32


柚は残されていた一枚の毛布を取り出してくると、焔に手渡す。

「俺はいい、お前が使え」
「よくない。焔、顔色悪いぞ」
「お前だってそうだ」

柚は溜め息を漏らし、自分が手にする毛布に視線を落とした。

それを背中に羽織ると、焔の隣に腰を下ろし、半分を焔の肩に掛ける。
焔は寄り添う柚に、思わず身を引いた。

「一人で使えよ」
「文句言わない」

焔の横顔を見上げ、柚はぺたりと頬に触れる。

「っ、冷てぇな」
「焔、あったかい」

体を硬くする焔に構わず、柚は焔に身を寄せた。

身を寄せても、いつものように張り付いてはこない。
顔も焔を見ようとはしなければ、会話を続けようともしない。

最初は冷たかった柚だが、体温の温かみが僅かに伝ってくる。
視線を落とした焔は、柚が膝の上の置いた指先が微かに震えていることに気付いた。

「寒いのか?」
「ん……そうみたい」

俯く柚の顔が見えない。

それは本当に、寒さに震えているのだろうか?
何故、泣き出しそうな声で答える?

人を心配する余裕など、自分にもないというのに……
どうしても気になってしまう。

同じ道を辿り、同じ痛みを味わい、今もこうして傍にいる。
焔は自分の掌に視線を落とした。

掌に刻まれた皺
その下を流れる血潮

この手で刀を握り締め、この腕でアダムを宿したアシャラを殺した。

「手、出せ」
「え?」
「出せ」

そう言いながら、焔は柚の手を握って二人の間に置く。

やはり女の手だ。
小さくて華奢な手は少し冷たく、小さく震えていた。

その震えを止めてやりたいと、心から思う。
同じく人を殺した手で……だからこそ、先ほどよりもずっと、その痛みを理解してやることが出来る気がした。

「い、いいよ。大丈夫」
「俺も、寒いんだ」

柚がゆっくりと焔を見上げる。
焔は柚の視線に応えずに、自分が握り締める柚の手に視線を落としていた。

少しだけ赤い焔の頬から、柚は焔が見詰める自分達の手へと視線を流す。

(ああ、そうか……)

柚は心の中で呟き、静かに瞼を閉ざした。

「仕方がないな」

(同じ、なんだ)

柚は焔の手を握り返す。

自分よりも大きくごつごつとした手は、自分の手を温めるように包んでいる。
だがその手もまた、微かに震えていた。

緊張と罪悪感。
その狭間で、いつ切れてもおかしくなかった緊張の糸が音を立てて切れた気がした。

「ウラノス、これからどうなっちゃうんだろう……」
「さあな」
「私……ごめん、足引っ張って」
「は?」

柚は唇を噛み締める。
必死に涙を堪える柚を、焔は静かに見守った。

「あの子が危ないって、分かってたのに……また人を殺すのが怖くて……何も出来なかった」

膝に顔を埋め、途切れ途切れに呟きを漏らす。
泣いているのだと、すぐに分かった。

「昨日も、一昨日も、フョードルの村の人達の顔を思い出して、あんまり眠れなかった。でもフョードルと違って、亡くなった人達のことを思って悲しんでたわけじゃないんだ」
「……」
「あの村の惨劇を見て、私は単に気持ち悪くて、怖かったんだ」

沈黙が二人を包んだ。

「自分勝手、最低……」

顔を上げないまま吐き捨てた柚の言葉は、焔の胸に突き刺さる。
焔は柚の手を握る手に、無意識に力を込めた。

小さく唇が喘ぐ。
一度奥歯を噛みしめ、焔は柚から顔を逸らし、口を開いた。

「……お前だけじゃねぇよ」
「え……?」
「俺だって……あの時攻撃を躊躇ってた。フョードルの村のことも、一昨日から思い出して眠れなかった」

"おや、二人とも寝不足ですか?"
雪合戦をした日のヨハネスの言葉が脳裏を過ぎり、柚は目を見開く。

すると焔はばつが悪そうに、いつもよりも早口に告げた。

「大体、自分が全く知らない奴が死んだって、悲しめるわけないだろ?誰かを殺すのだってそうだ。俺は今でも、雫への罪悪感を忘れられないでいるんだぜ?人を傷付けただけで辛いってのに、人を殺すんだ。平気なわけないだろ」

柚の肩が揺れる。

「平気な奴の方が異常なんだ」

顔を上げた柚の顔を見ることが出来ず、焔はかたくなに暖炉で燃え盛る炎を見詰めていた。

自分の弱さと醜さを曝け出す事は怖い。
だがこれ以上、何も出来ないことの方が辛い。

自分の内の弱さが、せめて少しでも柚の助けになるならば……

焔は溜め息を漏らす。

「ねえ、焔……」
「あ?」
「ありがとう」

焔が目を見開き、柚に振り返りそうになった顔をとどめた。
赤くなっていく顔を見られたくなくて……思わず柚から顔を逸らす。

「考えるとさ、いつもこういうとき、焔と一緒だな」
「そう……かもな」

否定しようとして、否定出来ずに焔は眉間に皺を刻んだ。

「こういうのってあれかな、腐れ縁ってやつ」
「……まあ、そうかもな」

柚は小さく苦笑を浮かべた。

横目で柚を見た焔が見たのは、少し寂しげで、何処かはにかんだような……複雑な笑みだ。
繋がった手と、触れる体が暖かい。

俯きながら、柚の長い睫毛がゆっくりと影を落とす。

「だったら、感謝だな……」
「……え?」

焔は思わず目を見開き、柚の顔をまじまじと見た。

柚を見ると、柚は瞼が閉ざされている。
焔は顔を引き攣らせた。

(この状況で、良く眠れんな……さっきまでショック受けて泣いてた癖に。どういう神経してんだ、コイツ)

呆れて溜め息が漏れる。

焔は寝息を立てるウラノスを見やり、柚を起こさないように毛布を掛け直した。

バルドリーニが、完全に敵ではないとは言えない。
ここが完全に安全とも言えない状況で、自分が今度こそ皆を守らなければならない。

(つーかなんか……)

焔は胸を押さえる。

(さっきのコーヒーで胸焼けでもしたのか?)

重い息を吐き、焔は刀を握り締めた。



気が付くと、焔は柚が声を抑えながら必死に自分の体を揺さぶっていることに気付き、瞼を起こした。

いつの間にか眠っていたと気付き、焔は慌てて飛び起きる。
突然起き上がったせいか、眩暈を覚えた。

「焔、今すぐここを出よう」
「は?」

焔は状況が分からずに、思わず眉を顰める。

「あぁ、もう、どうかしてた……!」

悔しさと焦りが入り混じる面持ちで、柚が自分の前髪を握り込んだ。
こうしている時間すらもどかしそうにしている。

「どうあったって、この時期に入山許可が下りるわけないだろ」
「……?」

焔はますます眉を顰める。

「だから、移転作業でこのルートを通る事は事前に決まっていたんだ。どんなツテがあったって、戦場になるかもしれない場所に一般人をいれるわけがないし、入れたら極秘の移動を目撃される可能性だってあっただろ!大体あんな許可証、私達がこの場で本物かどうかなんて確認出来るわけがない!」
「!」

焔が目を見開く。

「なんであの人が山に入れたんだ?」
「く、そっ……」

焔は苦々しく吐き捨てた。

自分もどうかしていたのだ。
情けないが、アシャラを手に掛けたことがよほど応えている。

「ウラノス、起き……」

焔がウラノスに手を伸ばし、はっと息を呑んだ。
柚が目を見開き、青褪める。

「ウラノス!」

ウラノスが包まれた毛布が一部赤く染まっていた。
血と認識した途端、吐き気が込み上げる。

その後ろで焔の体がぐらりと床に倒れ込んだ。

「ほむ、ら?」

焔の刀が床の上で大きな音を立てる。

よく見れば焔の顔色は青く、苦しそうに眉が顰められていた。
咳き込み口元を押さえた彼の掌には、薄く血が混じっている。
空気が抜けるような呼吸の合間に、苦しそうな呼吸が漏れでていた。

柚はパニックに陥りそうになる。

「焔、しっかりしろ、どうした!」

焔の前にしゃがみ込み、焔の背中をさすりながらも、自分の体を支える手が小刻みに震えた。
今にも涙腺が崩壊しそうだった。

いつも助けてくれる焔。
当たり前のように傍にいて、力を貸し与え、支えてくれている存在。

いつも彼が、傍でさりげなく支えてくれているから……
今までもなんとか切り抜けてこられたのだ。

「にげ……ろっ」

焔が、力の入らない手で柚の肩を押す。
固い床に尻餅を付いた柚は、背後から迫る足音に肩を揺らした。

ギリリと奥歯を噛みしめ、柚はバルドリーニを睨み上げる。

「バルドリーニ!?」

地を這うような声と共に、憎しみを込めてその名を叫んだ。

「おぞましい顔だ、化け物」
「貴様、エデンか!」

男は口角を吊り上げて笑った。

「私を恨む前に自分を恨め。その子供に毒入りのコーヒーを飲ませたのは何処の誰だ?」

ぞくっと、総毛立つような感覚が押し寄せる。
呑み込んだ息の先が続かない。
手が大きく震え出した。

「さすが化け物とでも言うべきか……君には全く効いていないようで実に残念だ。自己治癒という力のせいか」
「ああ……そうか。残念なことに、私はっ――」

自分の体の異常を回復するために、体内で力が大量に消費され、急激な睡魔に呑み込まれたのだろう。
お陰で今は、体が少しだるい程度だ。

他者よりも早く治る傷、毒すら中和してしまう体。
使徒の女は死んではならないとでもいうかのように、生に貪欲な体。

「私は」と、再び声にならない声で繰り返す。

空気がざわめき、呼応するように外で吹雪が吹き荒れた。
小屋がみしみしと音を立て、暖炉の火が掻き消される。
窓や煙突を突き破り、吹雪が柚を取り巻くように小屋の中で荒れ狂う。

荒れ狂う吹雪のように、心の中もまた、冷たい風が吹き荒れていた。
もう全てが、どうでもよく思えてくる。

「どうせ私は……化け物だ」

頬を冷たい涙が伝い落ちていく。
柚はゆっくりと、バルドリーニに手を翳した。





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