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まるで猫を捜すように、玉裁を呼ぶ声が聞こえてくる。
フェルナンド・リッツィは読み掛けの本にしおりを挟み、本を閉じて窓を開けた。

「うるさい」
「あ、フェルナンド。玉裁知らないか?気配消してて、見当たらないんだ」
「玉裁?」

ダーティーブロンドの髪が、窓から吹き込む風に揺れる。
フェルナンドは眉間に皺を刻み、知的な黄緑の瞳で柚を見下ろした。

「僕が知るわけないだろ。まったく、最近静かだと思ったら本当に一時だけだね」
「何?心配してくれてたのか?」
「まさか、清々してたよ」

小馬鹿にしたように肩を竦めたフェルナンドは、柚を見やりいぶかしむように腰に手を当てる。

「君、痩せた?」
「え?そう?あー、そうかも」

フェルナンドは大抵、食堂ではなく自室で食事をとっていた。
柚から話し掛けなければ、フェルナンドから声を掛ける事も滅多にない。

お陰で最近は面と向かって話をする機会もなかったが、毎日顔を合わせているフランツ達は気付かないであろう微妙な変化に、フェルナンドは眉を顰めた。

奉納の舞の稽古で体重が落ちたという理由もあるのだろうが、原因はそちらよりも……

(食事が喉を通らないほど、落ち込んでたって?……まったく、予想以上の馬鹿だ)

フェルナンドは溜め息を漏らすと、部屋へと戻り、冷蔵庫をあけた。

中からゼリー等を取り出すと、大量に柚へと渡す。
柚は目を瞬かせ、フェルナンドの顔を見た。

「何、これ」
「君、得意だろう?残飯整理」
「……」

柚が眉間に皺を刻む。

「僕は誰かさんと違って食が細いんだよ。いつもはのら猫が勝手に人の部屋に入ってきて勝手に冷蔵庫を開けて勝手に食べていってたんだけど、ここ最近めっきり来なくてね」
「……のら猫?猫が勝手に冷蔵庫開けるのか?っていうか、猫がコーヒーゼリー食べるの?」
「まあ、そんなとこだよ」

再び、フェルナンドが小馬鹿にしたように肩を竦めて返した。

柚は真剣に、猫が冷蔵庫を開けている姿を想像している。
途中、思い至ったかのように、柚は一人頷き始めた。

「さ、もう用は済んだろう?もう静かにしてくれよ」

柚を追い出すように窓を締めようとすると、柚が顔をあげる。

「有難う、フェルナンド。後で食べる!」

両手に抱えるデザートやパンを見て、柚が微笑んだ。
無邪気さと繊細さが入り混じる笑みは、フェルナンドの心を乱すようにざわめかせ、瞳に焼き付く。

(この程度で、喜ぶのか)

嬉しそうな柚を見て、心の中で単純だと呟きを漏らした。
ほんの少しの優しさが、他人の表情をこれほどまでに変えるのかと、感動のような感心をさせられる。

「フェルナンドが珍しく優しい」
「勘違いしないでくれよ?別に君の為じゃない、春節の途中で倒れられても困るからね。君達だけが明日恥を掻くのは一向に構わないけど、使徒全体の恥になるんだから、明日は失敗しないでもらおうか」
「うん、頑張るよ」

自分に言い聞かせるように宣言し、柚は軽快に走り去っていった。
フェルナンドは窓枠に頬杖を付き、小さく溜め息を漏らす。

(だいぶ、元に戻ってきたな……)

無意識に、ほっ……と安堵のため息が漏れ、フェルナンドははっとした面持ちで頬杖から顔を起こした。

(な、何をほっとしているんだ、僕は)

一人首を横に振り、フェルナンドは慌てたように窓を閉ざす。



玉裁は、物音に閉ざしていた瞼を起こした。
木の下を、きょろきょろとしながら柚が通り過ぎていく。

(あいつ最近大人しいと思ったら……戻ってきたのか。ま、俺には関係ねぇーけど)

胡坐をかく足の上で頬杖を付いていた玉裁は、小さくくしゃみを漏らして体を震わせた。
さすがに夜は冷える。

(戻って寝るか)

立ち上がろうとすると、下から柚が自分の名を呼んだ。
水で階段を作り、勝手に自分の隣に座りこむ。

玉裁は、柚が両手に抱えている物に関心を引かれた。

「お前、何抱えてんだ?」
「フェルナンドにいっぱい貰った。最近、玉裁が来ないって寂しそうにしてたぞ」
「……目玉腐ってんじゃねぇ?それとも耳か?」

玉裁は半眼で柚を見やる。
柚は口を尖らせた。

「喧嘩でもしたのか?」
「してねぇよ、ガキじゃあるまいに」
「じゃあ、なんだ?」
「べーつに。あのな、別に俺達は仲良し小良ししてるわけじゃねーの。行きたきゃ行くし、そういう気分じゃねぇーときは行かない。それが男の付き合いってやつだ」

玉裁は素っ気なく告げ、柚は「ふーん」と呟きを漏らす。
話を聞いているのか聞いていないのかも怪しい態度で、柚はデザートの蓋を開けている。

デザートを食べる柚を、玉裁は半眼で見た。

「お前……何しに来たんだよ」
「玉裁に用があって」
「その用ってのは、俺の目の前で食い物を見せびらかして食うことか?」
「違う」

柚は食べかけのゼリーに「いまいち」と呟き、スプーンと共に玉裁へとそのまま渡す。

「おいこら、まずいもんを人に渡すな」
「うん、でね」
「何がうんだ。人の話聞いてんのか、てめぇ。つーかこれ、別にまずくねぇぞ」
「えー、甘さがいまいち。それにまずいとは言ってないし。で、次はどれにする?」

口を尖らせて返す柚は、違うデザートの物色を始める。
玉裁は柚が抱えるデザートを覗き込みながら、スプーンで指した。

「それ、そっちにしろ。そのコーヒーゼリー」
「コーヒーゼリーの気分じゃない。こっちの生クリーム乗ってるやつおいしそう」
「それは俺が貰ってやるから、お前はこっちのプリンでも食ってろ」
「ああ、でも、こっちの果物一杯のやつも捨てがたい。で、これ」

柚は白い鶴を取り出し、玉裁に差し出した。
玉裁は一瞬ばつが悪そうな面持ちになり、顔を逸らす。

「それがなんだよ」
「これ折ったの、アンジェとライラじゃないんだって。玉裁だろ?」
「ちげーよ、なんで俺なんだよ。大体俺、折り方知らねぇし。ヨハネスじゃねぇの?」
「だってこの間、玉裁は私が折ってた所見てたもん。それに報告書を切って鶴折るなんて、玉裁くらいしかいない」
「見てねぇよ、見てたって一回見ただけで覚えられるかっての」

すると、柚はくすくすと笑みを漏らした。

「覚えられるよ、玉裁何気に凄いもん」
「買い被りもいいとこだ」

柚に渡されたゼリーを食べながら、玉裁が素っ気なく返す。
すると、柚はフルーツと生クリームの乗ったケーキのカップを開けながら玉裁を見た。

「玉裁は隠してるけど、本当は頭いいだろ。前々からそう感じるときもあったし、何よりあのフェルナンドが玉裁と一緒にいるのがその証拠かなーと思ってるけど」
「だから、買い被りもいーとこだ。大体何の為に隠すんだよ」
「そこまで考えてない、っていうか、それはどうでもいいんだけど」

柚は、ケーキの上の果物のみを食べ、再び玉裁に流す。
玉裁は両手に食べ掛けのカップを持ちながら眉間に皺を刻んだ。

「それより、一人になりたいってことは、玉裁何か悩み?」
「だーから、なんでそうなる」
「気付かなかったけど、そういえば元気ないなって思ったから」

柚は首を傾げ、玉裁の顔を覗き込む。

玉裁は一瞬真剣な面持ちになり、言葉を呑み込むように口を閉ざした。
そして、柚からふいっと顔を背ける。

「なんでもねぇよ」
「話したくないならいいんだ。玉裁は大人だし、私みたいに誰かに助けてもらわなきゃどうにもならないってこともないだろうし」
「……」
「ああ、でも、何か出来るときは言ってくれ。私で力になれるか分からないけど、駄目元でさ」

柚は立ち上がると、思い出したようにスプーンを咥えている玉裁の顔を覗き込んだ。

「それから本題なんだけど、鶴、ありがとな」
「は?」
「なんの願いを込めたか知らないけど、なんか嬉しかった」
「だから、あれは俺じゃねぇって言ってんだろ」
「はいはい」

くすくすと笑みを漏らし、柚は木から足を踏み出す。
そのまま空中に波紋を描きながら去っていく柚に、玉裁は溜め息を漏らして木に凭れた。

(自分のことで手一杯のくせに)

足を投げ出すようにして反動を付けると、玉裁は木から飛び降りる。

小さく息を吐くと、口から白い息が尾を引いて漏れた。
ぶるりと体を震わせ、ポケットに手を突っ込み、首を竦める。

(あれが……)

スノーモービルに乗った女を思い描き、玉裁は星の瞬く夜空を見上げた。

(人違いであってくれりゃあ、いいんだけど)

星が流れる。
思わず流れ星に願いを込めそうになった自分に、玉裁は静かに苦笑を浮かべて歩き出した。










まだ夜明け前の薄暗い会場に、人々は眠さも感じさせず、期待と興奮に満ちた様子で言葉を交わしていた。
薄暗い空に花火が上げられ、会場の外にはチケットを手に入れる事が出来なかった人々が、チケットの余りを求めてひしめき合っている。

ステージ裏からその様子を覗いたフランツは、萎縮するように首を竦め、隣に立つ焔へと振り返った。

「凄い人ですよ、やっぱり今年はいつもよりも凄いですね。元帥の時とどっちが多いんでしょう」
「プレッシャー掛けんじゃねぇよ!」

すでに着替えを終えた焔は、心なしか青褪めた面持ちでフランツを睨み返す。

いつもの短髪とはがらりと印象の変わる、長い黒髪をひとつに結い上げ、そでの長い白に色彩鮮やかな刺繍の入った着物を纏う焔。
腰に刺した模擬刀には、金の龍が巻き付いている。

「なんだか……別人が隣に立ってるようで落ち着きません」
「ほっとけ」

不貞腐れた面持ちで焔が吐き捨てた。

「おっ、焔はもう着替え終わったの?」

軽い足取りで歩いてきたガルーダが、焔に気付いて声を掛ける。
焔は威嚇するようにガルーダを睨み返した。

「なんだよ、こっちくんな」
「おお、気が立ってんじゃん」

ガルーダはいつもの調子で焔の頭をぐしゃぐしゃにしようとして、思い出したように手を止める。
せっかくセットした髪をぐしゃぐしゃにしようものならば、スタイリストのレフに殺されかねない。

「柚はまだ終わんないの?」
「そうなんですよ、レフ先生気合入ってて」
「そりゃあそうだよ、スタイリストとしてこれ以上ない栄誉だからね」

のんびりと歩いてきたイカロスが、穏やかに笑みを浮かべた。
ガルーダは「俺にはよくわかんないけど」と肩を竦める。

イカロスは焔を見やり、片手を腰に当てて苦笑を浮かべた。

「なんだか、新婦を待つ新郎って感じだね」
「なっ!?」
「イカロス将官……何処でそんな事覚えたんですか」

焔が赤くなり、フランツが顔を引き攣らせる。

「じゃあ、俺達は警備の最終チェック行ってくるよ。フラン、君もそろそろ配置に付くようにね」
「はい」
「焔、頑張れよ」

イカロスがフランツの肩を叩き、ガルーダが焔に声を掛けて大股で去っていく。
その後にマイペースに続くイカロスを見送り、フランツは苦笑を浮かべて焔へと振り返った。

「じゃあ、僕も行きます。それと焔、柚を見たらちゃんと、綺麗だとか可愛いとか言ってあげるんですよ?」
「そ、そんな恥ずかしい事言うわけねぇだろ!」
「もう、そんなんじゃ元帥に勝ち目ありませんよ!あなたも少しは素直になったらどうですか?素直ついでに、自分の為にもう少し我儘になってもいいんじゃないですか」

そう言い残し、フランツは駆け足で去っていく。
焔はむすっとした面持ちで、控え室へと引き返した。

(自分に我儘って……)

足を止め、すでに壁に遮られた観客席へと振り返る。

自身が使徒と気付いてからというもの、気を張り、他人を寄せ付けず、妹のことだけを考えてきたのだ。

"お前、あんなところから降りてきて、足はなんともないのか?"

柚と出会い、妹以外の他人に心配をされ、ないがしろにしてきた自分という存在を思い出した気がした。
気が付けばいつの間にか、妹を中心とした悩みではなく、自身のことで悩んでいることに気付いたのだ。

(そういうの、慣れねぇ……)

父も母も、雫を特に可愛がっていた。
自分もそうだ。

兄だからという理由でいつも妹を優先し、自分は諦めてくることが多かった。

「何をしている」
「アスラ」

焔は肩越しに振り返り、反射的に顔を顰める。

「控え室に戻るんだよ」
「今、入れんぞ。俺は入ろうとして追い出された」
「……まだ終わんねぇのかよ」

焔は溜め息を漏らし、その場にしゃがみ込んだ。
始まる前から疲れた顔をするなと言いたげに、アスラが焔を見下ろす。

アスラは淡々とした面持ちで、焔を見ていた視線を遠くへと向けた。

「それは終わったらしいが、マクレイン前支部長が来ている」
「……え?」

警戒するように、焔が立ち上がる。

「何暢気にしてんだよ、また何か企んでんじゃねぇのか?」
「俺もそう思ったが……問題ないだろう」

焔は眉を顰めてアスラの顔を見上げた。
そして、閉ざされた控え室へと視線を向ける。

白いドアを見詰めたまま、焔は肩から少しだけ力を抜いた。



柚は、正面に座るマルタをおずおずと見やる。

「あの、クビになったって……」
「クビじゃないわよ、降格。ついでだから辞表出してきたわ」
「それでよく、ここに入れましたね……」
「そりゃ、あたしはコネをいくつも持ってるわよ」

衰える事のない自信に満ちた笑みが柚に向いた。
目を引く赤い唇を開き、マルタは柚を驚かせる言葉を告げる。

「あたし、元母体候補だったのよ」
「え……」

柚は驚きのあまり、無意識に問い返すように声を漏らしていた。

マルタは静かに煙草の煙を吐く。
フィルターには赤い口紅が残った。

「アルテナ・モンローのようになりたかったの。アルテナ・モンローはあたしよりちょっと年下のくせに、あたしの先輩だったの。勝手にライバル視してただけなんだけどね、アルテナがあの人の子供を身籠ったって知って、すごく悔しかった」
「あの人っていうのは、アスラのお父さん?」
「そうよ。アーリア・デーヴァ……綺麗な男だった」

思い出したように、マルタはため息を漏らす。
彼女が内に秘める苦い思い出が伝わってくるような気がした。

吸い忘れた煙草の先で、灰が面積を増やしていく。
マルタが抱える灰皿の上に、重力に引かれた灰が落ちた。

「アスラのお父さんのこと、私全然知らない……」
「嫌な男よ。誰も愛さない……死んだような目をしていたわ。アスラにそっくり」

マルタは苦笑を浮かべ、足を組んで椅子の背凭れに体重を掛ける。

「あたし、どうしようもない男にばっかり惚れるの」
「好き、だったの?」

答えを返すことなく、マルタは決まりが悪そうに笑う。
それは、十分な肯定だ。

「一度だけ抱いてもらったわ。あたしも素直じゃないから……女の地位向上の為にあなたの子供が欲しいって言い訳まで用意してね」

マルタは再び伸び始めた煙草の灰を灰皿に落とすと、「あたし、昔はもてたのよ」と何処か寂しそうに笑った。

「男の方から寄ってくるのが当たり前。あの人だって、あたしに声を掛けられたら悪い気はしないだろうって自信があったの。でもあの人笑ったの……嘲笑、だったわ。あそこまであからさまに嘲笑を受けたのは初めてだったかしら」

柚は顔を曇らせる。

長い時が経った今も、マルタに癒えない心の傷を残した男。
人を愛するとは、それだけのリスクを伴うものなのだ。

「自分から声を掛けるのだって十分悔しかったってのに……ひっぱたいて逃げ出したかった。でも、それでもあたしはあの人を求めた。結局、何も残らなかったけどね」

マルタの掌が、自分の腹部に触れた。
マスカラが塗り込まれた長い睫毛が影を落とす。

「アルテナ、さんは、アスラのお父さんを好きだった?」
「そんなの知らないわよ」
「そっか……じゃあ、アスラのお父さんは?」
「言ったでしょう、あの男は誰も愛さない……自分の子供すら、無関心な酷い男」

煙草を吸い込む。
先端がマルタの口紅のように赤く染まり、白い煙が吐き出された。

マルタは「ざまあみろ」と言いたげな眼差しで白い壁を睨み付ける。

「だから天罰が下ったのね」
「え?」
「アスラ・デーヴァが生まれる前に病で死んだわ。その死顔が笑ってたっていうくらいだから……」

憎しみの眼差しは何処へやら……
マルタは「ふっ」と、寂しげに目を細める。

「よっほど、この世界に嫌気が差していたんでしょうね。少し、分かる気がする」

そう言ってマルタは最後にもう一度煙草を吸い込み、息を吐きながら短くなった煙草をもみ消した。

「あの子、変わったわね」
「アスラ?」
「ええ。前までは何から何までアーリア・デーヴァにそっくりだと思ってたけど、ちょっと見ない間に随分人間らしくなったじゃない」
「……」

柚は俯く。
マルタは椅子から立ち上がりながら、俯く柚を見下ろした。

「あなたの、お陰なのかしらね」

「さよなら」と言い残し、マルタは椅子から立ち上がると、控え室を出て行く。
柚が閉まるドアを見詰め、再び視線を落とした。

すると、入れ替わるようにアスラと焔が部屋に入ってくる。

焔はぎょっとしたように足を止めた。

プラチナピンクの髪に大輪の花が鮮やかに咲き誇っている。
髪の色に溶け込むような薄紫の花と新緑の葉を散らし、赤と金のかんざしが光を散らしていた。

長い睫毛と、黒から赤へと縁取りされた大きな瞳。
赤く艶やかな唇は、幼さを残す彼女を大人の女性のように魅せた。
羽衣のようなそでは淡くグラデーションを描き、帯を飾る絹や幾重にも重なる薄絹で出来た着物の裾は、まるで花びらのようだ。

思わず見惚れていると、アスラが柚の目の前で足を止めた。
アスラが柚に触れると、かんざしの鈴が涼しげに音を立てる。

「よく似合っている、綺麗だ」

(あっさり言いやがった!?)

焔は、自分が言いたくても言えない言葉をあっさりと口にするアスラに、顔を引き攣らせた。

柚が頬を淡く染め、はにかむように「ありがとう」と微笑んで返す。
心なしかいつもよりおっとりとしている物腰と微笑みに、焔は心臓を鷲掴みにされた気分になった。

(なんか、別人みてえ。緊張する)

すると、柚が焔を覗き込むようにして笑みを浮かべる。

「黒帝ってイメージじゃないけど……武士?焔、格好良い!」
「……ほっとけ」

口を開けばいつも通りの柚だ。
妙に意識してしまう自分を落ち着かせるように、焔は溜め息を漏らした。

「そろそろ時間だ、ステージ裏まで送ろう」

アスラの言葉に、柚はびくりと体を強張らせる。
焔も同じだ、あの観客を前に練習通り踊れるか……今にも震えだしそうだ。

舞台裏には、すでに何名もの踊り子が待機していた。
レフが二人に駆け寄り、メイクや着付けが崩れていないか最終チェックを入れる。

「大丈夫だな、私の仕事は完璧だ。さあ、後はお前達次第だぞ」
「う、うん」
「なんだ、柄にもなく緊張でもしているのか?」

レフはからかうように柚を見た。

「するに決まってるだろ」
「いい事を教えてやろう」
「はぁ?」
「一生に一度と言っても過言ではない、今のお前達はこの天才の私が手掛けてきた作品の中で最高の仕上がりと自負する生きた芸術品だ。誇りに思え」

柚が驚いたように目を見開く。
焔が「なんだそりゃ」と呆れたように漏らした。

「俺の作品は踊らずともそこに立っているだけでも芸術、動けばなお美しい。形に則っただけが芸術ではない。例え何処かでミスをしようと、それすら私の芸術を惹き立てる」
「何それ、ミスしろって?」
「やる前に不吉な事言うなよ」

柚がくすくすと笑みを漏らし、焔が苦笑を浮かべる。
笑みと共に、二人の肩から力が抜けていく音が聞こえてくる気がした。

アスラは二人を呼び寄せる。

「では、俺も配置につく。健闘と成功を祈る」

アスラは柚の手を取って軽く口付けると、アスラの顔には小さな笑みが浮かんでいた。

控え室を出て行くアスラを見やり、柚は赤くなっている。
焔は不機嫌に小さく舌打ちを漏らした。

会場のライトが音を立てて消えていく。
後五分で開演だ。

エキストラの踊り子達がそそくさと移動していく。

「いよいよだな」
「ああ」

柚の手がおずおずと伸ばされた。
指先に触れ、躊躇うように柚が焔の指先を握ると、焔が驚いたように柚に振り返る。

「どうしよう、震えてきた」
「そりゃ、あれだろ……武者震いってやつだ」
「なるほど」

柚は長いそで元で口を隠すようにくすくすと笑みを漏らす。

(ああ、本当に……フランツが余計な事言いやがるから――)

「き……」
「え?」

(変な、欲が出た)

「綺麗、だ」

焔は耐え切れず、言葉の途中で顔を背けた。

柚が驚いたように目を見開き、焔を見上げる。
横目で盗み見ると、柚は耳まで赤く染め、目を瞬かせながらおろおろと反応に困っていた。

(……予想外の反応だ)

もっと、笑って誤魔化されるのかと思っていたのに……
そんな態度を取られたら本当に、期待をしてしまうではないか。

「か、勘違いすんなよ!その衣装だ!お前じゃねぇよ」
「なっ!?私だって十分綺麗だろう、見る目ないな!」

柚が腰に手を当て、ふんっとそっぽを向く。

その拍子にかんざしの鈴が「しゃん」と音を立てると、まるでその音に引き寄せられるように、二人はゆっくりと顔を見合わせた。
お互いの躊躇うような視線が重なると、柚がにっと力強く笑みを浮かべる。

「成功させるぞ」
「……ああ」

柚が差し出した腕に、自分も軽く手首で小突き返す。

「開演三十秒前」

柚は大きく息を吸い込みながら瞼を閉ざした。
人々の緊張と期待が、空気と共に体を満たしていく。

互いの頬が赤い事に、今は目を瞑り……
沸き出るように自信が漲ってくる気がした。





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