみの姿。

涙は炎を鎮めず、復讐は復讐を生む。
火の海はさらに激しく燃え上がり、カサンドラが胸の前で手を組み、神へと祈りを捧げた。

本当に神が存在したとしたら、カサンドラの願いは神に届いたのだろう。

炎の花が一斉に開花し、太鼓の音と共に、カサンドラの背後の花から火柱が空へと昇った。
羽を沈めた蝶を奮い立たせるかのように、炎の風が水に沈んだそでと柚の長い髪を舞い上げる。

太鼓が刻一刻と間隔を速めて鳴り響き、一際大きな銅鑼の音と共に、剣が火柱を真っ二つに切り裂いた。

江龍は空高く剣を構えながら、瞼を閉ざしたまま足を踏み鳴らす。
カサンドラを包む炎が蝋燭の火を消すように掻き消され、カサンドラの髪を優しく揺らした。

焔は柚の背を通し、観客席をまっすぐに見る。

(優美な黒帝――江龍)

炎を纏う剣を片手で回しながら、体に響く銅鑼の音と共に、焔が力強く足を踏み出す。
焔の足元で水が跳ね、炎までもが怯えたように跳ね上がった。
炎の花が散り、火の粉が水面に呑み込まれる。

無限を描くように剣を舞わせ、足を踏み出し、軽く水面を蹴る。
剣を空中で手放しながら体を一転させ、重力に引かれ掛けた剣の柄を捕らえ、地面に足を付く。

水が静かに水滴を散らして跳ね上がり、水の粒は泡のように空に昇り、弾けて消えた。

(ここからが、第一の難関)

練習時の成功率は半々だ。
耳を澄まし、音楽に呼吸と剣の回転、そして力の加減を合わせ……

焔は剣を空へと投げ放った。
空高く空中に投げ放たれた剣は回転をしながら落下してくる。

焔は流れるような動きで腰の鞘を抜いた。

落下してくる剣の回転、向き、タイミング。

落下した剣に手も触れず、吸い込むように鞘が刀身を受け止めた。
刀身が鞘を滑る音と、柄と鞘の交わる音が楽器のひとつであるように、空気の張り詰めた会場に響き渡る。

それと同時、ステージ上に燃え盛る全ての炎が一瞬にして消え去り、観客が忘れていた呼吸を吐きだす音を肌で感じた。

会場を闇が包み込んだ瞬間、笛の音が凛とした音色を奏で始める。

ステージをライトが一斉に照らし出し、明るいステージ上には踊り子達の鮮やかな蕾が姿を現す。
楽器の音色が笛の音を引き立てるようにひとつの音楽を奏で、蕾は中央に立つ江龍と、江龍に背を向けて祈るカサンドラに向けて次々と花弁を開き、鮮やかな色彩の花がステージの上で舞い踊った。

柚は踊り子達に次々と手を取られ、焔は踊り子達と剣を交え……少しずつ互いの元へと導かれる。
多くの人々の手を介し、ついに江龍とカサンドラは背中合わせに運命の出会いを迎えた。

ライトが光を弱め、次の瞬間、目を焼くような眩い光が会場を染める。

銅鑼の音と共に踊り子達の衣装が一瞬にして若葉色に染まった。
二人を囲み、二人の出会いを讃えるかのように色彩を奏でる。

(ここで私が――…)

二胡と笛の音が溶け合うように響き渡り、水が捻れる様に柚と焔の足元を攫う。
水は木のように成長し、手を伸ばすように枝を広げ、二人を空へと押し上げる。

視線が会場に近くなった柚は、師範の李の姿を見付けた。
稽古時と変わらない厳しい眼差しは柚を不安にさせる。

逃げて逃げて、逃げ抜いた先には争いしかなかった現実に、カサンドラは絶望して泣き崩れたという。
そんなカサンドラが出会ったのは、江龍という光。

同じ嘆きを持ちながらも、江龍はたった一人、祖国の為に戦い始めたという。
江龍は何も語らなかったが、心打たれた者達が次第に集い、それはアジアを開放する力となった。

憎しみを生むと知り、決して武器を持たなかったカサンドラと、祖国の為に立ち上がり、無欲に姿を消した江龍。
どちらが正しかったのだろう?

(まあ私は、どちらかというとカサンドラより江龍タイプだろうな)

青いスポットライトが水の木を照らす。
幻想的な水の泡が空に向けて旅立っていく中、ステージに立ち、焔と目を合わせた。

江龍とカサンドラの運命の出会いだ。
互いに一目で恋に落ちたシーンを演じるに当たり、最も李の指導が厳しかった。

与えられるまま、ただ形に則っただけのものは、人に感動など与えられない。
カサンドラになりきり、江龍――つまり焔に恋をしたつもりになり、言葉ではなく全身でその想いを観客に伝えろと言われた。

その時はお互い、気恥ずかしくなり聞き流してしまったが……。

"綺麗、だ"
ふいに、焔の言葉が甦り、柚は動揺した。

(なんであんな事……)

焔を見上げる柚の頬が赤く染まる。

アスラのようにさらりと言われれば、多少照れるが社交辞令として流せるのだ。
だが、あんなに赤くなって言われると……

(こっちまで照れるだろ!)

何故このタイミングで思い出すんだと、柚は自分を恨めしく思う。

江龍は剣を鞘に戻し、カサンドラに向けて掌を伸ばす。
柚も身を乗り出し、手を重ねるように差し出した。

ただそれだけで、心臓が破裂しそうだ。
手が触れる事すら、恥ずかしくて耐え難い。

柚が躊躇している間にも演目通り、炎が蛇のように水の木に絡み付き、焔と柚に迫ってきた。

手が重なったタイミングに合わせ、水で二人が空へと舞い上がり、水を降らせて戦火の炎を消す演出。
それが、出会いのシーンの見せ場だ。

(なのにあんな事いうから、こんな時に変に意識しちゃって――ああもう、焔の馬鹿!)

柚が心の中で叫んだ瞬間、柚は「しまった!」と心の中で叫び声をあげた。
集中が途絶え、二人を支える水の木が飴のように歪む。

(うわっ!?)

足場が崩れ、柚と焔の体が重力に引かれて落下する。

なんとか落下を止めなければと焦る柚の体が、突如ふわりと軽くなった。
青白い光に照らされながら、水が泡のように球体となり、ふわふわと空に昇っていく。

(うわ、これって……)

アスラの力だ。
柚と焔の周囲の重力が消え、柚と焔の体が宙を漂う。

"二人とも、アスラが演出のように見せているうちになんとかしなさい"
"イカロス将官!"

頭の中に直接、ため息混じりのイカロスの声が響いた。
ちらりと視線を向けると、表情ひとつ変えずに貴賓席の近くに立つアスラとイカロスと目が合う。

"おい、こら!さっさと手出せ"

焔が柚に向けて身を乗り出し、右手を空に向けて差し出した。
長いそでの袂と共に、黒い髪が緩やかになびく。

柚はゆっくりと伸ばされた焔の手へと、手を伸ばし返した。

(カサンドラは……争いを嫌っていた。もし私がカサンドラだったら、例え国の為とはいえ、武器を手にする江龍をすぐに受け入れられなかったんじゃないだろうか……)

長いそでの間から覗く白い指先が、恐ろしいものに触れるかのように躊躇いながら、ゆっくりと伸ばされる。

二人の間を水の泡が過ぎっていった。

カサンドラはびくりと手を引く。
江龍は引き掛けたカサンドラの手首を掴み、恐れる必要はないのだと伝えるかのように、自分の方へと引き寄せた。

羽衣と共に、柚のプラチナピンクの髪がたゆたう。
かんざしが鈴の音を立てた。

赤に縁取られた焔の漆黒の瞳が、見上げるように柚を映し出す。
その瞳に映る自分の姿が、はっきりと見えるような気がした。

気恥ずかしくなり、柚は視線を泳がせ、焔から僅かに顔を背ける。

そでで口元を覆うと、焔は静かに柚の手首を掴む手を放した。
焔は指を開き、柚に向けて掌を翳すように、握り締められた手に重ねる。
柚の指が躊躇うように開かれ、そっと……焔の掌に重なった。

掌を通し、焔の体温が伝う。

惹き寄せられるように、柚はじっと自分を見詰める焔の瞳を見詰め返した。
逸らしたいが、逸らせない――漆黒の瞳は、何故か心をかき乱す。

(なんなんだよ、なんか今日の焔……変)

化粧のせいだろうか?それとも、舞台裏で彼らしくない言葉を聞いたせいだろうか?
良く知る焔が、別人のように感じた。

焔の片手が柚の腰に回り、抱き寄せる。
どちらともなく指と指が絡まり、強く握りあう。

口元を覆っていた柚のそでが下ろされ、焔の胸にそっと手を付いた。
掌から伝う彼の鼓動は、自分を安心させてくれる。

そんな自分に戸惑いながらも、柚は焔の胸に顔を埋めた。

その瞬間、まるで二人を祝福するかのように、風が水の泡を空高く舞い上げる。
驚いて空を見上げる二人は、顔を見合わせた。

(ガルーダ尉官……?)

腕を組んで壁に凭れるガルーダが、観客席の後ろからいたずらが成功したかのように無邪気に笑みを浮かべ、軽く手を振っている。
ガルーダが指先を回し、反対の位置に立つフランツが不安そうな面持ちで空を指し示した。

舞台を挟むように風の鳥が空を交差し、鳥がくちばしから何かを落とすと水面が跳ねる。

「!」

柚と焔は、自分達の足元に広がっていく光景に目を見開いた。
水面に睡蓮が根を張り、葉を張り、白と桃色の花が咲いていく。

「これで満足か?」
「上出来」

不服そうに問い掛ける玉裁に、ガルーダが満足そうに肩を組んで返す。
玉裁は顔を背け、不機嫌に鼻を鳴らした。

すると、花を開いた睡蓮の上に点々と炎が灯り、オレンジと青白い炎が光を漏らして燃え始める。
睡蓮のキャンドルが水面を照らし、幻想的に辺りを照らし出すと、観客たちがうっとりとした面持ちで溜め息を漏らす。

「どうだ」
「まあ、ライアンにしてはなかなか」

得意気なライアンズに目も向けず、やる気もなく壁に凭れていたユリアが不敵な笑みと共に返した。

「ま、このままじゃ癪に障るし……僕も負けていられないね」

ユリアは瞼を起こし、空へと艶めいた眼差しを向ける。

頬を染めてステージに魅入っていた焔の妹・雫は、ふと空を見上げ、隣に座る柚の母・弥生のそでを引いて空を指した。
釣られるように、雫を挟んで座っていた柚の父・洋輔が、目を見開く。

空からまるで雪のように、羽根が舞い落ちてくる。

「綺麗……」

弥生は目を細め、微笑みと共に呟きを漏らした。

「勝手にこんなことして、いいの……?」
「先に勝手をしたのは上官の連中さ」

幻覚の羽根を降らせながら、ユリアは眉を顰めるハーデスにくすりと笑みを漏らす。
ハーデスはそんなユリアを見やり、再びステージへと視線を戻した。

「じゃあ、俺も何かしなきゃなのかな?」
「懐かしいね、その質問。懐かしいと感じるほど、時は経っていないってのに……」

くすくすと笑みを浮かべるユリアを、ハーデスは不思議そうに見やる。

「君自身はどう思うの?何かをしてあげたい?」
「してあげたいけど……俺の力じゃ何も手伝えない」

不貞腐れたように口を尖らせて呟くハーデスに、ユリアはこの状況を楽しんでいるかのように声なく笑みを浮かべた。

「皆……」

柚が呟きを漏らす。
すると、空からきらきらと光の粒が降り注いだ。
水面の一部が盛り上がり、音を立てながら柚と焔の足元に氷が幹を伸ばし、足場となっていく。

(フェルナンドと……フョードルまで)

二人の体は羽根に包まれるようにそっと氷の足場へと舞い降りた。

「ったく、怒られるぞ」

焔が呆れたように呟きを漏らすが、その顔は笑っている。

くすりと笑みを漏らし、柚は焔から体を引き剥がした。
そのまま焔の手を取り、くるくると回り始める。

先程までは恥じらいながらも誘うような仕草で、少女のようで女としての色香を感じる柚の魅力に引き摺られそうになった。
まるでいつもの柚とは別人のように、柚ではなく"カサンドラ"なのだと意識させられたが、一転して無邪気なこの状況を楽しんでいる柚が目の前にいる。

振り回されるように回りながら、焔は柚を見て半場呆れた。

氷の足場から水が溢れ出し、フェルナンドから柚の力に満たされていく。
まるで力が漲るかのように、すっかり柚のペースだ。

(こいつ……いきなりスイッチ入りやがった)

だが何故か、こうなると失敗する気がしない。

ステージの下にはエキストラの踊り子達が暗闇に乗じ、二人が空中に立つ水のステージを囲むように円を描いていた。
ラテン民族の血を引くカサンドラが江龍とその仲間達に伝えた、隣の人々と手を繋ぎ、輪になって踊るチェーンダンスが始まる。

ステージを一斉にライトが照らし出し、昼間のような明るさが周囲を包み込んだ。

音楽の曲調が変わる。
二胡を中心に幻想的でしっとりとした雰囲気を奏でていた音楽が、古筝と琵琶で軽快なリズムへと変えた。





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