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森に囲まれた広大な国有地の中には、不似合いな巨大な壁がぐるりと一帯を囲んでいた。

幾重にも重なるゲートを抜け、長い一本道を進むと、次第に白く巨大な建造物が姿を現す。
中央棟ではアジア国土を一匹の龍が円を描くように囲むアジア帝國の国旗がはためき、中央棟を囲むように同じ構造の建物が並んでいた。

西館は"特殊能力国家研究所"――使徒の研究を行う施設の中では国内最高峰の施設となっている。
そして、使徒が住まい生活の基盤としている東館の"特殊能力軍事基地"は、いつも閑散としていた。

現在政府が保護する使徒は、先日保護されたフョードル・ベールイを加えて十七名となったが、研究支部に配属されているジャン・ルネ・ヴィレームが不在だ。

たった十六名が住まうには大き過ぎる建物の一角にある三つの訓練室の内、一番奥の訓練室の前でフランツ・カッシーラーは足を止めた。

中に人がいることを確認すると、フランツは訓練室のドアの隙間からそっと愛嬌のある顔を出し、中を覗き込む。
淡くピンク掛かった瞳を彷徨わせていると、ドアのすぐ隣で亜麻色の髪が揺れ、「やあ」と穏やかな声が掛かる。

フランツは慌てて姿勢を正し、畏まった。

「イ、イカロス将官!ガルーダ尉官!」
「君も見学かい?」
「え、ええ……まあ」

落ち着いた物腰のイカロスは、若葉色の瞳をゆっくりと訓練室の中央へと投げる。
その隣に腕を組んで壁に凭れるガルーダは、退屈そうに欠伸を漏らした。

「まあ、中に入りなよ」
「はい」

フランツは、おずおずと広い訓練室の中に足を踏み込んだ。

訓練室の中央には、柚と焔、そして外部から呼び寄せた人間がいる。
この季節になると、毎年舞いの師範が弟子と共に指導に訪れるのだ。

新人にとっては任務以上に難関と言われる、春節に捧げられる奉納の舞い。
毎年使徒により行われているイベントだが、今年の注目は例年以上に高くなっている。

当然ながら、柚という存在価値の与える影響だ。

所詮素人が一ヶ月の練習でプロ同様の踊りを披露出来る筈もないのだが、下手なものは見せられない。
フランツは心底、柚と、その柚と共に踊らなければならない焔に同情した。

「どうなんですか?」

自分も数年前に世話になった師範の怒声に首を竦めながら、フランツはイカロスに訊ねる。
すると、イカロスの隣からガルーダがけたけたと笑い声をあげた。

「ぜーんぜん、駄目」

春節まで、すでに一ヶ月を切っている。
そこで失敗は許されない――というのに、ガルーダの態度にフランツは顔を引き攣らせた。

「だ、大丈夫なんですか?」
「駄目かもね」

イカロスまでもが他人事のように曖昧な言葉で返してくる。
将官や尉官がこのような態度でいいのだろうか……と、フランツは不安になった。

すると、そんなフランツの不安な心を読んだイカロスが苦笑を浮かべる。

「本人達にやる気がないからねぇ……」
「ないんですか?」
「なくはないけど、それに心が付いてきていないってところかな」

小さな溜め息がイカロスから漏れた。

「……ウラノスか」

ガルーダが溜め息交じりに呟く。
フランツは心配そうに柚と焔を見た。

「二人が落ち込むのも分かりますが、僕は心配です。最近一緒にいても二人とも上の空ですし、食事もあんまり進んでないみたいで……なんとかしてあげられないでしょうか」
「なんとかなら、出来るよ」
「本当ですか?」

イカロスの言葉に、フランツは期待を込めた眼差しを向けて身を乗り出す。
穏やかに笑みを浮かべながら、イカロスは口を開いた。

「二人からウラノスの記憶を消せばいい」
「……イカロス将官」
「なんてね、冗談だよ」
「め……目が笑ってません」

フランツが怯えたようにイカロスから顔を背ける。
イカロスは苦笑を浮かべながら、腕を組んで小さく溜め息を漏らした。

「まあ出来れば、そういう方法は使いたくないんだけどね……」
「本気なんですか!」
「最終手段だよ。そうならないよう努力はするけど……俺を恨まないで欲しいな」

笑わない若葉色の目を細め、イカロスは静かに呟きを漏らす。

まるでそれは、自業自得なのだからと言っているかのようだ。
普段の優しさなど微塵も感じさせない眼差しは、少なからずフランツの体を強張らせた。

すると、ガルーダが気の抜ける笑い声をあげる。

「イカロス、本性出てるよ」
「なんの話しかな、ガルーダ」

にこにこと顔を向けるイカロスから、ガルーダが笑いながら逃げ出した。

「ところでフラン、フョードルは?」
「フョードルは、今ローウィー教官に扱かれてますよ。といってもフョードルの方が熱心で、ローウィー教官の方がへとへとなご様子ですけど」
「頑張り屋さんだね……」
「僕も見習わないといけませんね」

フランツが苦笑を浮かべる。
すると、ガルーダがフランツの首を腕で捕らえた。

「何々?俺と遊びたいの?」
「い、いい、いえ!とんでもないです!あ、用事思い出しました、失礼します」

逃げ出していくフランツを見送り、イカロスはくすくすと笑みを漏らしながら、「ふられたな」と呟きを漏らす。
ガルーダがいかにも残念そうに、肩を竦めて返した。

訓練室を出て行くフランツを視界の端に捕らえた柚は、バランスを崩して尻餅を付く。
途端に、師範の怒声が飛んだ。

「やる気はあるのか!」

() 奏雲(そううん)は、老体とは思えない怒声を張り上げ、足音荒く迫ってくる。
柚は首を竦めた。

「西並、お前もじゃ!何処にそんな荒々しい黒帝がおるか!黒帝は優雅に舞うもんじゃ、馬鹿者!」

焔は、うんざりとした面持ちで李から顔を背ける。
出来るならば耳を塞いでしまいたい気分だ。

模擬刀を持つ手から、だらりと力が抜けた。

二人が今回演じるのは、「龍武帝」だ。

世界が統一されていた時代が終わりを迎えようとしていた頃、アジアを解放する英雄が現れた。
その英雄は、死後も永遠の皇帝として存在している。

とはいえ国を治めているのは皇帝に次ぐ地位で政治を担う大統領で、現在は(こう) 太丁(たいてい)だ。

皇帝の名を、() 江龍(こうりゅう)
美しい優男であった為、"美帝"と呼ぶ者もあれば、黒髪から"黒帝"と呼ぶ者もいたという。

江龍は軍を率いてアジアを開放し、アジア帝國を築き上げた。
その後、皇帝の座を用意された江龍は、数ヵ月後に姿を消したという。

"アジア帝國"という名を冠しながらも、アジア帝國皇帝不在のまま百年以上の年月が経過した今となっては、もはや江龍存命の可能性もなく、死んだものとされている。

若い世代にとって、存命しない皇帝など伝説のような存在だ。
お伽話を聞かされているようにしか思えない。

事実、「龍武帝」の話はその時代では信じられないような内容ばかりで、江龍が最初の使徒ではないかという説も多く聞く。

二人が演じるのは「龍武帝」の中でも特に人気の高い一幕、江龍と難民の娘・カサンドラの恋物語だ。

(大体、俺が黒帝やったってしょーがねぇだろ)

焔は李の説教を不服そうに聞き流していた。

アジア帝國で恋物語と言えば、もちろん龍武帝の江龍とカサンドラの物語だ。
女の使徒が見付かった以上、柚がカサンドラを演じるのは自然の道理――ただ問題は、その相手役だ。

週刊誌がアスラと柚の関係をはやし立てているのだ。
そこで焔が柚の恋人役を演じて、誰が喜ぶ?

(くっだらねぇ……)

とはいえ、今は訓練に励みたい気分でもない。
いつも持ち歩いていた刀は、最近部屋に置いたままだ。

「はぁ……」

焔が溜め息を漏らすと、李がぴくりと眉間に皺を刻む。

「溜め息を付きたいのはこっちじゃ、馬鹿者!!」

人一人吹き飛ばしそうな勢いの怒声に、焔は首を竦めた。
「なんて元気なじいさんだ」と焔が心の中で悪態を漏らしていると、イカロスが小さく噴出し、ばつが悪くなる。

一日中扱かれ続け、開放された頃にはすっかり日が暮れていた。
大きな声で怒鳴られ続け、耳がおかしくなっている気がする。

フランツは不貞腐れている焔に苦笑を向けた。

「師範、誰にでも厳しいんです。僕も散々怒られました。恥ずかしい話ですが、実はこっそり部屋で泣いてましたよ。だから焔もあまり気を落とさない方がいいです」
「別に。そんなことで落ち込むかよ」

スープを飲みながら、焔は素っ気なく吐き捨てる。
柚の隣に座るフョードルが、不安そうに顔を曇らせた。

「来年は私ですね!私如きに、国民や大統領閣下にご満足頂けるようなものをお見せ出来るか……私、今から緊張してしまいます!」
「皆なんとかなってるんですから、フョードルも大丈夫ですよ。ところで柚……」

フランツは笑顔を引き攣らせ、柚に声を掛ける。

「あなたは先ほどから、何故スープにミルクを注いでいるんですか?」
「え……?あ゛!?」

ぼんやりとした面持ちで、先程から溢れる出しそうなほどにコーヒー用のミルクをスープに注いでいた柚が、はっとした面持ちで手を止めた。
またやってしまったとばかりに項垂れる柚に、フランツは心配そうな眼差しを向ける。

任務を終えて戻ってからというもの、焔と柚が落ち込んでおり、見ていられない。

「疲れているんですよ、今日はゆっくり休んだ方がいいですよ」

フランツは苦笑を浮かべて返した。

柚も焔も、自分には決して落ち込んでいる原因を話さない。
落ち込んでいるということすら隠そうとして、普段通りであるように振舞っている。

二人がそうしている以上、フランツから無理に話しを聞く事も出来ない。

自分が彼等の悲しみを癒してやることなど出来はしない。
そんなことは分かりきっている。

だが、せめて話しだけでもしてくれれば……

(信頼されてない……ってわけじゃあないんでしょうが……もう、僕まで落ち込んじゃいますよ)

フランツは密かに、小さくため息を漏らした。





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