31


額に触れるアシャラの手を烈火が包み込む。
腕から体へと燃え広がった炎がアシャラを呑み込んだ。

爆ぜるような音と共にアシャラの面が割れ落ちる。

アダムは焼けていくアシャラの手を見下ろし、苦笑を浮かべた。

「おや、残念だ。やはり欲張るものではないな。まあいい」

炎の中で、アシャラがゆっくりと柚に振り返る。

「また暫しの別れだ。私のエヴァ、このような場所で死なないでおくれよ……君の奉納の舞を楽しみにしている」

上品であり妖艶な笑みを浮かべ、アシャラの姿は完全に炎に呑み込まれた。

炎は煌々と灰色の空を照らし、勢いを増して燃え盛る。
炎に触れた雪が蒸発し、降り積もった雪が溶け、蒸気が空へと立ち込めた。

アシャラの体は小さな炭の塊となり、黒い煤が吹雪に攫われていく。

人は死して土に還る。
ふいにそんな言葉が脳裏を過ぎり、焔を虚脱感が襲う。

焔はその場に片膝を付き、胸を抑えて咽るように息を吐いた。

「焔!」

呆然とその光景を見ていることしか出来なかった柚は、はっとした面持ちで焔に駆け寄り、眉を顰める。

不利な環境の中で力を使い過ぎた為、焔の消耗が激しい。
焔を支えながら、柚は困り果てた面持ちで周囲を見渡した。

「やり過ぎだ、ばか……」

炎が渦巻き、力なく空へと消える。

残されたのは、一帯の雪が解けて焼け焦げた大地
そして、炭になったアシャラの残骸のみだ。

「アダム、は……?」
「アダムは、分らない。けど、乗り移れるアシャラがもういないから、大丈夫だと思う」

焔は俯くように口を噤む。

どちらともなく、灰と炭が入り混じる残骸の山から目を逸らす。
焔は柚の目を見ることが出来ず、柚からも顔を逸らした。

「俺は平気だ。ウラノス……見てやってくれ」
「あ……うん」

柚は心配そうに、歩き出した焔の背を見る。
体を支えようと触れた手から焔が離れていくと、彼という存在までもが、何処か遠くに離れていく気がした。

(平気なわけ、ないだろ……)

真っ青な顔をして、それを隠すように背を向け……
いつもよりも力のない沈んだ口調で……

(あの時、私は――…)

柚は気を失っているウラノスを抱き上げ、顔を埋めるようにして強く抱き締めた。

力を使うことを躊躇ってしまったのだ。
アダムをウラノスから遠ざけようとしたが、再びアシャラを殺してしまうかもしれないと思うと、何も出来なくなった。

(ごめん、ウラノス……ごめん)

涙が滲む。

泣きたいのはウラノスの方だ。
泣けない、泣くわけにはいかない。

焔はウラノスを抱き締めて蹲っている柚を見やり、顔を背けた。

雪の上に投げ捨てられた刀に手を伸ばす。
その手が小刻みに震えている事に気付き、焔は唇を噛んだ。

(俺は、何も守れてない)

自分の無力さに絶望感を覚えた。

すると、柚が遠慮がちに自分の名を呼んだ。
振り返ると、柚が水の足場から降りてくる。

「ヘリは見当たらないけど、あっちに小さな小屋がある」
「小屋?まさか、神森のアジトじゃないだろーな」
「え?そ、そうなのかな?」

柚が不安そうな面持ちになった。

「……行ってみるか?」

焔の言葉に、柚が俯く。
ウラノスを抱く腕に力が籠もった。

「分らない……どうしていいか」
「……俺だって、わかんねぇよ」

焔はもどかしそうに呟き、前髪を握りこんだ。
何をどうすれば最善なのか、何かを考えようとすると、アシャラの顔が脳裏を過ぎり、思考を掻き乱す。

いつもならば素っ気ない焔の口調など気にも掛けない柚が、よそよそしく俯く。

「だよね、ごめん」
「なっ、なんで謝るんだよ!」

泣き出しそうな面持ちの柚を見て、焔は焦った。

柚は精神的に限界だ。
自分は体力的にも限界だった。

自分の能力にとって不利な環境の中、後先も考えずに力を使い過ぎてしまっている。

「どのみち、このままじゃウラノスが持たない。行くしかねぇだろ」

焔が素っ気なく告げると、柚が無言で頷き返す。
二人は道もない雪の上を歩き、ようやく小屋から漏れる明かりを発見した。

小さな山小屋は、傾斜の途中にある休憩所だ。
周囲に人の足跡はないが、中から灯りが漏れていた。

「気配を消しているだけかもしれないが、使徒らしい気配はないな」
「だったら電気も消してるはずだよな」

焔の言葉に、柚が告げる。

「少し様子を見てくる。ここで待ってろ」

焔は小屋の周囲を一周すると、窓からそっと中を覗きこんだ。

見た限り、武器が転がっているわけでもない。
部屋の奥にひとつドアがあるが、そちらの中は見えない。
見た限り人の姿はないが、暖炉に灯る火が温かそうに揺れていた。

「人の姿はない。けど、確かに誰かいる」

その時、小屋のドアが開け放たれる。
猟銃を構えた男が柚と焔に銃口を向け、驚いたように目を瞬かせた。

「こど、も……?」

息を呑む二人の姿に、男は驚いたように呟き、銃を下ろす。

「なんだってこんな雪山に?獣かと思っただろう。まさか、遭難したのか?」
「え、あ、あの……」
「まさか自殺志願者か?だったら目覚めが悪い、今回は諦めて帰りなさい」

男は素っ気なく告げると、ドアノブを掴み、小屋の中に戻っていこうとする。

柚と焔は顔を見合わせた。
全く使徒の気配がない、人間だ。

ほっと、二人の肩から力が抜け落ちる。

「待って、あの、えーっと……」
「失礼だが、あんたは?なんでこんな雪山に?通常、この時期の登山は禁じられているはずだ」

柚は、呼び止めると同時に目深に被っていたフードを下ろす。
警戒した口調で告げた焔の言葉に、男は肩越しに振り返り、ゆっくりと向き直った。

「失礼と分っているのならば、自分から名乗るべきだと思うがね。まあ、いい。僕はツェーザル・バルドリーニ。ほら、入山許可証だ。小屋の回りをうろうろしていた君達ほど不審人物でもないと思うが、一応政府の許可は得ている」
「国際自然保護連合……?」

バルドリーニは小屋の奥の荷物から許可証を取り出してきて、焔に手渡す。
受け取った焔の隣から覗き込んだ柚は、バルドリーニの顔を見た。

「趣味も兼ねて参加している。今回は休暇を利用して調査目的で登ったものの、突然の吹雪に調査もままならず待機している状況だ。納得頂けたかな?」

柚は焔の顔を見る。
焔は許可証を返しながらも、まだ警戒を解いていない。

「あの、私達は……」
「結構。アース・ピースだろう?彼女の顔に見覚えがある」
「あ、はい……」

淡々とした素っ気ない口調で告げ、バルドリーニは腕を組んだ。

眼鏡を掛けたビジネスマン風で、二十代後半か三十代前半と思しき男だ。
一見冷たい風貌な上、口調が素っ気ないのでとっつきにくさを覚える。

「君達がここにいるということは、ここが戦場にでもなるのかい?やめてくれ、ここは保護地区だぞ」
「いえ、あの!訳あって、山で遭難してしまって……子供の具合が悪いんです。迎えが来るまで休ませて貰えないでしょうか?」
「子供?」

身を乗り出したバルドリーニは、柚が抱えるウラノスにようやく気付き、呆れた面持ちでドアを大きく開く。

「何故もっと早くに言わないんだ。すぐに暖炉の傍に。君達も中に入って」

柚達の状況を理解した途端、男の対応は早かった。

暖炉の火を強くすると、柚達を暖炉の前に座らせ、山小屋の隅に置いてあった荷物から毛布を持ち出してくる。
手際よくウラノスの体を毛布で包んだ。

「あの……」
「今、温かい飲み物を淹れよう」
「有難うございます」

カップを取り出しているバルドリーニを横目に見やり、焔はいぶかしむ様に声を掛けた。

「あんた、俺達がアース・ピースと分かっても驚かなかったな」
「そう見えるかい?僕はこれでも、十分驚いているんだけれどね。まあ、人にはよく分かりにくいと言われるが」

バルドリーニは焔の警戒を気にも掛けない。
本来ならば、失礼だと怒られるか、追い出されているかもしれない。

バルドリーニはケトルに外から持ってきた雪を詰め、ガスコンロに掛ける。

柚は、毛布に包まれて眠っているウラノスを見下ろした。

深く眠っているが、落ち着いた規則正しい呼吸がはっきりと確認できる。
アダムの言う通り、本当の人間になったかのように全く使徒の気配を感じないが、体調は確実に落ち着いていた。

心配そうにウラノスを見ている柚を見やり、バルドリーニは口を開く。

「こちらも、少し質問をしていいかな?」
「あ、はい」

柚は慌てて顔をあげた。

「まあ、巻き込まれた民間人の好奇心だ。別に、無理にとは言わないが」
「出来る範囲でお答えします」

沸騰したケルトが音を立てる。
バルドリーニは焦るでもなくのんびりとした動きでコンロを止めた。

「その子供も使徒か?」
「ええ……まあ、そう、です」

柚はウラノスに視線を落とす。

この子の想いを守ってやることが出来なかった……。

ウラノスを抱き締める柚の手に力が篭り、無意識に唇を噛んでいる柚に、見兼ねた焔が声を掛ける。
柚は、はっとした面持ちで僅かに視線を起こした。

「とりあえず、こいつは生きていける……それでいいだろ、今は」

失ったものがあろうとも、得たものもある。
それは命で、命さえあれば、いずれは失ったものに代わる何かに巡り合えるかもしれない。

「……うん」

そう自分に言い聞かせるように……噛み締めるように、柚は頷く。

だが同時に、自分はアシャラの命を奪った。
彼の未来は閉ざされた――彼の未来を奪ったのは、この手だ。
ほんの少し前までは、無垢な赤ん坊を抱いていたこの手が、あまりにもあっさりと人の命を奪った。

柚がしたことを誰も責めないだろう……だが、命を奪ったという事実に変わりはないのだ。
自分の犯した取り返しのつかない罪が怖い。

バルドリーニは、コーヒーにミルクと砂糖を流し込み、三人の前に置く。
自分の分を作りながら、「いけない」とつぶやきを漏らした。

「すまない、つい自分のものを作る感覚で砂糖を入れてしまった。甘いのは苦手かな?」
「あ、いえ、好きですよ。有難う御座います」

柚が受け取ったカップは、冷えた手には熱過ぎるほどに温かい。
コーヒーを冷ましてウラノスに少し飲ませると、柚はウラノスの口元を渡されたタオルで拭った。

ウラノスに全てを飲ませ終えると、二人は自分達のカップを手に取り、コーヒーに口を付ける。

焔は一口飲み、思わず顔を顰めそうになった。
甘い物が好きな柚も、一瞬なんだこれはと言いたげな面持ちになる。

一体何杯砂糖を入れたのか、コーヒーではなく砂糖を飲んでいるような甘さだ。

世話になっている上で文句は言えない。
半分ほど飲み込み、焔はカップを床に置いた。

柚はなんとかカップを空にすると、「ごちそうさまです」とバルドリーニに声を掛ける。

「バルドリーニさんは、甘党なんですね」
「考えごとをしているとき、糖分は集中力を高める」

そんなことを考えながらコーヒーを飲んでいるのだろうか?と、柚は乾いた笑みを漏らす。
そんな柚に、バルドリーニは静かに笑みを返した。

バルドリーニの鮮麗された眼鏡とすらりとした手足は一見非力そうに見えるが、程よく筋肉が乗っている。
青い空のような瞳が、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

「確か、宮君と西並君だったかな。救助はどれくらいで到着するんだ?」
「位置はすぐに特定出来ると思うけど、はっきりとしたことはなんとも。バルドリーニさんの調査はまだまだ掛かりそうなんですか?」
「さあ、どうだろう。運次第と言ったところか。場合によっては調査も出来ずにこのまま終了もありえる」
「天候次第、ですか?」
「まあ、そういうところさ」

バルドリーニは椅子から立ち上がり、自分の分のカップを手に取る。

「途中までだが調査結果のレポートに纏めていたところなんだ。終えてしまいたので、僕は少し失礼するよ。隣の部屋にいる、何かあったら呼んでくれ。ああ、そこに毛布が残っているから、好きに使ってくれて構わない」
「はい、有難う御座います」

柚はお礼を言うと、ウラノスの寝顔を見下ろす。
焔は刀を抱え込んだまま、バルドリーニが消えた隣室のドアを睨んでいた。





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