33
雪が水となり、バルドリーニに襲い掛かる。
同時にバルドリーニは小屋の外へと飛び出した。
雪の上を走るバルドリーニに向け、水が意思を持った津波のようにバルドリーニに襲い掛かる。
振り返ったバルドリーニは、手を翳して薄く笑った。
水はバルドリーニに触れる寸前、操られていた形をなくし、バルドリーニを避けるように弾かれる。
目を見開く柚に、バルドリーニは満足そうに自分の手足へと視線を落とした。
「こちらはうまく作動しているようだな。残念ながら、君の攻撃は僕に通用しない」
バルドリーニは、くつくつと笑いながら緩慢な動きで銃を取り出す。
「私は"使徒"という化け物が大嫌いだ……君達に対抗するため、全身に小型化した電磁波発生装置のインプラントを施してある」
銃口の後ろで男は嘲るように笑いながら、躊躇いも見せずにサイレンサー付きの銃の引き金を引いた。
(私達のことは、殺してもなんとも思わないんだ……)
柚はぼんやりと、心の中で呟く。
(人を殺す道具の引き金を、こんなにもあっさり……引ける人なんだ)
見た目に反し、優しい人なのだと思っていた。
自分達が使徒であれ、当然のように普通に接してくれる人なのだと思っていた。
ウラノスと焔が、毒に倒れるまでは――…
柚は俯くようにして、ギリリと唇を噛み締めた。
「貴様の方が、よほど化け物だ……」
自分の体を抱え込むようにして、柚は小さく吐き捨てる。
水が柚を守るように包み込む。
弾丸を水の結界に食い込み、波紋を描く。
水が弾丸を握り潰し、雪の上にぼとりと落ちた。
バルドリーニが無言でもう一丁の銃を抜き、引き金を引く。
空気を震撼させて放たれた弾丸は水の結界を突き破り、柚の肩を貫いた。
「うっ……」
殴られたような衝撃に、柚は肩を抑えてよろめく。
バランスを崩して倒れそうになった柚のわき腹を、二発目の弾丸が掠めた。
柚は痛みに泣き叫びたくなる。
(痛い、血が……全然止まらない)
唇を噛み、柚は自分の血で真っ赤に染まる掌に眩暈を覚えた。
血など見たくもない。
もう沢山だ。
(痛い、もう嫌だ)
痛いと泣き叫びたい。
全て投げ出してしまいたい。
好きで使徒に生まれたわけではないというのに。
何の為に忌み嫌われ、心も体も、ぼろぼろにならなければならないのか……。
何故、自分がこんな目に遭わなければならないのか……。
バルドリーニは雪の上に蹲る柚に銃口を向けたまま、ポケットから携帯電話らしきものを取り出す。
「裁きを……」
「!」
柚は目を見開いた。
痛みも忘れ、身を捩り、焔とウラノスの名を叫ぼうとした瞬間、スイッチを押す音がはっきりと耳に届く。
山の傾斜に仕込まれていたダイナマイトが爆発し、爆音が響き渡った。
地面が震撼し、足元が小刻みに揺れる。
山の雪がずるずると滑りだし、雪崩は轟音を立てて山小屋を呑み込んで押し流す。
柚は一歩も動く事が出来ないまま、呆然とその光景を見ていた。
悪寒が込み上げた。
喉から、声にならない声が溢れる。
鎮まった雪崩の跡に散らばる小屋の残骸は、柚の鼓動を早くした。
「焔!ウラノス!!」
柚は手で雪をかきながら、必死に二人の名を叫んだ。
雪をかく手が、ふいに何かに当たる。
夢中で掴み、引き摺り出すと、それは焔の刀だった。
柚は思わず雪の上に尻餅を付く。
体から力が抜け落ちた。
虚脱感と絶望感が襲い来る。
そんな柚の背に、サイレンサーに包まれた銃声が響いた。
反射的に体を捩らせた柚の頬を弾丸が掠める。
焼けるような痛みが走った。
雪の上に、赤い雫が一粒、伝い落ちる。
再び、ぽつぽつと新たな朱を描いていく。
体中の血がざわめき始めた。
ぐるぐると目が回る。
自分に引き寄せられるように、大気中の水がうごめき始めた。
「貴様……」
焔の刀を抱き込むように握り締める。
「貴様ァ!!」
咆哮のように叫び、地面を蹴った。
走りながら鞘を抜き捨て、刀を振りかぶる。
剥き出しの刀身を、バルドリーニに振り下ろした。
空気を切り裂く音が響き、振りかぶった刃はバルドリーニを掠めて、そのまま地面を切っ先が抉る。
男は後ろへと後退しながら、柚に向けて目晦ましに足元の雪を蹴り上げた。
構わずに飛び込んだ柚の額に、雪に紛れた刃が掠める。
柚は憎しみの篭った瞳で、雪の上を走る男の姿を睨み付けた。
水で固めた足場へと飛び乗り、柚は走りながら男に向けて水の刃を投げ放つ。
能力による攻撃はことごとくバルドリーニに触れる寸前で制御が利かなくなり、霧散する。
柚は足を踏み出し、バルドリーニとの距離を詰めながら刀を振り下ろす。
攻撃をかわしたバルドリーニに更に踏み込みながら、向けられる銃口を刃で弾き、バルドリーニの腹に蹴りを入れた。
何かを仕込んであるのか、蹴った瞬間の堅い感触に足の骨まで痺れ、わき腹の傷から血が滲む。
僅かに足元が崩れたバルドリーニに向けて鋭く刀を突くと、バルドリーニの銃が刀を受け止めて弾き返す。
銃が柚の顔を殴り、そのまま弾かれるように倒れ掛けた柚の腕がバルドリーニのそでを掴み、踏み止まった。
動きを捕らえたバルドリーニの体を、刀の切っ先が下から垂直に切り裂く。
「ぐっ!」
「逃がすかァ!」
鮮血が飛び散る中、柚は後退しようとするバルドリーニに飛び込み、腕を伸ばした。
手がバルドリーニの首を掴み、柚は雪の上に押し付けるようにバルドリーニの体を押し倒す。
柚は片手でバルドリーニの首を締め付けた。
バルドリーニは苦しそうに顔を歪めながら、落とした銃に手を伸ばす。
その掌に柚は迷いなく刀を突き立て、刀を抜いた。
バルドリーニが苦痛の声を漏らす。
そんなバルドリーニを、まるで虫けらを見るかのような眼差しで見下ろし、柚は刀の切っ先をバルドリーニの首に突き付けた。
薄い皮を突き破り、バルドリーニの首からぷつりと血が溢れだしてくる。
「……死ね」
「止めろ!」
刀に力を込めようとした柚の手を、焔の手が捕らえた。
柚は目を見開き、その名を呼びそうになる。
無事だったのだと分かった瞬間、肩から力が抜けそうになった。
だが柚は振り返らず、焔の手を振り払う。
「邪魔をするな」
無事ならば尚更、傷付いている彼等を守らなければならない。
その為には目の前の敵を殺さなければ、安全は訪れない。
「柚!」
焔が強い口調で柚の名を呼んだ。
びくりと肩を揺らした柚は、バルドリーニの首を絞める手から微かに力が抜ける。
途端にバルドリーニが柚を突き飛ばした。
柚は逃げ出したバルドリーニを睨み、追おうと身を乗り出す。
焔は柚を羽交い絞めにし、慌てて止めに入った。
柚が暴れるたびに、白い雪に転々と赤い血が飛び散る。
「暴れるな、血が……!落ち着け、あいつはもう戦えない!それより――」
自己治癒があるはずの柚の血が止まらない。
焔は赤く染まった柚の腹部を見下ろし、焦りに呑み込まれそうになった。
焔自身の体を鈍痛が襲う。
胃が焼けるように熱い。
白い雪が、この赤を際立たせる為だけの存在するようにさえ思えた。
生命が吸い取られていくようで、恐ろしい。
「放せ!!」
柚が叫んだ。
自分を見失った叫びは、虚しく空に呑み込まれて響き渡る。
「しっかりしろ、落ち着け!このままじゃ――」
(お前が死んじまうだろ……!)
あまりにも恐ろしく、言葉に出すことが出来ない。
「柚!」
いくら自分が名前を呼んでも届きはしない。
彼女の瞳に、自分は映ってなどいない。
「あいつを生かしておけないっ!殺らなきゃ殺られるんだ!」
普段の彼女ならば口にしないような言葉が、憎しみと共に吐き出される。
その言葉が紡がれる度、彼女は傷付き、追い詰められ、柚という人格が破壊されていくような気がした。
彼女を追い詰めたのは自分達だ。
その無力さを知るたびに、自分もまた追い詰められていく。
それが寂しく、悲しく、辛かった。
考えるよりも先に体が動く。
柚の体を力一杯に抱き締めた。
言葉で表現することの出来ないこの感情が伝えられたら、どれほど助かるか……。
情けないが、涙が溢れた。
「止めてくれ……頼む」
血が止まらない柚の肩に顔を埋める。
声が掠れた。
「……止めてくれ」
柚の肩がびくりと揺れる。
自分がもっと強く、自分の身のみならず全てを守れたなら……。
彼女が自分達の為に人を殺そうなどと思わなかっただろう。
元の彼女に戻って欲しい。
どうかこの先何があっても、彼女にだけは変わらないで欲しい。
彼女の声が、幻聴のように自分の名を呟いた。
はっとした面持ちで、焔が目を見開く。
まるで触れて確かめるかのように、恐る恐る伸ばされた柚の手が焔の腕に触れていた。
頼りない細い指が、焔のそでを掴む。
焔はゆっくりと、柚の肩から顔をあげた。
「だって、だって……焔とウラノスが、死んじゃう」
柚の顔が歪み、泣きじゃくるように柚が言葉に詰まる。
焔は再び柚の肩に顔を埋めた。
「だからって、俺達まで簡単に人を殺せるような奴になったら……あいつと一緒なんだ」
振り返った柚が、泣きながら焔に勢い良く抱き付く。
雪の上に倒れ込んだ焔は、あやすように柚の背中を擦りながら、灰色の空を見上げた。
「焔……大丈夫、なの?」
「俺は、全部飲まなかったからだと思うが、効きが悪いみたいだ。それよりすまない、俺が……流される途中に、ウラノスの手を放しちまったんだ」
焔は手を止め、ぎゅっと拳を握り締める。
「俺は自力で雪を溶かして脱出できたけど、同じ方法でウラノスを捜したらウラノスまで燃やしちまう。お前が、ウラノスを見つけてくれ、頼む」
「……焔」
切々と訴える焔に、胸が軋みを上げた。
自分を見失っている場合ではない。
ウラノスはまだ助かるかもしれない、否、助けるのだ。
柚は夢中で起き上がった。
途端に、体中の痛みに顔を顰める。
柚は歯を食いしばって立ち上がった。
「どの辺だ?」
「多分、あっちだと思う」
「分かった、やってみる」
その背後で、雪を踏む音に焔と柚はゆっくりと振り返った。
雪を被ったバルドリーニが、血を滴らせながらも、銃を両手に立っている。
その背後には、雪と見分けのつきにくい白い戦闘服の男が十人ほど立っていた。
厭きれを通り越して感心したかのように、焔は小さく笑う。
「あんたも……しぶといな」
「貴様等を一人でも始末しなければ、死ぬに死ねない」
「もう、こいつには触らせねぇよ」
焔は柚が落とした刀を拾い上げ、杖代わりに立ち上がった。
咳き込むと、口内に血の味が広がる。
「こっちは俺に任せろ」
「でも焔……」
「お前だってぼろぼろだろ、さっさと止血しろ。俺じゃウラノスを助け出してやれないんだ。これ以上……俺を惨めにしてくれるなよ」
焔の真剣な横顔には、悔しさが滲んでいた。
柚は焔から下がり、小さく頷き返す。
バルドリーニは、すっと右手を上げた。
「我等人類を脅かす者共に裁きを」
銃口が焔に向けられる。
バルドリーニの合図と共に、一斉に引き金が引かれた。
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