35


天井は白一色、雪のようだと思った。
だが、刺すような冷たさがない。

「……で、私達は皆無事ですよ。玉裁が調査に向かいましたが、ルナも遺体で――……そろそろ、元帥が到着すると先程――」

隣から、抑えて話しているヨハネスの声が途切れ途切れに聞こえてきた。
顔をゆっくりと横に向けると、隣のベッドに座りこんでいる焔と向かい合い、ヨハネスが説明をしている。

玉裁と、心配そうなアンジェの姿もあった。
ライラは柚が目を覚ました事に気付くと、ヨハネスのそでを引く。

目を覚ました柚に気付き、ヨハネスが肩からほっと力を抜いた気がする。
ヨハネスが柚に声を掛けようとすると、廊下から女の声が響いてきた。

「ちょっと、待ちなさいよ!話しはまだ終わってないわ!」
「あなたとお話しすることなど何もない」

マルタとアスラの声だ。

そちらに顔を向けると、白い壁がある。
ヨハネスが、廊下のやりとりを迷惑そうにしていた。

「冗談、馬鹿にしないで!あたしは支部長よ、あなたこそ勝手をしないで!」
「……あなたはその適正を問い直される立場である事に気付くべきだ」

アスラの声音は、氷のように冷たく響く。
まるで出会ったばかりの頃のようだと思った。

「何故、我々の到着を待たずに作戦を開始した」
「それは……」

マルタが返答に詰まる。

「あなたのその驕りが、この結果を生んだ事はご理解頂けるか?」

きっとマルタは、また悔しそうな顔をしているのだろうと思った。

だが今は、申し訳ないなどと到底思えない。
考える事を拒否するように、頭がぼんやりとしていた。

「わ、分かっているわ。これは全て私の責任です」
「当然です。移動時にエデンの襲撃を受けたという報告を受けた。伝令が機能していなかったという報告もある。フョードル・ベールイ保護の際、神森が出たという報告も受けていた。これほど危険な状況の中、まだ経験の浅い西並 焔と宮 柚の他に、初任務に当たるアンジェとライラを抱え、あなたは何故、我々の到着を待たずに作戦を開始したのか、非常に理解に苦しむ」
「経験が浅いって言ったって、ケルビムとスローンズでしょ!勝てると思ったのよ!実際、あの巨大な電磁波発生装置だって破壊したじゃない!」
「簡単に言わないで頂きたい。電磁波発生装置の範囲下で力を使い、さらに破壊するまでに力を使い続ける事が、使徒にとってどれだけ体の負担になるか、人間のあなたに理解出来るのか?それも万全の体調ではないあの状態で――後少し発見が遅ければ、二人が死んでいてもおかしくはなかった」

マルタの声が途切れる。

アスラの抑えきれない怒りが滲む声は、少なからず周囲を驚かせていた。
部屋にいたジャンですら、驚いたように廊下を見ている。

不自然なほどに頭がぼんやりとしていて、柚は瞼を閉ざし掛けた。

「これほど危険な賭けに出て、犠牲になった者が西並 焔や……宮 柚だったとしたら」

僅かな沈黙が流れる。
まるでそれは、アスラ自身が感情的になっている自分を抑え込む為に必要とした時間のように思えた。

一度瞼を閉ざしてしまった柚は頭の中でアスラの言葉を繰り返し、引き戻されるように瞼を起こす。

「あなた自身の価値と対等だったか――よく考えて頂きたいものです」

再び口を開いたアスラの声はいつも通り、感情の篭らない抑揚のないものだった。
だが、柚の胸の内には、聞き流せない言葉がしこりのように残っている。

犠牲になったものが……?

柚は再び、ぼんやりと天井を見上げた。

自分は生きている。
焔も生きている。
ヨハネスとジャン、アンジェとライラ、ニエも無事だ。
ならばパーベルとリリー、その胎児も無事のはず。
玉裁も、少し離れた場所に問題なく座っている。

――ウラノスは?

答えなど、確かめなくても分かっている。
雪の中から見付けだした時、ウラノスの体は氷のように冷たく、呼吸はすでに止まっていたのだから。

「ウラノス……」

小さく呟きを漏らすと、ヨハネスと焔がはっとした面持ちで振り返った。
腫れ物に触るかのような二人の反応が決定打だ。

(……守るどころか、私が殺した)

涙は一筋も流れなかった。

「ウラノスは……人間として、やり直せたかもしれないのに……私がっ」

柚の呟きに、玉裁が眉間に皺を刻んだ。
ジャンが顔を曇らせる。

「違う!俺が雪崩の中で手を放したから――!」

焔が声を荒げた。

互いに後悔してももう遅い。
人を殺した、あの時から……全てが狂いだしていたのだから。

ヨハネスがおろおろとした面持ちで、二人を見ていた。
すると、玉裁が肩を竦めて馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばす。

「人間としてやり直せるだァ?馬っ鹿じゃねぇの?」
「なんだと!」

玉裁の言葉に、焔がベッドから立ち上がろうとする。
ヨハネスが慌てて焔を押さえ込んだ。

「だから、まんまと毒入りのコーヒーなんて飲まされんだよ」
「玉裁」

ジャンが静かに玉裁の言葉を遮った。
ジャンの車椅子が、ゆっくりと二人のベッドに迫る。

空虚さの漂う眼差しと淡々とした口調で、ジャンは残酷な言葉を吐いた。

「人になった使徒に生きる価値などない。無事に戻ったところで、ウラノスは処分されていただろう」
「そんな……」
「人間さえ救わない政府が、役に立たない使徒を生かしとくわけねぇだろ。力のない使徒なんざ、無力な人間以下だ。てめぇ等の頭はどんだけめでてぇんだよ。アダムに他人の力を奪う力があることが分かった事は収穫としても、力を奪われた時点で、任務は失敗だ」

俯いたまま、柚は目を見開く。

少し考えれば分かることだ。
何故これほどまでに、浅はかであったか……。

玉裁に返す言葉もない。

玉裁は不機嫌に顔を背け、部屋を出て行った。

玉裁に続いて部屋を出たジャンは、一瞬驚いたように車椅子を止めて目を見開く。
アスラに付き従い、ライアンズ・ブリュールとハーデスが立っていた。

目が合った瞬間、ハーデスの瞳が見開かれる。

次の瞬間には、ハーデスは大鎌を腕の中に抱えるようにして、ジャンから顔を逸らした。
俯くと、ハーデスの長い前髪が怯えたように彷徨う瞳を隠してしまう。

ジャンは何も言わず、顔を伏せるようにしてハーデスの横を通り過ぎた。

ドアの閉まる音が静かに部屋に響く。
そんなやり取りから目を逸らし、ヨハネスは眉間に皺を刻んだまま俯いた。

「あなた方も、発見されたときは非常に危険な状態だったんですよ。本当に……」

ヨハネスが眼鏡を外し、溜め息と共に顔を掌で覆う。
彼の顔には深い疲れが刻まれていた。

「飛び出して行って、いつまで経っても戻ってこないで、発見された時には二人ともぼろぼろで……あなた方まで死んでしまうのではないかと思いました」
「……ごめんなさい」

柚が呟くように謝罪を口にする。

「あなた達は、もっと自分を大切にしてください」

焔は静かに視線を落とし、唇を噛んだ。
握り締めた手が悔しさに震える。

「でも、じゃあ……どうすりゃよかったんだよ。あのまま、犬を追い掛けて飛び出したウラノス見殺しにすればよかったのか?」
「……焔君」

誰も、焔の言葉に言葉を返すことは出来なかった。
アンジェが胸元で手を握り締め、唇を引き結ぶ。

その時、部屋のドアがノックされ、返事も待たずにドアが開け放たれた。
アスラがハーデスとライアンズを伴い、部屋に入ってくる。

抑揚のない面持ちと人形のような眼差しが、ヨハネスへと向けられた。

「ヨハネス、どうだ?」

ヨハネスが気遣うように俯いている二人を見やる。
そして、机の上に置かれたカルテを手に取った。

「今しがた柚君も無事に目を覚ましましたが、今回は自己治癒が仇になりましたね。三箇所、小型化した電磁波発生装置を内蔵した銃弾を受けており、現時点で私の治癒も受け付けません。問題は柚君の自己治癒の力で、多分電磁波の効果が切れるまでの間、傷は完全に癒えず、その間回復しようとする為に力が消耗され続け、結果として体力を削り続ける事になります」

アスラは柚を一瞥し、視線を戻す。
あまりにも素っ気ない態度に、焔が目を見開いてアスラの顔を見た。

ヨハネスは念を押すようにアスラを見上げる。

「これに関しては元帥にも言える事です。今後、十分にお気を付けください」
「分かった、焔の方は?」
「毒によるダメージ、力の使い過ぎによる衰弱は回復傾向にありますが、もう暫く安静にさせてください」
「両二名の移動は可能か?」
「ええ、まあ」
「ならば、予定通り午後に出立する。そのように準備を進めておけ」
「はい、了解しました」

ヨハネスが諦めたように返した。

二人とて、辛い記憶となってしまったこの場所に留まるよりも、今、少々の無理をして自分達の基地に戻ったほうが精神的にもいいだろうと、ヨハネスは自身に言い聞かせる。
体の傷は癒える……だが、心はより重傷だ。

「あの、元帥……」

ヨハネスは、アスラを部屋の隅に呼び寄せた。

「二人とも、精神的にも非常に傷付いています。出過ぎたこととは思いますが、あの、今はあまり叱責等は……」
「出過ぎた事と分かっているならば、黙っていろ」

氷のような眼差しを向けられ、ヨハネスは思わず首を竦めて固まる。

"不機嫌"、などという生易しいものではない。
アスラの怒りを目の当たりにし、怯むしか出来ない自分が情けないが、ライアンズとハーデスに助けを求めても、二人は我が身可愛さか……ぶんぶんと手や首を横に振る。

アスラは柚の焔の前に戻り、淡々と口を開いた。

「出発前に調書を纏めたい。焔からの簡単な報告は聞いているが、詳しい報告が欲しい。話しは出来るか?」

柚は無言のまま、小さく頷き返す。
焔がアスラを見上げ、何かを言い掛けて口を噤み、顔を逸らした。

「あの、元帥。調書でしたら俺が」
「では任せる」

ライアンズの申し出を受け、アスラはあっさりと踵を返す。
そのまま部屋を出て行くアスラを見やり、白髪に炎のようなメッシュが入った短い髪をかき上げたライアンズは、心底疲れた面持ちで溜め息を漏らした。

「あー、息詰まる」

しっかり締めていた軍服のボタンを外して首元を寛げながら、ライアンズは近くのパイプ椅子にどかりと腰を下ろす。
ヨハネスが苦笑を浮かべてコーヒーを淹れると、アンジェがカップを手に取り、ライアンズに手渡した。

ハーデスは心配そうに柚の顔を覗き込み、泣き出しそうな面持ちになる。

「柚?大丈夫?」
「……うん」
「柚、何処か痛む?何処?どうしよう、ヨハネス」
「やーめろ。怪我してんだから、聞くまでもなく痛てぇに決まってんだろーが」

ライアンズがハーデスを引き剥がすと、ハーデスが無言で抗議するようにライアンズを睨んだ。

ライアンズは溜め息を漏らし、ハーデスに座っていろと告げる。
ハーデスは、渋々椅子に浅く腰を下ろした。

「とりあえず、いくつか質問するぞ」

ライアンズはファイルを取り出し、机の上に広げる。

「焔から報告を受けたツェーザル・バルドリーニという人物だが、各国の協力を得て戸籍確認を試みたが、結果としてツェーザル・バルドリーニという人物は実在しないことが判明した。おそらくは偽名だろうな。国際自然保護連合にも確認を取ったが、そんな調査予定も、バルドリーニっていう奴もいないとの返答だ。当然、国にも許可の申請はされていない」

眉間に皺を刻み、焔が唇を噛んだ。
最初から、何もかもが嘘だったのだ――自分達の甘さに苛立つ。

「お前等には、後でエデン関係者と思しき写真のリストから、見覚えのある奴がいないか確認してもらう。そのバルドリーニって奴に関して、何か気付いたことや思い出したことはあるか?」
「特には……」
「そうか。じゃあ、次は神森のアダムとハムサだ」
「ハムサ?」

焔が眉を顰めてライアンズを見た。

「お前等が倒れていた地点に、ハムサとアシャラがいたと玉裁が報告をあげてる」
「アイツは……知らないぞ。俺達が接触したのは、アシャラ二人だ、そいつ等にアダムが乗り移ってた」
「で、そいつ等はお前等が始末したんだな」

焔がぐっと言葉に詰まる。
すると、柚が表情ひとつ変えずに、はっきりと頷いた。

「殺した」
「……そうか。ただの雪山で、炎属性の焔が居てお前等が死ぬ可能性は非常に低い。けど玉裁との会話から、ハムサは多分、アダムの命令でお前の様子を見に来たんだと思う。つまりアダムは、エデンがいることを知っていた」
「まさか、神森とエデンはグルか?」
「天敵ではあるが、間違っても手を取りあう事はない」

ライアンズはきっぱりと否定すると、周囲を見やり、声のトーンを落とす。

「どちらかにのみ情報が漏れてるなら分かる。特にエデンは人間同士、スパイを紛れ込ませ易いだろう。俺が言いたのは……神森とエデンの両方が、支部の移転ルートをどうやって知ったか、だ」
「まさか、俺達の誰かが神森に情報を漏らしてるってのか!?」
「馬鹿、声がでかい!」

ライアンズが慌てたように声を荒げた焔を黙らせる。
そして、腕を組み大きく溜め息を漏らした。

「まあ、可能性のひとつとして考えられるってことだ。そうなると怪しまれるのは当然、研究所育ちの連中ではなく、俺達の方だ」
「……やめてください、そんなことあるわけないじゃないですか」

ヨハネスが不安そうに呟く。

「俺だってそう思いたい」と、ライアンズは肩を竦めて見せた。
その顔には、悔しさが滲んでいる。

柚はゆっくりと瞬きをし、ライアンズを見上げた。

「フョードルが……疑われてる?」
「まあ、そうだったかもしれないが、イカロス将官がフョードルの無実を証明した」
「じゃあ、誰?」
「そんなの知るかよ。大体、俺達に含んだところがあれば、イカロス将官に筒抜けなんだぜ?」

一層は黙り込んだ。

イカロスの前では、常に本心を曝け出している状態にある。
使徒ならばそれを防ぐ事も可能だが、それでは疑ってくれと言っているようなものだ。

「なんかもう、そういうの沢山……」

柚が顔を背ける。
ハーデスが、心配そうに小さく柚の名を呟いた。

アンジェはライラの顔を不安そうに見やる。
研究所で生まれ育った彼等にしても、仲間を疑うなどしたくはない。

「そうだな、今話しても仕方がない。話を戻そう」

ライアンズはファイルに視線を戻し、再び口を開いた。

「アダムの力についてだが、他者の力を奪う……か。影と時間、他人に乗り移る力、一体、いくつの力を持ってるんだかな」
「ライアン、それ逆。アダムは他人から奪うからいくつもの力を持っているんだ」

ハーデスの言葉に、ライアンズは頷き返す。
柚はシーツをぎゅっと握り締めた。

アシャラとは、アダムにとって器だ。

神森は使徒を崇拝する人間も多く集まっている。
信者に使徒との間に子供を生ませれば、器は生まれる。

ヨハネスの言う通り、母体が胎児に愛情を注げば難産を迎える事がないとすれば、使徒を崇拝している信者は格好の母体だ。
問題となる人間と使徒間に出来た子供の虚弱体質は、アダムが見合った力の者と交換してやれば何の問題もない。

ライアンズ達が部屋を出て行くと、空調の音が医務室の中でやけに響いているように感じた。

先程から柚は、何も話さず、だからといって泣いている様子もなければ、寝ている様子もない。
自分から声を掛けるにも、なんと言っていいか分からない。

胸の内には悲しみと悔しさのみが渦巻いている。

焔は、ベッドの上で背を向けている柚を横目で見やった。
無言の背中は、いっそ危ういほどに頼りなく感じる。

今更、ウラノスを死なせてしまった原因がどちらにあるなどと話しても、どうにもならない。
過ぎてしまった事を、あの時……などと悔やんでも無意味だ。

ウラノスを死なせてしまった罪は、自分一人で背負えるものではない。

焔は視線を落とす。
こちらを見ようともしなかったアスラの態度が、より一層胸を締め付けていた。

(ウラノスを……死なせて、こんなにボロボロになって……失望、されたか)

もとより期待などされていたかも妖しいが……。
焔はアスラの素っ気ない態度を思い出し、眉間に皺を刻んだ。

(俺はともかく、よりによってあいつにまであんな態度取りやがって)

ハーデスのように心配するのが普通ではないのか?
普段は周りの迷惑も顧みずに「好きだ、愛している」などと言って歩いている男が、一言も柚に声を掛けなかったのだ。

(こういう時に、気の利いた言葉とか掛けられねぇのかよ……支えにならなくてどうすんだよ、あの馬鹿)

苛々としながら、焔はベッドで寝返りを打った。

胸の内に、空虚さが付き纏う。
別の事を考えていなければ、ウラノスへの罪悪感と悲しみに押し潰されてしまいそうだった。

命を奪い、奪われ、自分達もまた生命の危機に瀕し……
それでも今、自分が生きている事にほっとしている自分がいた。

そんな自分を嫌悪する自分も存在する。
そして、打ちひしがれて、いっそ消えてしまいたいと思う思う自分も存在していた。





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