38


ユリア・クリステヴァは、屋上の隅で爪を噛みながらぶつぶつと呟いているハーデスを見やり、迷惑そうに顔を背けた。
梯子を上がってきたライアンズは顔のみを出し、やはりうんざりした面持ちで「またかよ」と呟きを漏らす。

「一応聞いてやるけど、今度は何?」
「柚が師範に怒られてた」
「いつもだろ」
「扇で手を叩かれてた」
「それもいつもだろ」
「柚頑張ってるのに、やる気がないなら出て行けって言ってた」

ライアンズは長々と溜め息を漏らし、梯子に足を掛けたまま屋上の淵に頬杖を付いた。
何か言ってやれと言いたげにユリアを見るが、ユリアは知らん顔で背中を向けて寝転んでいる。

呆れたように再び溜め息を漏らし、ライアンズは渋々口を開いた。

「あのなぁ……」

すると、膝を抱えたハーデスが拗ねたように呟く。

「柚、元気ないのは……あの子供のせいだ」
「"ウラノス"って子供だろ?」
「それもだけど、帰るときに追い掛けてきた子供……」

ライアンズは顔を曇らせた。
すると、さらにハーデスは恨めしそうに続ける。

「アスラも、柚のことちゃんと心配してる?全然様子を見に行ってる様子もないし。いつもは柚の事独り占めするくせに、アスラ嫌い……」

ハーデスの言葉に、ライアンズは意外そうに片眉を吊り上げた。
すると、寝転んでいたユリアがごろりと体を返す。

ハニーブラウンの絹糸のような柔らかい髪がコンクリートの上でぱさりと音を立てて広がった。
中性的で隙のない芸術作品のような顔立ちをしたユリアは、その顔に斜に構えた笑みを浮かべる。

「君、元々アスラのこと好きだったわけ?」
「……うん、嫌いじゃないから好き」
「お前……ほんと、極端だな」

ライアンズが呆れた面持ちで呟いた。

「元帥は……まあ、責めるなよ」

ライアンズの言葉に、ハーデスが視線のみで「なんで?」と問い掛けてくる。
その視線は、今度はライアンズを責めるかのようだ。

ライアンズは頬を掻き、視線を彷徨わせた。

「立場ってもんがあるんだよ」
「元帥って、柚の心配しちゃいけないの?」

ハーデスは不思議そうに首を傾げる。

「そうじゃなくてだな、感情で行動しちゃいけねぇんだよ」
「十分、柚贔屓だけどね」

頭の後ろで腕を組み、ユリアがくすりと鼻で笑い飛ばす。
「まあ、そうだけど」と、ライアンズは溜め息交じりに呟いた。

「柚が落ち込んでるのは柚の問題で、それはあいつ自身が自分で乗り越えなきゃなんねぇんだよ。今、柚を甘やかしたいのは元帥も一緒だろ。けど元帥はそれが出来ない立場で、だからこそ今、元帥も自分が感情で行動しないように柚を避けてんだろ」
「……アスラがそう言ったの?」
「いや、言ってねぇけど……」
「じゃあ、イカロスが言ったの?」
「いや、だから、俺はそう思ってるって話で……」
「ライアンは、アスラの考えがイカロスみたいに分かるの?」
「そ、そういうわけじゃねぇけど……」

真偽を疑うように追求してくるハーデスに、ライアンズはたじろいだ。
普段はこちらの言う事をなんでも鵜呑みにする癖に、最近は納得するまで引こうとはしない。

すると、助け舟になるかも怪しいユリアがくすりと笑みを漏らす。

「そもそも、ハーデスは彼女が落ち込んでいる原因を理解してるの?」
「知ってるよ。任務に失敗して、もう一人の子供に酷い事を言われたから……」
「知っていることと理解していることは違うよ?」

ハーデスがむっとした面持ちになる。

「じゃあ、優しい優しいこの僕が、君にも分かるように説明してあげるよ」

ユリアは起き上がり、肩を竦めて見せた。
ライアンズが、そんなユリアを胡散臭いものでも見るようなまなざしで見やる。

「君は柚を好き?」
「うん、柚好き」
「君は柚を守ろうとしたけれど、力及ばず……柚は君の目の前で死んでしまいました」
「やだ」

ライアンズが首を振るハーデスに、溜め息を漏らした。

「君が大切だと思う人が死んでしまったときを想像してごらん?」
「……嫌だ、考えたくない」
「そう、それが答え。それは受け入れがたいことでしょ。柚は今、そういう気持ちなんだよ」

ハーデスの眉が、はの字に下がる。

ライアンズは半眼で、「誰か焔の心配もしてやれよ」と呟きを漏らす。
すると、そんな言葉は全く聞いていないハーデスは膝を抱え、拗ねたように口を開いた。

「……死んだ子供は、柚にとって大切だった?」
「そういうことになるな」
「ライアンよりも?」
「それはー……俺にはなんとも」
「ユリアよりも?」
「は?僕の方が大事に決まってるでしょ。会って間もない子供の方が大事とか言ったら本気で泣かせるよ」
「……なら、アスラより?」
「どうだろうな」
「じゃあ、俺よりも?」
「ええい、鬱陶しい!本人に聞け!あ、嘘、待て!本当に聞きに行こうとすんな、馬鹿!」

立ち上がったハーデスを、ライアンズが慌てて梯子をよじ登り、引き止める。
「座れ」と促すライアンズに、ハーデスは渋々座り直した。

「僕が思うに、アスラには別の理由もあるように感じるけど」

飄々とした面持ちで告げ、再びユリアは寝転がる。
興味を示したように追求してくるライアンズを軽くあしらいながら、ユリアは無関心に星空を見上げた。

「それに、フョードル・ベールイ」
「?」

ハーデスが、会話の中に出てきた思いがけない名前に首を傾げる。

「アスラ・デーヴァが元帥――っていう常識も、変わってきたんじゃない?」
「それ、どういう意味?」

途端にハーデスが敵意の篭った眼差しでユリアを見た。
嫌いだといいつつも、研究所で育った彼等の仲間意識は妙に強いことがある。

そんなハーデスを横目で見やり、ユリアは口角を吊り上げた。

「我等がデーヴァ元帥様々は、最近の行動で一部に反感を買ってるってことさ」
「……なんで?」
「政府が欲しいのは、自分達に意見する駒じゃない。あくまでも自分達に忠実な駒を望んでいるんだからね。アルテナ・モンローと幼い頃からの教育でアスラ・デーヴァを意のままに操ってきた政府の連中からすれば、最近のアスラの傾向は面白くないだろうね」
「……ユリア」

咎めるようにライアンズがユリアの名を呟く。
そんなライアンズを一瞥し、ユリアは歌うように続けた。

「けどこれは事実。アルテナを懐に抱え込んでいる方の派閥はそんな事を考えないだろうけど、対立する派閥にとってフョードル・ベールイは格好の駒だろうね。それに、フョードル・ベールイのあの性格を考えると……」

ライアンズはため息を漏らし、口を開く。

「まあ別に、フョードルは自分が元帥になろうなんざ思っちゃないだろうけど、真に受けやすいからな。君が次の元帥だ!とか言われた日には、そのつもりで頑張っちゃうタイプだよな」
「その光景が目に浮かぶよ」

ユリアは他人事のようにくすくすと笑みを漏らす。
するとライアンズは何処か遠くを眺め、膝の上に頬杖を付いた。

「そういや、今までデーヴァ元帥以外の元帥なんて考えてみた事もなかったな」
「アスラはセラフィムとして生れた時から、元帥として育てられてきたんだからね」

ユリアが呟くように告げる。

冬の冷ややかな風が吹いた。

ハーデスが俯くように顔を伏せる。
そんなハーデスを見やり、ライアンズは視線を戻した。

「元帥はおっかないけど、最近はその……あー、あれだよな。柚とのやりとり見て、印象が変わったって言うかさ」

照れたように、ライアンズは頬を掻く。

「ちょっと、親近感が沸いたっていうか……。元帥に限ったことじゃねぇけど、最近、皆丸くなったと思わないか?」
「……ライアン、それは歳とったんだよ」
「ばっ、俺は真剣に話してんのにお前はっ!」

肩を竦めるユリアに、ライアンズが赤くなって掴み掛かった。
ハーデスはライアンズとユリアを見やり、膝に顔を埋める。

太陽の光が届かない夜の世界を照らす白い月。
空に輝く星屑。

太陽が昇れば、皆がこの場所から忙しそうに去っていく。

考え事を引き摺りながら、ハーデスは三人で見た星が見えなくなった青い空の下、憂鬱そうに瞼を閉ざした。

ライアンズの言いたい事はなんとなく理解出来る。

アスラは確かに変わった。
そのせいか、近寄り難い雰囲気が少しだけ和らいだ。

「柚を、"愛した"から……?」

ハーデスは眉を顰めるようにして、呟きを漏らす。

中央棟の屋上は、ハーデスにとって昼間の居場所だ。
北風が長い前髪を揺らしていく。

(俺も、恋っていうのをしたら、何か変わるのかな……?)

自分を守るように、ハーデスは膝をぎゅっと抱え込む。

ジャンの顔が脳裏を過ぎった。

咄嗟に逸らしてしまった顔。
逸らす寸前、ジャンは何かを言おうとしていた気がした。

恐い。
また自分を否定する言葉を聞く事が恐ろしい。

その時、ハーデスははっと顔をあげた。

ハーデスは即座に立ち上がり、中央棟から躊躇いなく飛び降りると、落下するハーデスの体がふっと姿を消す。

ハーデスは空間を跨いで一本の木の上に舞い降りる。
背の高い裸の木が揺れ、ハーデスは更に人の集まっている地面へと舞い降りた。

イカロスとガルーダが腕を組み、真剣な眼差しを向けて佇んでいる。
アンジェとライラが駆け寄り、アンジェが不安そうにライラのそでを掴む。

ヨハネスが不安そうにしている隣で、小柄で筋肉質なジョージ・ローウィーがハーデスへと振り返った。

「トラブル?」
「いや、フョードルがデーヴァ元帥に手合わせを申し込んだんだ」
「……手合わせ?」

ハーデスはいぶかしむ様に、いつも通り無表情に佇むアスラと、アスラの重力に押し潰され、起き上がることが出来ずにいるフョードルを見やる。
どう見ても、手合わせというよりも一方的にフョードルがやられていた。

いくつかの足音が響き、ライアンズとフランツが血相を変えて駆けつけてくる。
それに続き、稽古を抜け出してきた柚と焔も何事だと言いたげな面持ちで駆け付けた。

姿こそ見せないが玉裁やフェルナンド・リッツィが何処からともなく様子を窺っている。
関心がないのはユリアくらいだ。

「なんでそんなことを……」

柚が心配そうに呟きを漏らした。

「目標にする為に、どの程度力の差があるか知りたかったそうだ。その意見には賛成だが、まさか元帥が受けてくださるとは思わなかった」
「へぇ、元帥が……」

ジョージの言葉に、ライアンズが意外そうにアスラを見やる。

フョードルがアスラの重力を撥ね退け、よろめきながら後退した。
フョードルの指先が光を纏い、光がアスラへと光速で迫る。

光はアスラに触れる寸前で歪んだ空間の闇に呑み込まれた。
歪んだ空間が捻れ、姿を消すと共にフョードルの光が気配が完全に消失する。

フョードルが驚いた面持ちでアスラの顔を見やるが、アスラは表情ひとつ変えはしない。

アスラはゆっくりと軍靴の爪先をフョードルに向けた。

緩慢な動きであげられる腕と指先が、フョードルの頭上を指し示す。
フョードルは、頭上で空気が捻れる気配に息を呑んだ。

その瞬間、イカロスの声が静寂を裂く。

「そこまで。フョードル、十分だろう?終了だ」
「はい、有難う御座いました!」
「……」

アスラが無言で踵を返した。
その視線が、不安そうに自分達の勝負を見守っていた柚を一瞥し、逸らされる。

すると、うずうずとした様子で勝負を見守っていたガルーダが、アスラに飛び込んだ。

「アスラ、次は俺?俺?」
「やらん」

べたべたと張り付いてくるガルーダをあしらいながら、アスラが歩き出す。

「デーヴァ元帥!大変勉強になりました、有難うございます!」

アスラの背に、フョードルが敬礼を送った。
アスラは肩越しに振り返り、無言で去っていく。

「怪我はありませんか?」
「はい、大丈夫です」

心配そうに駆け寄ったヨハネスに、フョードルは明るく笑顔で返す。
ばらばらと人の気配が散っていく中、フョードルは柚へと振り返った。

「やはり、まだ私はデーヴァ元帥の足元にも及びませんね」
「そう簡単には無理だろう。私だってイカロス将官どころかライアンにも勝てないよ」

柚は苦笑を浮かべて返す。
ライアンズが、「当然」と得意気に返した。

意気込むように、フョードルは身を乗り出す。

「いえ、ですが、お陰で私がまだまだ努力不足だと実感いたしました。私、頑張ります!」

柚は力なく苦笑を浮かべた。

そんな柚を、フランツとハーデスが心配そうに眺めていることなど、柚は気付きもしない。
ハーデスは俯くように顔を曇らせた。

「では、教官殿!さっそく訓練の続きをお願いします」
「は?だが今日の分はもう終わったぞ?」
「何をおっしゃいますか!私は先日の件で、世界には私の想像以上の悪が蔓延っていることを痛感致しました。このまま悪を蔓延らせておく事もまた悪です」

ジョージとライアンズが顔を引き攣らせる。
ヨハネスが、またかと言いたげにため息を漏らした。

「私は非道な神森とエデンを倒し、村の人達やウラノス君の仇を取り、誰もが安心して暮らせる平和な世界を築きたいです」

柚の肩が僅かに揺れる。

「柚殿もそう思われませんか?」
「え?あ、うん……そうだな」

再び、柚らしくない曖昧な笑みが浮かんだ。

「その為に、私は命を掛ける覚悟です。悪を一人でも多く倒して死ねるならばこの上ない本望です」

焔は咄嗟に柚の腕を掴んだ。
「戻るぞ」と呟き柚の手を引いたが、柚は動こうとせず、俯き拳を握り締める。

「ふざけるなっ……」

絞り出すように吐き出された言葉に、フョードルがきょとんとした面持ちで柚へと顔を向けた。
アスラが足を止め、肩越しに振り返る。

(こんなこと、言うつもりないのに……)

柚は心の中で唇を噛んだ。
フョードルが、顔色を変えて焦ったように口を開く。

「私はふざけてなどいません、本気で――!」
「命を奪うとか、死んでもいいとか、そういうの……大嫌いだ」

(……私、矛盾してる)

フョードルに振り返る事も出来ないまま、柚は吐き捨てた。
空気が張り詰め、フョードルが息を呑む音が聞こえてくる。

柚は爪が食い込むほどに拳に握り締めた。

「ゆ、柚殿……」
「……ごめん」

おざなりに謝罪を吐き捨て、柚は俯いたまま早足に歩き出す。
それは、逃げるようであった。

自己嫌悪による情けなさに、涙が滲んでくる。

その背に向け、不思議そうに首を捻ったアスラが、ぼそりと「生理前か?」呟きを漏らす。
目を吊り上げて振り返った柚が、問答無用に手にしていた扇を投げつけ、足音荒く去っていく。

アスラは重力を操り動きを止めた扇を手に取ると、「違うのか」と腕を組んだ。
ライアンズとフランツが、そんなアスラを半眼で見やる。

イカロスがため息を漏らした。

「柚……」

焔が呟きを漏らし、ハーデスが追い掛けるように姿を消す。
双子が顔を見合わせた。





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