30


焔が柚の前に立ち、刀を構える。

「何か作戦は?」
「え?うーん、じゃあ、アダムはアシャラの体を借りている。前にキースの体を使った時は十分と持たなかった。……アダムには敵わないだろうけど、戦いを長引かせればその内アシャラの体が限界になる可能性がある」
「ちっ……人間の体で十分持たないって事は、アシャラの体でどれくらいだよ!」
「知らん!とりあえず、逃げる事を優先しよう」

ウラノスを抱え、柚が水の足場の上を駆け出す。

焔の刀が空気を裂く。
触れた空気が発火し、刀の風圧に押されるようにアダムに襲い掛かった。

攻撃はアダムに触れる寸前、時を止めて動きを失う。

振り返った柚の指が雪に触れた。
その瞬間、地面に吸い込まれるはずだった雪は突如つぶてのようにアダムに襲い掛かりアシャラの体を呑み込んでいく。

「今のうちだ、逃げるぞ」

焔が柚からウラノスを奪い、柚に叫ぶ。
柚は頷き、先頭に立って走り出した。

「ああ、くそっ!雪が鬱陶しい!こっちであってんのか?」
「適当だから分からん」
「ちょっと待て、しゃれになんねぇぞ!このままじゃ、アダムにやれるか凍死するかのどっちかだろ!」

腕で雪を避けながら走る焔が叫ぶ。

「体の中にチップがある。凍死する前に誰か来てくれることを祈るしかないさ」
「ああ、そうだったな」

忌々しいとばかりに、焔は苦く呟いた。

使徒として基地に連れてこられたその日のうちに、知らぬ間に体の中に埋め込まれたマイクロチップのお陰で、アース・ピースの使徒は何処にいてもすぐに発見される。
逃走防止の為の処置だが、今回ばかりはそれに救われそうだ。

情けないが、増援が来るならば早く来て欲しいというのが焔の心情だった。

ただでさえ、雪山というのは炎属性の焔にとって不利な環境だ。
そこに、アダム相手に子供を抱えて戦うなど無謀以外の何者でもない。

すると、走っていた柚が突如動きを止めた。
その背中にぶつかりそうになった焔は、柚の後ろから前を見て息を呑む。

「アダム!」
「いや、さっきのアシャラとは別人だ。アダムが入ってない可能性も……」
「――なさそうだな!」

柚が叫ぶと同時、焔と柚は足場を蹴った。
アシャラの足元から伸びた影が焔と柚のいた場所を貫く。

影が焔の抱くウラノスの足に巻き付いた。
焔の刀が影を引き千切るように切り裂き、焔はウラノスと共に雪の上に転がる。

「焔、ウラノス!」

柚は薄い水の刃を作り、アダムに向けて投げ放った。
刃は回転しながら、降り注ぐ雪を蹴散らしてアダムに襲い掛かる。

その瞬間、アシャラの体がゆっくりと振り返り、アシャラの体を支配しているアダムが笑ったかのように感じた。

アダムを遠ざける為に放った刃を、アシャラが真っ向から体で受け止める。
刃はアシャラの体を切り裂き、血飛沫と共に霧のように霧散した。

「ぇ……?」

柚が目を見開く。

「こうして当てなければ意味がないよ、エヴァ」

アダムがキースの体を乗っ取った時と一緒だ。
アシャラの体だけが傷付き、その体を操るアダムは平然としている。

アシャラの面の下から血が滴り落ち、平然とした口調とは裏腹に、アシャラの体は仰向けに雪の上に倒れ込む。
アシャラの体が痙攣を始めた。

真っ白な雪に赤い血が吸い込まれ、広がっていく。

柚は口元を覆った。
手が震え、足から力が抜けそうになる。

「ぅ、そ……やだ、そんなつもりは――」

震えがまともに言葉すら紡がせてはくれない。
自分がしたことへの恐怖に頭は真っ白に染まり、アシャラの血が瞳に焼きつく。

人を、自分と同じ使徒を、殺してしまった。

殺したかったわけではない。
ただ、ウラノスを守りたかっただけなのだ。

心臓が凍りつきそうだというのに、空回りをするように心臓の鼓動ばかりが増していく。
まるで吸い上げられたかのように、アシャラの心臓は動きを止めた。

足に絡みついていた影がすっと消える。

「柚……」

焔は立ちすくむ柚を見て、小さくその名を口にした。
焔はウラノスを抱えたまま歩きにくい雪を掻き分け、柚の元に駆け寄る。

「落ち着け」
「でも、どうしよう、私人を……」

柚の震える足が力を失くし、雪の上にぺたりと座り込む。
柚は泣き出しそうな面持ちで焔に縋りついた。

「分ってる……落ち着け」

焔は縋り付いてくる体に、手を伸ばす。
柚を抱き締めようとした手を止め、焔は唇を噛んだ。

何をどうすれば、彼女の心を救う事が出来るのか分からない。

柚と同じくらいに、自分も動揺している。
こんな時だからこそ、自分が落ち着かなければならないというのに……。

(こんな時、アイツなら……)
どうする?

自分が、どうあっても勝てない相手の顔を思い浮かべ、焔は柚を抱き締め返そうとしていた手を握り締めて止めた。

(違う、アイツは関係ねぇだろ!)

抱きしめればいいのか?
お前のせいではないと言えばいいのか?

焔は握り締めた手を開き、柚の肩を掴んで引き剥がす。

(俺は俺だ)

怯えた赤い瞳が、震える長い睫毛に隠れてしまいそうだった。
強気な言葉も、ふいに見せる優しい瞳も、先程まで子守唄を歌っていた穏やかな声音も、意思の強い眼差しも……
アダムという闇に囚われてしまいそうな気がした。

「しっかりしろ!今の内にヘリに戻る道か、ウラノスを休ませる場所を捜すんだ」
「……焔」
「あいつ等を、無事に送り届けるんだろ?」

柚の肩が、一瞬ぴくりと反応を返す。
彷徨っていた瞳が、微かに光を取り戻した。

柚が俯き、肩を掴む焔の手に触れる。

引き寄せられるように、柚はゆっくりと焔を見上げた。

真っ直ぐと自分を見る、血の色さえ塗り替えてしまう漆黒の瞳
力強い手が、自分を支えるように肩を掴んでいる。

心臓の鼓動が、焔に合わせる様に落ち着いてきた。
小さく息を吸い込み、吐き出す。

焔の手をそっと押しのけ、柚は唇を引き結び、はっきりと顔をあげた。

「……うん、ごめん」

ショックや罪悪感に駆られている場合ではない。
ここでウラノスを死なせてしまったら、全てが無駄になる。

不安定な感情に強引に蓋をし、柚は気丈に頷き返した。

その時……
不気味な面をつけた黒装束の男が、柚の背後にふわりと舞い降りる。

はっとした焔の足に漆黒の影が巻きつき、柚と焔を引き剥がす。
足を引き摺られた瞬間、焔の手からウラノスが転がり落ちた。

「しまっ……」
「ウラノス!」

駆け寄ろうとした柚の心臓が大きく跳ね上がる。
時間を止められたように体が動かない。

その頬に、ぬるりとした冷たい感触が触れた。

「アシャラを殺したことを気に病むことはないのだよ」

血に塗れた指先が、後ろから柚の頬を撫でる。

「やっ……!」

アシャラの血で塗れた頬が、凍りつくように冷たい。

押し込めた感情が、再び呼び覚まされた。
落ち着きかけた心臓の鼓動が暴れ始める。

柚はアダムが宿るアシャラの手を振り払い、よろめくように振り返った。
そして、戦慄を覚えるアシャラの姿に息を呑む。

ボロ布になった装束を纏い、ヒビの走った面を付けたアシャラの肩からは、不自然に折れた片腕がぶら下がっている。
指先から滴る血が、雪にぽつぽつと模様を描いた。

「ああ、この体かい?これはまだ使えたようだ。エヴァ、君の攻撃はいつも殺気というものに欠ける」
「黙れっ……」

焔はわずらわしい雪に刀を突き立てる。
苦いものが込み上げてきた。

わざと、柚にアシャラを殺させたのだ。
他人の体だから、傷付こうと気にも掛けない。
命の重みなど、アダムにとっては他愛もない。

アシャラの影が伸び、雪の上に倒れているウラノスの体に巻き付いていく。

「ウラノス!」

叫び駆け寄ろうとした柚と焔の体に影が幾重にも巻き付き、地面に押さえつけた。

アダムは足を踏み出し、呼吸の荒いウラノスの目の前に立つ。
ウラノスは脅えたようにアダムを見上げ、首を横に振った。

自らの血に濡れたアシャラの手は、ゆっくりとウラノスの額に伸ばされる。

「止めろ!」
「その子に触るな!」

焔が刀で影を引き千切ろうとしながら叫ぶ。

「アシャラの代わりなどいくらでも作れる」

ウラノスの体が大きく痙攣し、ウラノスが体を抱え込むようにして悲鳴をあげた。

アダムが触れたウラノスの体から力が煙のように吸い上げられていく。
吸い上げられた力は、掌の上でガラス玉のような球体へと形を成した。

「ウラノス!?」
「くそ!!」

焔は影を焼き千切り、刀を振りかぶる。
刀は焔の手を離れ、肉を裂く音と共にアシャラの胸を貫いた。

アシャラの体が僅かに傾き、鋼色の刃が赤に染まる。
アダムは血が滴る胸元に視線を落とし、小さく溜め息を漏らした。

「また君か、西並 焔」

アシャラの体が焔の目の前に舞い降りる。

アスラが持つものとは違った威圧感が体を竦ませた。
他者を圧倒するアスラとは違う、アダムは纏う空気自体が、まるで逆らう事すら愚かに思わせる。

アダムは焔の目の前で、アシャラの体に突き刺さった刀を抜き、雪の上に投げ捨てた。
重い音を立て、刀は雪の上に沈む。

抜いた瞬間にアシャラの体から噴出した血は焔の頬を染め、凍えた肌には熱く感じるほど、生命を感じた。
アシャラの面の隙間から、口元から……溢れた唾液交じりの血が流れ落ちる。

背筋に冷たい汗が伝い落ちた。

不気味な面が、触れそうな距離で顔を覗き込んでくる。
おかしな方向に曲がった赤い指が、焔の額に触れた。

焔は息を呑み、目を見開く。

「そういえば、君からも奪い損ねていた。君もただの人間になってみるかい?」
「焔!」

柚が叫び、大気中の水がざわめく。
風に煽られながら、焔は不気味な面の間からこちらを見る双眸をまじまじと見た。

人間に?
そうすれば、妹のもとに戻れるのか?

だが、この力がなくなったからといって、両親が生き返るわけではない。
妹に火傷を負わせた罪が消えることもない。

何より――…

「やめろォー!?」

焔は喉を震わせて叫んだ。





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