36


「……どうぞ」

ジャンは、支部長室の部屋で頭を抱え込んでいるマルタにコーヒーを差し出した。
マルタは気鬱そうに顔を上げ、再びジャンから顔を逸らす。

「何よ、文句でもいいに来た?」
「そうだね……言いたい事は沢山あるけれど、元気のないあなたの姿を見ると言う張り合いに欠けるよ」

苦笑を浮かべるジャンに、マルタはコーヒーを手に取り、「生意気」と吐き捨てる。

「新しい、建物の匂いがするね」
「……」
「まだ、皆の私物も置かれていない。この歳でも新しいものは嬉しいけれど、少しだけ落ち着かないな」

ジャンは自分のコーヒーに口を付け、がらんどうの支部長室を見回した。
マルタは僅かに顔を上げ、不愉快そうに顔を逸らす。

「また、植物でいっぱいにするのかい?」
「嫌味?どうせ、数日後には降格よ。せっかくここまで上り詰めたのに、全部台無し」

マルタはわざとらしく肩を竦めてみせる。

「きっといい笑い物になるわ。ほら見ろ、女なんかに任せるからだ。マクレインは、出世欲を出し過ぎて自ら失墜した。これだから女は――ってね」
「もしそうなっても、あなたは研究を続けるんだろう?」
「冗談、さっさと止めてやるわ、こんな所。この間、カルヴァンにあたしの論文なんて言われたと思う?ジョークですって、はは、ジョークならもう少しまともなもの書くわよ!どいつもこいつも馬鹿にして!」

マルタは机の上のコーヒーを腕で薙ぎ払った。
真新しい床にコーヒーが広がり、カップがころころと音を立てて転がる。

怒りが治まらず、マルタは机に拳を叩き付けた。

「あんたもそうなんでしょ?あんた、子供達のこと可愛がってたものね!当然の報いだって、内心ではあたしの事笑ってるんでしょ!」
「マルタ……」

ジャンは、宥めるようにマルタの名を呟く。
マルタは真っ赤な唇を噛み締めた。

「言いたい事があるなら今の内に言っときなさいよ?いつ追い出されるか、分かったもんじゃないからね」
「……あなたは本当に、変わらないな」

くすりと、ジャンは懐かしそうに苦笑を浮かべる。

「ウラノスを死なせてしまったのは、私のせいだ」
「は?もっとしっかり結界を張っておけばって?そういうのは聞きたくないわ、くだらない」

力強くジャンの言葉を一蹴するマルタは、ため息と共に椅子に腰を下ろして身を沈めた。
こうして疲れた顔を見ると、彼女ももう若くはないのだということを思い出させられる。

「すまない、マルタ……」
「だからやめてって。どうせもう、あたしも限界感じてたのよ。所詮、女に生れた時点で負けてたの。あーあ、結局こうなるなら、大人しく金持ちと結婚して遊び暮らしてればよかったわ」

マルタは煙草に火を付けた。
ライターの火すら、マルタを嘲笑うようになかなか火がつかない。

ジャンは今にもライターを投げ出しそうなマルタからライターを取り上げ、火を灯して差し出した。

「羨ましいな……」
「はぁ?あたしの何処が?同情してるの?」
「いいや」

ジャンは静かに首を横に振る。
寂し気な瞳が、床にこぼれたコーヒーを見詰めた。

「コーヒーと一緒だ。一度零れた物は、もう二度と戻らない」

マルタは火を付けた煙草を忘れたように、眉を顰めてジャンの顔を見る。

「人間は何かに失敗したとき、やめようと思えばやめることが出来る。けれど、私達は……使徒であることから逃れる術が死しかない」

例えアダムに力を奪われようと、心は使徒だ。
肉親への過剰な情は、決して消えない。

「……ならば、ウラノスは死ぬ事で救われたのかしらね」

不愉快そうに、マルタは煙を吹いた。
白い煙がゆっくりと換気口に吸い込まれていく。

「そうかもしれないな。私は……死に、救いがあるとは思えないけれどね」

静かに呟き、ジャンはマルタのライターをそっと机の上に戻した。





消費され続ける力を回復しようと、体が休息を求め、眠気が押し寄せる。
強烈な睡魔には勝てなかった。

柚が目を覚ますと、いつの間にかベッドにアスラが座っている。
周囲を見渡すと、焔の姿もヨハネスの姿もない。

アスラから逃げようとしている自身に、柚ははっとした。

アスラに声を掛けられ、反射的に体が強張る。
柚は気後れを隠すように、ゆっくりとアスラの顔を見た。

「具合はどうだ?」
「……うん。大丈夫」

アスラと目を合わせられず、俯くように顔を背ける。

やはり、自分の不甲斐なさに合わせる顔がない。
我侭を言って与えてもらった任務をこなすことも出来ず、大切な命も守れず、彼の顔に泥を塗ってしまったようなものだ。

ギシリとベッドが軋む音を立てる。
顔のすぐ傍にアスラの手が置かれ、びくりと肩が揺れた。

置きあがろうとすると、完治していない傷に響き、思わず顔を顰める。

肩の怪我を見やり、アスラが悲しそうな顔をした。
柚は釣られるように泣き出しそうな面持ちになる。

優しくしないで欲しい……。
だが、辛くも当たらないで欲しい……。

(最低、ほんと……最低)

自分がここまで醜い性格だとは思わなかった。

皆に心配される資格などない。
アスラに愛される資格もない。

アスラの手が、頬の傷を撫でるように触れた。
一番酷い肩の傷に触れられると、痛みに顔を歪める。

ひとつひとつ怪我を確かめるように、アスラの手がキャミソールの下に滑り込み、押し上げた。
アスラの手を止めようとする柚の手を退け、アスラは柚の腹部の包帯を剥がす。

「酷い傷だ……」

柚はキャミソールを下げようとしながら、顔を背ける。

アスラは柚の手を押さえつけ、傷口に舌を這わせた。
柚がビクリと体を強張らせ、痛みに顔を顰める。

「俺が、どれほど心配したと思う?」
「ごめんなさい」

アスラの手がベッドのシーツを握った。

そんなアスラに、心の底から申し訳ないと思う。
醜い自分の心配をして、彼は心を痛めてくれた。

それが一層、ウラノスに申し訳なく感じる。

ウラノスの人生はこれからだった。
両親に会う為に辛い訓練に耐えてきたというのに、彼のささやかでごく当たり前の願いは叶う事なく、苦しみ、死んでいった。

どれほど嘆いても戻らないウラノス。
失った悲しみ、罪の重さ……それは同時に押し寄せ、柚を責めた。

「何故、玉裁の指示に従い、大人しく待機していられなかった」
「……ごめんなさい」

柚がアスラから顔を背ける。
顔を背けた拍子に、目尻に溜まった涙が零れ落ちた。

アスラは柚に触れようとしていた拳を握りしめ、眉間に険しい皺を刻んだ。

「俺を怒らせて泣くくらいならば、最初から命令を聞け」
「……ごめんなさい」
「命令を聞けないならば、二度と任務になど行かせない」
「……ごめ、なさい」
「あの子供の代わりはいるが、お前の代わりはいない。お前に何かあればどれだけの者に迷惑が掛かるか、よく考えて行動をしろ」

柚の瞳がみるみる見開かれていく。

そう、自分はこの国にたった一人しかいない女の使徒だ。
だから、どれほど心が醜くとも必要とされる。

幼いながら、親の為に懸命に訓練に励んでいたたった三歳の子供を死なせてしまったというのに、誰も気にも止めない。
責めようともしない。

自分という存在に殺されたが為に、誰もウラノスという命の重みなど、知ろうともしない。

(いっそ、私が死ねばよかった……)

アスラは自身の言葉に後悔した。

柚の瞳が失望に染まっていく気がする。
"所詮……"、そう言われている気になる。

これでは一緒だ……。
以前と何も変わらない。

「その目で俺を見るな」

はっとした面持ちで、柚がアスラを見上げる。

アスラは眉間に皺を刻んだまま、ベッドから立ち上がった。
踵を返し、医務室のドアに手を掛けて足を止める。

奥歯を噛み締め、小さく苛立ったように舌打ちが漏れた。
無意識の舌打ちは、ドアを開ける音に掻き消される。

柚のすすり泣く声から逃げるように、アスラは医務室のドアを閉ざしていた。

ふと、床に落としていた視線を上げたアスラは、廊下に立つ焔に気付く。
焔は肩を怒らせ、険しい面持ちで自分を睨み付けている。

わずらわしさが、露骨にアスラの顔に浮かび上がった。

「なんで……」

焔はもどかしさにぎりりを奥歯を噛み締める。

「なんであんな言い方しかできねぇんだよ、お前は!」

アスラの胸倉を掴み、壁に叩き付けた。

感覚がないのだろうかと思うほど、アスラは痛みを微塵も訴えず、いつも通りの感情の篭らない面持ちで焔を見下ろす。
それが余計、腹立たしさを煽った。

「違うだろ!別にお前に怒られて泣いてるんじゃねぇよ、分かれよ!察してやれよ!」

少しはマシになったと思っていたのに。
何故、当然の事が分からないのか……。

「ウラノスが、っ……死んで、悲しんでんだよ!悔しいんだ!お前、それくらいもわかんねぇのかよ!」

焔自身も涙を呑むように唇を噛み、焔はアスラの顔を真っ直ぐと睨み上げた。

すると、アスラの手が焔の手を引き剥がし、アスラは焔から顔を背ける。
乱れた軍服を調える仕草も顔も、全てが優しさなど微塵も感じさせない……まるで、会ったばかりのアスラのようで遠く感じた。

「いずれにせよ、処分が検討されていた成り損ないの子供だ。その子供が任務中に事故死したところで何の支障もない。己の未熟さを悔やむならばまだしも、悲しむ必要が何処にある」
「てめぇ!?そんなんで良く、あいつを好きだのなんだの言えるな!」
「それとこれとは別だ」
「一緒だろうが!他人の痛みを分かってやれない奴が人を好きになったって、相手傷付けるだけだろ!」
「だったらお前が、慰めてくればいい!」

アスラの怒声が、焔の声を遮る。
驚いたかのように焔が目を見開き、歯を食い縛るアスラを見上げていた。

「俺とお前は違う……」

声を絞り出すように、アスラの呟きが響く。

「玉裁からの報告を受けただけの俺に、柚がその子供と何を話し、何を感じ、どれほどの想いを持って泣いているかなど知れるはずもない」

焔は眉を顰めた。

責めたはずの自分が、まるで責められているかのようだ。
お前の方が恵まれている、そう言われている気がした。

「そんなものは俺が知りたい。たった数日共に過ごしただけの子供に、何故命令を無視してまで命を懸ける?」
(なんだ、こいつ……)
「お前のように、いつでも柚の傍にいてやれるわけでもない。いてやれたとしても、お前の言う"それくらいのこと"も理解してやれない!」

まるで、出来ないと駄々をこねる子供のようだ……。
そんな彼は、誰よりも人間らしく感じた。

(こんな顔、出来るのか)

やっぱり……と、焔は声なく呟きを漏らす。

(こいつもちゃんと……)

焔は去っていくアスラと、部屋の中で声を押し殺して泣いている柚の狭間で、壁に凭れて俯いた。

アスラは変わった。
それがいいか悪いかは分からない――だが、アスラはこれからも確実に変わっていくだろう。

変わらないのは、自分だ。

強くなれない、心も体も……。
冷静な今、柚と共に泣いてやることも出来ない。

ただ今は、一秒でも早く、この場所から逃げ出したいと願っている……。

午後になり、ハーデスが二人を迎えに医務室へと顔を出した時、焔はほっとしてしまった。

「柚、焔、時間」
「うん」

柚は小さく微笑み返す。
キースが荷物を抱えて部屋に入ってきた。

「前の施設からお二人の部屋の私物を持ってきましたが、これで全部でしょうか?確認お願いします」
「あ、うん。有難う」

少ない荷物を預かった柚は、その中に折り紙と鶴があることに気付いて手を止めた。
俯く柚を見やり、焔が掛ける言葉を見付けられず、顔を背けるように俯く。

ハーデスが、不思議そうに首を傾げた。

「何、それ?」
「ん?折り鶴って言うんだけど……やっぱり駄目、だったな」

柚は苦笑を浮かべ、ベッドの上に鶴を置く。

「持っていかないの?」
「うん……帰ろう」

柚は小さく頷き、覇気のない笑みを浮かべるとベッドから立ち上がる。
ハーデスはその手を取り、柚の体を抱き上げた。

「うん、帰ろう」

ハーデスは、宝物が戻ってきたかのように大切そうに抱える。

短いようで長い任務に思えた。
胸の内に大きな傷を残し、真新しい匂いがする施設を堪能する間もなく、逃げるように去っていく自分達。

焔は車に乗り込むと、自分が手にする刀を置いた。
今は、この手に刀を持つことすら重く感じる。

命の重み、命の儚さ、理想と現実――…。
思い知らされた現実は、自信を挫き、自身に幻滅を与えただけだ。

ぼんやりとした眼差しで、柚は何処か遠くを眺めていた。

「準備整いました」
「出せ」

キースの言葉に、アスラが淡々と返す。
車が施設から走り出そうとした時、窓ガラスからぼんやりと外を眺めていた柚がビクリと肩を揺らし、窓から僅かに身を放した。

子供の高い声が、声の響くエントランスにはっきりと響き渡る。

「待てよ!逃げんのか!」

ニエの声に、心臓を締め上げられるような痛みを覚えた。
瞳いっぱいに涙を浮かべ、車を追いかけようとするニエを、ジャンが慌てて止める。

「ウラノスを返せ!」

柚が呼吸を忘れたかのように息を呑み、体を震わせた。

ハーデスは柚を見下ろし、ニエを見やる。
そして、ニエを敵とみなしたかのようにニエを睨み付けた。

「守るって言ったのに、嘘つき!」

ジャンに抱きかかえられたまま、ニエが身を乗り出すようにして叫ぶ。
焔は何も言えず、刀を握り締めた。

叫んだニエが胸を押さえ、膝を付く。
発作が起きたニエを、追い掛けてきた医師が慌てたように抱き上げた。

ニエの言葉が胸に突き刺さり、顔をあげることが出来ない。
悲しくて悔しいというのに、涙も出てこない。

「出せ」

アスラが淡々と運転手に告げた。
戸惑ったように振り返る運転手に、アスラは何度も言わせるなと言いたげな眼差しを向ける。

ニエの大きな泣き声が響く中、車は滑るように走り出した。

柚と焔は振り返る事も出来ず、前を見る事も出来ず……
罪に押し潰されるように俯き、研究支部から逃げ帰るように帰路についた。





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