29
嘘のように吹雪が止んでいる。
晴れた視界の先には、ウラノスどころか柚と焔の姿すら消えていた。
「そんな!だって今出てったんだよ!」
アンジェがハッチから身を乗り出す。
その勢いで落ちそうになったアンジェを、ヨハネスが慌てて支えた。
「ああ、玉裁……早く来てください」
青褪めたヨハネスは、祈るように呟く。
ジャンは複雑そうに、銀景色を見詰めた。
焔が走るウラノスを後ろから抱き上げ、焔に追い付いた柚は安堵の溜め息を漏らした。
「はぁ、ちょうど吹雪が止んでくれて助かった」
「すぐに戻る……ぞ?」
振り返った焔は周囲を見渡し、ぽかんとした面持ちで言葉を失くす。
軍用機の姿が陰も形もない、どちらを向いても一面の雪だ。
目印となるものもなく、どちらから歩いて来たのかすら見失っていた。
それはゾッとするほどの恐怖だ。
「まずい……」
嫌な汗が滲む。
それを振り払うように、柚は首を横に振ってウラノスの手を掴んだ。
「また風が吹き出したら、完全に戻れなくなる」
「駄目、ルナを置いていけないよ」
「けど……」
さわさわとパウダースノーが煽られ、再び強い吹雪が吹き付ける。
その吹雪の間に犬の影を見付けると、腕で顔を覆った柚の手を振り払い、ウラノスが走り出した。
「ウラノス!駄目だ、止まれ!」
焔が「お前は動くな」と言い残し、再びウラノスを追って走り出す。
(ああ、もうっ!ごめん、玉裁!後で気が済むまで怒られるから!)
玉裁に散々念を押されたのだ。
柚は心の中で謝罪をすると、ウラノスを追って走り出した。
正面から吹き付ける吹雪が、足取りを鈍らせた。
焔は雪の上に蹲るウラノスを見付けて駆け寄る。
ウラノスの顔が青く、呼吸が不規則だ。
「ウラノス!」
「発作か?」
眉を顰め、柚は焔が抱きしめるウラノスを覗き込む。
すぐさま来た道を引き返そうと振り返った柚と焔の前に、道を遮るように二体の人影が姿を現した。
黒装束と面を纏った人影は神森だ。
数字持ちと呼ばれる精鋭とは別の、アシャラと呼ばれる神森使徒の兵士の総称だ。
「おいおい、タイミング悪過ぎだろ」
焔は嫌な汗を滲ませながら、ウラノスを柚に渡し、腰を落として刀に手を掛ける。
柚はウラノスを抱きしめながら、アシャラを睨み付けた。
すると、アシャラの一人が動揺したかのように「エヴァ!」と声をあげる。
途端にその動きが止まり、まるで自身の言葉を問い返すように同じ単語を呟した。
「エヴァ?おや、本当に……」
アシャラが構えを解き、ゆったりとした口調で呟きを漏らす。
途端に、アシャラの纏う雰囲気が一変した。
柚は焔と共に目を見開き、息を呑む。
目に見える変化こそないが、アシャラの中から圧倒的な何かが沸き起こり、アシャラを包み呑み込んでいく。
男はアシャラの面に手で触れゆっくりと瞼を起した。
「久しぶりだね、エヴァ」
「……アダム」
反射的に、柚の唇から呟きが漏れる。
アダムの持つ独特の雰囲気が仕草によって伝わってきた。
不気味なアシャラの面が笑ったような錯覚まで覚える。
「私の事を覚えていてくれたのかい?嬉しいよ。君は控えていなさい」
「はっ」
もう一人のアシャラが姿を消した。
アダムはゆっくりと、柚に視線を向ける。
「さて、エヴァ……君が抱きしめているその子供を渡してはくれまいか?」
「こ、断る!」
柚はアダムから隠すようにウラノスを抱きしめ、声を荒げた。
ウラノスが脅えたように柚に抱き付く。
体に震えが走る。
それはきっと、寒さからではない。
絶句していた焔が、ぎりりと奥歯を噛み締めて刀を握り直した。
だが次の瞬間、焔の手が止まる。
「私ならば、その子供達を救う事が出来る……と言ったら?」
「!?」
柚と焔は目を見開き、息を呑んだ。
「誰が信じるか!」
一瞬、その言葉に惑わされそうになった自分を振り払うように、焔が苦々しく吐き捨てる。
柚は子供達を抱き締める腕に力を込めた。
「西並 焔、それは愚かな選択だろう。彼等は何の障害を抱えることなく、生きることが出来る。何も人間のエゴで幼くして殺される事はない」
衣擦れの音さえ立てはしない。
しなやかな動きで、アダムが座り込む柚の前に舞い降りた。
焔が目を見開き、顔色を変えて振り返る。
「救いたくはないかい?」
アダムの手が伸び、柚の顎を撫でた。
柚は瞬きどころか呼吸も忘れ、体を強張らせたままアダムを見上げる。
緊張のあまり、手に汗が滲む。
この鼓動が、彼に聞こえていないことを祈るばかりだ。
「私は、救いたいよ……」
表情ひとつ変えはしない面が、触れそうな距離で悲しそうに柚の顔を覗き込んだ。
そっと指が離れ、アダムは柚の目の前からふわりと空に舞い上がる。
刀を振り下ろした焔が舌打ちを漏らし、炎を纏った刀を薙ぎ払う。
空気を切る音が響く中、アダムは焔の攻撃を木の葉のようにかわし、再び音もなく雪の上に舞い降りた。
「ほ、焔!」
柚は咄嗟に焔の腕を掴んだ。
焔が肩越しに振り返る。
柚の顔には、ありありと迷いが滲み出ていた。
「……本当に、ウラノスを治せるのか?」
柚は、自分で呟いた言葉にすら迷いを抱いている。
アダムの言葉が事実だったとしたら……
焔は唇を噛み締めた。
"さっき、おじさん達が話してたんだ。あの子は駄目だろうって……"
生きて戻っても、この先ウラノスに待つのは死かもしれない。
ウラノスに生きる道があるのならば……
自分自信、心が揺れている。
アダムが絶対に信用ならない相手と分かっていてもだ。
ここで柚がアダムの申し出を受けるなどと言い出したら、考えが揺れる自身が、柚を止められはしない。
焔はぐっと奥歯を噛み締めた。
「あんな奴の言葉、まともに聞くな!」
焔は柚の手を振り払い、アダムに切り掛かる。
アダムは焔の肩に軽く触れて宙に舞うと、再び柚の背後に音もなく舞い降りる。
振り返ろうとした柚の背後から顔を寄せ、アダムは耳元でそっと囁いた。
「その子供達の体の半分は、人間だ」
「てめぇ!」
背後に立つアダムに、柚は目を見開いたまま体を硬直させる。
「人間という器に、使徒の力はただの毒。だから彼等は虚弱体質と言われ、長く生きながらえる事が出来ないでいる」
柚の心臓が大きく脈打つ。
「その力を取り出してやれば――彼等は人間として生きていける」
ごくりと、固唾を呑んだ。
声を発する事すら憚られる。
この言葉を口にすれば……アダムの思う壺だ。
分かってはいるが、震える唇が小さく開いた。
「……出来るの、か?」
「私ならば」
アダムは優雅な仕草で胸元に手を当て、はっきりと頷き返す。
「柚!」
「……」
焔が咎めるように柚の名を叫んだ。
刀の刃がアシャラの服を掠め、ダウンジャケットから羽毛が散る。
柚ははっとした面持ちで唇を噛んだ。
「その子供は使徒とは言い難く、人間に近い存在。力を取り出し、人間にしてあげることこそが、彼が未来を得る為に必要なことだ」
「何故……何の為に、"お前"がそれをする?」
アダムを睨み付けるように、柚はアシャラの面を睨み付けた。
歌うように語っていたアダムが、僅かの間口を閉ざす。
彼が、仮面の下で笑っているような気がした。
「その子供を、哀れに思うからだよ」
「この子の何を知っているっていうんだ」
「何も知りはしない。だが、私は同胞を愛しているからね……少しでも使徒の血を持つ彼を救いたい、それでは理由にならないだろうか?」
言葉を発する声音は何処までも穏やかだ。
だが、その言葉を裏付ける根拠が見付けられない。
迷う柚の名を、焔が「聞くな」と言わんばかりに呼ぶ。
すると、ウラノスが柚の腕にしがみ付いて首を横に振った。
「いやだよ。僕ちゃんとママとパパに褒められるくらい強くなるよ!」
「ウラノス……」
「僕、痛いもの苦しいのも我慢する――だから人間になんてなりたくない!」
柚はウラノスを強く抱き締め、アダムを見上げる。
まるで愚かだというかのように、アダムは呆れ混じりの溜め息を漏らす。
「そういうことだ、この子は渡さない」
「残念だ」
アダムが動く。
ウラノスを抱きしめたまま、柚の掌が雪を叩き付けた。
粉雪が煙のように舞い上がり、アダムに向けて走り出す。
雪が沸き起こり、鋭利な水の刃がアダムを足元から突き上げた。
その風圧に投げ出されるように、アダムの体がふわりと舞い上がり、足音もなく着地をする。
着地をしたアダムの足元から刃が襲い、降り注ぐ雪が水の刃となって槍のように降り注ぐ。
地面を蹴った焔が、頭上に掲げた抜き身の刀から、炎を放つ。
アダムは背後から迫る焔の炎を一瞥し、槍が降り注ぐ空を見上げ、口元に優美な笑みを浮かべると、静かに瞼を閉ざした。
炎と水の刃がまるで凍りついたように動きを止め、降り続けていた雪までもが宙に浮いたまま動きを止める。
「っ……」
柚が唇を噛み、ゆっくりと向かってくるアダムを睨み付けた。
―NEXT―