26
マルタは、カルヴァンに渡された指令書に一通り目を通し、机を叩いて立ち上がった。
「フョードル・ベールイの能力データを隠蔽公表する!一体何故!」
マルタはこぼれんばかり目を見開き、声を荒げる。
カルヴァンは冷静にマルタを見下し、腰の後ろで腕を組んだ。
「すでに政府が決定したことだ。反論は許されない。君はただちにここの職員全員に箝口令をしくように」
「せめて理由を教えてください!納得できません」
「理由?」と、カルヴァンはマルタに振り返った。
「以前、君の論文は読ませてもらったよ。これからの使徒の社会の中心は女性、という内容だったかな?ジョークとしては最高だったよ」
マルタが目を見開き、奥歯を噛み締めてカルヴァンを睨み付ける。
動じることなく、カルヴァンは馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばした。
「君は実に想像力が豊かなようだが、こんな簡単なことも分らんのかね?力を持ち過ぎれば、我々が他国の脅威となり、攻撃を受ける可能性もある。実に単純明快な理由だが、納得頂けたかな?」
「そんなことは――」
「ただでさえ、我が国には上級クラスの女性使徒がいる。オーストラリアとて、何等かの恩賞を期待して同盟の話を持ち掛けてきているんだ。現時点でユーラシア連盟とアメリカ大陸合衆国は女の使徒を所持しているが、どれも能力クラスが低い。宮 柚欲しさに、何処がいつ武力行使に出てくるともしれん」
厳格な瞳が眇められ、再びマルタへと背を向ける。
「我々にとって一番の脅威は、ユーラシアとアメリカが同盟を結ぶことだ」
「我々がオーストラリアとアフリカ共和国と同盟を結べばいいだけのことです!それに、ユーラシアとアメリカは使徒の人数こそ多いですが、能力クラスでは決して負けていません」
「いくら上級クラスが六名いようと、半数はまだ戦場で使える立場にない。オーストラリアとて油断のならない相手だ。アフリカなど、戦力にもならん」
マルタの言葉を、カルヴァンはあっさりと否定した。
カルヴァンは爪先を返し、マルタへと向き合う。
「今は戦争の時ではないというのが政府の判断だ」
マルタは唇を噛んだ。
掌に、整えられた爪が食い込む。
「どうせならば、見縊られているほうが都合がいい」
「しかし隠避がばれれば、戦争に繋がる可能性もあります!」
「隠蔽ではない、情報操作だ。何処の国もやっていることさ」
日差しが差し込む窓の前で、カルヴァンは口角を吊り上げ、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「フョードル、ほら見て、赤ちゃん」
柚は、保育器の中の赤ん坊を見せて笑みを浮かべる。
無理やり引き摺られて来た焔は、保育器から離れた椅子に座り、欠伸を漏らした。
フョードルは保育器を覗き込み、柚の顔を見る。
「まさか、柚殿の……」
「なわけないだろ」
柚が顔を引き攣らせて返す。
玉裁との一件で、いつの間にか仲直りをしたニエとウラノスが、椅子の上から仲良く保育器を覗き込んでいた。
機嫌のいいウラノスが、得意気にフョードルへと声を掛ける。
「今ね、僕達がこの子の名前考えてるんだよ」
「一番いい名前にするんだよね」
ニエとウラノスはにこにこと笑みを浮かべて顔を見合わせた。
「フョードルは、何かいい名前の案ない?」
「私、ですか……?」
柚の問いかけに、フョードルは目を瞬かせる。
そして、柚の顔を見た。
「そうですね、では"パーベル"なんてどうでしょう」
「パーベル?どういう意味?」
ニエがフョードルに身を乗り出す。
保育器にニエとウラノスの顔が映し出された。
フョードルは苦笑を浮べ、保育器に触れる。
「ラテン語で"小さい"です」
「確かに"小さい"ね」
「赤ちゃんだもん」
「他には、イワンなんてどうでしょう?この地方で最も知れ渡った名前ですが、意味は"神は恵み深き"なんですよ」
柚が感心したように頷く。
すると、フョードルは名案とばかりに声を明るくする。
「ああ、でもウラジーミルもいいですね。意味は"世界の支配者"みたいなです!」
「ちょっと……物騒だな」
「そうですか?じゃあ、アレクサンドロスはどうでしょう。"人々の守護者"って意味です」
「格好いい!でも、こんな小さい子になんだか重いものを背負わせちゃう感じだな」
「えーじゃあ、あ、そうだ。エフゲーニはどうでしょう。"よい生まれ"という意味なんですよ。ですが、亡くなった村の友人の名なので、縁起が悪いでしょうか……」
フョードルが俯き、柚がおろおろとした。
焔が、「またかよ」と心の中で吐き捨てる。
そんな三人を他所に、ウラノスが一生懸命、「エフゲーニ」と発音しようとしていた。
舌足らずな口調で告げるウラノスに、柚がくすくすと笑みを漏らす。
「エフゲーニの意味はいいけど、ウラノスが舌噛んじゃいそうだな。ニエは何がいい?」
「僕?僕は……一番最初の名前がいいな」
「一番最初っていうと、えーっと……」
「パーベルですね」
フョードルがにこりと微笑んだ。
ウラノスが嬉しそうに笑みを浮かべて頷く。
「それなら、ウラノスも覚えやすいでしょう?」と得意気に笑うニエの頭を、柚が撫でた。
「じゃあ、パーベルにしようか」
「うん!」
柚の言葉に、目を輝かせたニエとウラノスが大きく頷く。
二人は保育器の中の赤ん坊に向け、「今日からお前はパーベルだよ」と声を掛けている。
柚はフョードルの隣に立つと、小さく笑みを浮かべた。
「ありがとな」
「いえ、お役に立てて幸いです」
「フョードルは?」
「はい?」
顔を覗き込むように訊ねる柚に、フョードルは首を傾げる。
「フョードルの名前は、どういう意味なんだ?」
「私、ですか?私は……なんだか照れてしまいますが、"神の贈り物"という意味なんです」
「へぇ、凄い!いい名前だな」
「そ、そうでしょうか」
微笑みを浮かべる柚に、フョードルは照れたように頬を染めた。
柚と目を合わせないまま、フョードルは「柚殿は、どういう意味なのでしょう?」と訊ね返してくる。
柚は苦笑を浮べ、「うーん」と呟きを漏らした。
「別に、そういう深い意味はないんだ。これが適当っていうか、私のママらしいっていうかねぇ。妊娠中に散歩してたら、近所の庭にゆずの木があって実がなってたんだって。そうしたらママ、お腹いっぱいだったのにすごーくゆずが食べたくなったんだってさ。だから柚。きっと、お腹の中にいた私が、食べたかったんだろうって――とんだ濡れ衣だよな」
「その頃から食い意地張ってたのかよ」
焔が、鼻で笑い飛ばす。
柚がむっと眉間に皺を刻んだ。
「そういう焔君は?どういう意味なのかな?」
「俺は、別に……深い意味ねぇよ」
「あ、その顔は嘘だ。教えろ」
「お前、絶対笑うから嫌だ」
「笑わない、約束するから教えろ」
「もう笑ってんだろーが!」
焔の首に腕を回して迫る柚に、焔が抗議の声をあげる。
二人のやり取りを見て、フョードルは目を瞬かせた。
「お二人は……」
フョードルの言葉に、柚と焔が口を閉ざし、フョードルの顔を見る。
「仲が宜しいのですね」
「ばっ、何処がだよ!俺は虐められてんだぞ!」
「お、お気に触られたのであれば申し訳ありません。ただ、そう感じたもので、つい。そ、そういえば!」
慌てたように、フョードルが話しを切り替えた。
フョードルの顔が逸れた途端、柚は焔の足を力いっぱい踏みつける。
焔は無言で悲鳴を上げた。
「あれ、焔殿、如何致しましたか?」
「な、なんでもねぇ……」
「そうですか?それで、そろそろ旧正月の季節じゃないですか」
「あ、そういえば……今年は一月だったっけ?」
柚はカレンダーに顔を向け、思い出したように呟く。
アジア帝國には、世界統一の際に一度は絶えたが、再び浸透している風習がある。
それは旧正月だ。
旧暦の元日に当たる日を春節と呼び、数日間祝う行事だ。
すっかり忘れていた柚と焔に、フョードルは笑顔を向けた。
「私は毎年、議事堂前広場で行われる春節の"奉納の舞"のテレビ中継が華やかで楽しみだったんです」
「奉納の舞?」
言われて始めて思い出すが、確かに毎年"奉納の舞"がテレビで中継されていたことを思い出す。
奉納の舞とは、神に捧げる祈願の舞だ。
「あ、そういえば……あれって」
「毎年使徒が、やってたような……」
柚が思い出したように呟き、焔が顔を引き攣らせる。
昨年の実りに感謝し、同時に今年の実りと平穏を願う。
神に捧げる奉納の舞を、政府が使徒に任せないわけがない。
一種のパフォーマンスではあるものの、ここ数十年続けられてきた風習はすっかり定着している。
「毎年、新しく入られた使徒の方が担当なさっていたので、今年は柚殿と焔殿ですよね?とても楽しみにしていたんです!」
「そんな話し聞いてない!」
「冗談だろ、そんなもん俺は絶対にやんねぇぞ!」
「え!お二人じゃないんですか?」
フョードルが目に見えてショックを受けた。
すると、アンジェとライラが顔を出す。
フョードルの姿を見つけると、アンジェがフョードルに駆け寄る。
「フョードルお兄ちゃん、ガルーダお兄ちゃんがそろそろ準備して、エントランス前に来るようにだって」
「あ、はい、了解です」
フョードルが緊張した面持ちになった。
「じゃあ、送るよ」
柚が部屋のドアを開ける。
フョードルが用意されたコートを着込んでエントランスに出ると、すでに車が用意されていた。
車のまえでは、ガルーダが一般兵部隊の隊士と玉裁、ヨハネスを交え、話し込んでいる。
「カルヴァン佐官は?」
「先に戻ったって」
「用ってなんだったんだろうな」
「アイツ、嫌い」
柚の問い掛けにアンジェが返す。
考え込む柚に、ライラが不機嫌に呟いた。
「そういうこと言っちゃ駄目だよ?」
そんなライラをアンジェが咎めると、ライラはアンジェを睨み返し、「いいんだよ」とそっぽを向く。
ガルーダはフョードルの到着に気付くと、歩み寄ってきた。
「外は寒いから防寒対策よーくな。あ、フョードルには言うまでもないか」
「はい、寒さには慣れていますから」
「頼もしいじゃん。俺は、暑いほうが好きだけど」
玉裁が、ガルーダと話すフョードルを睨み下ろす。
そんな玉裁の隣から顔を出し、柚がぼそりと囁く。
「お顔がいつも以上に恐いですよー」
「うるせぇ」
玉裁の腕が、がしりと柚の首に回った。
柚は気にせず、玉裁の顔を見上げる。
「今朝の事、まだ根に持ってるのか?」
「あァ?」
「"玉裁"はもっとドライだろ」
「……」
玉裁の手が、ぱっと柚から離れた。
柚は転びそうになりながら、玉裁にしがみ付く。
玉裁から離れた柚は、呆れたように溜め息を漏らして腰に手を当てた。
「なんだよ、昨日かららしくないぞ」
「お前ホント……」
「は?」
柚が目を瞬かせる。
「ブス」
「!?」
玉裁がにっと口角を吊り上げた。
真面目に玉裁の言葉を聞いていた柚は、むっと顔を引き攣らせる。
すると、フョードルは拳を握り締めて身を乗り出した。
「何を仰いますか、柚殿はお美しいです!その内面の美しさまで滲み出る微笑みはまさに女神の如き慈悲と神々しさに溢れ、誰をも魅了し、皆に癒しを与え――」
「あー、はい、有難う。それくらいにして」
力説するフョードルに、赤くなった柚が顔を逸らす。
焔が肩を揺らしながら笑い声を堪え、玉裁が鳥肌のたった腕を擦っている。
渇いた笑みを漏らしていたヨハネスは、ガルーダに向って来た一般兵へと視線を向けた。
「ガルーダ尉官、準備完了いたしました」
「りょうかーい。じゃあフョードル、乗ってて」
「あ、はい」
フョードルが車に乗り込むと、ガルーダは腕を組み、見送りの柚達の顔を見渡す。
「今日、フョードルの能力階級が中級クラス第四階級ドミニオンズへと訂正された」
「え?」
柚が眉を顰めて問い返した。
ガルーダは、さらに淡々とした口調で付け加える。
「さらに、支部研究所の職員には箝口令がしかれた」
「それって、そういう意味?」
柚が、ガルーダを責めるように見上げた。
「そう。それが政府の決定。だから皆もそのように」
「どうして?そんなことしたら、国民や他国に嘘を付くことになるじゃないか」
「今は、それが"最善"だからだ」
納得がいかないと言いたげな面持ちで、ガルーダが言い放つ。
柚はやはり納得がいかないまま、口を噤んだ。
すると、遅れてジャンが到着する。
「間に合って良かった。また暫らく会えなくなるね」
「今度はジャンが会いにくればいいさ」
「そうだね、いつか……」
その気がない様子で、ジャンは苦笑を浮かべて返す。
その視線がゆっくりと、車の中で待機しているフョードルを一瞥した。
「すぐに出発かい?」
「ああ、出来ればアスラ達が到着してから発ちたかったんだけど……」
「そうか、道中気をつけて」
「そっちも、頼んだ」
二人は軽く抱擁を交わし、離れる。
仲間達に見送られ、ガルーダとフョードルが支部を発った。
その夜、一帯の天候が激しく荒れ始めるのだった。
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