25


「皆、あんな難しいこと考えて人を好きになるのか?」
「んなわけねぇだろ」
「だよな……好きって、そんなんじゃないよな」

柚は小さな呟く。

柚が誰を思い、そう呟いたのか……
知りたくもなく、現実から目を逸らすように、焔は柚から顔を逸らした。

すると、マルタの執務室からヨハネスに声が聞こえて来る。
二人はそそくさと、廊下に置かれた観葉植物の陰にさっと姿を隠す。

「どういうつもりですか、フョードル君を洗脳するような真似をして」
「洗脳なんて人聞きが悪いわ。私は本当の事を教えてあげただけ」

マルタは悪びれた様子もなく、抗議するヨハネスを一瞥した。

「だって事実そうじゃない。これからは女が中心の社会よ、それを認めないのが男達でしょ?だから誰もが、思っても本当の事を言わない。あなたもその一人?あなたも、女に従うのが嫌?」
「そういう問題ではありません!フョードル君はまだ精神が不安定な状態にあるんです、そこに付け入るようにあなたの考えを植え付ける行為が許せないんです。大体、柚君の相手は、柚君が決める問題です!」
「何を悠長なことを。それに言い掛かりだわ。私はね、今の使徒の扱いを間違っているとすら思っているのよ?」

マルタは艶めいた仕草でヨハネスに身を寄せる。
老いても美しい女の指が、そっとヨハネスの体を這う。

ぎょっとした面持ちで、ヨハネスはマルタから身を引いた。
そんなヨハネスの反応を楽しむように、マルタはくすくすと笑みを浮かべながら口を開く。

「戦争の兵器にするなんて勿体無い。私達人類の時代は終わったの、これからは使徒の時代。それを認めようとしない人類は愚かよ。とはいえ、まだ使徒の人口が少ないんだから仕方がないのでしょうけど。ある意味、神森の考えには賛成だわ」

「ただし」と、赤い唇が弧を描いた。

「神森はアダムがトップ。実際に話をしたことがないからはっきりとしたことは言えないけど、アダムは柚を得たって主権を柚に譲るとは到底思えない。それじゃあ、世界は何も変わらない、これからは女が上に立たなければならないのよ」

聞こえてきたマルタの声に、柚は眉間に皺を刻んだ。
「結局そこかよ」と、焔が小さな溜め息を漏らす。

「あなたも知ってるでしょう?蜂や蟻の習性」
「は?」
「あら、知らないの?産卵の季節になると雄蜂は女王蜂を追い掛ける。一番最初に追いついた雄蜂が雌と交配を許され、交配を終えた雄蜂は死ぬ。女王蜂はそれを何度も繰り返してから巣に戻って卵を産む。そして女王蜂を中心に新たなコロニーが形成されるのよ。これからは女の時代、女王に選ばれなかった男に価値はないのよ」
「使徒は人間と変わりません!」

ヨハネスが声を荒げると、マルタは高らかに笑い声をあげた。

「そうね。でも中級クラス・第五階級ヴァーチュズのヨハネス・マテジウス、あなたが言うと負け惜しみに聞けるわ?まあ残念なことに、一回の性交で確実に妊娠するとは限らないし、一度に何十人も生めはしないのよね」
「使徒は増加傾向にありますが、人類を凌駕するには程遠い。ましてや女性の出生率がこれだけ低いのでは、人類の協力なくして使徒の存続は非常に難しい。使徒は人類を担うには繁殖能力に欠陥が多過ぎる。いずれは滅ぶ種なんですよ」
「そんなことないわ!あくまでもあたし達が確認できていないだけで、使徒と知っていながら名乗り出なかった者や、自分が使徒と知らずに死んでしまった者だって沢山いるはずよ。もちろんその中に女の使徒だって居たはずだわ。柚がいい例じゃない、あの子は自分が女だから、使徒のはずがないと思っていたんでしょう?これからも使徒は増え続ける、それに伴って女の出生率も増えてくるのよ!」

柚は、焔のそでを引く。
焔は柚に振り返り、柚に連れられてその場を離れた。

焔のそでを引きながら歩く柚は、振り返らないまま、考え込むように呟く。

「使徒について、いろいろな考えがいるんだな……」
「これだけ人がいればな」
「ヨハネス先生の言うとおりなら、私達が使徒として生まれたことは運が悪かったとしか言いようがない」

柚は苦笑を浮かべる。

「何の為に生まれて、何の為に此処にいるんだか……」

焔から手を離し、背中で腕を組む柚は、苦笑交じりに告げた。

人でない以上、同じ使徒である仲間と寄り添っていることに安心感はある。
仲間を想う気持ちは、家族に向けるものに非常に近い。

だがそんな想いも、やはり血の繋がりには抗えないのだ。

「考えても仕方ない」

焔はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりとした歩調に合わせるように静かに呟いた。

「……うん、そうだな」

柚も小さく頷き返す。
寂しげな瞳が、遠慮がちに焔を見た。

「私、使徒の未来がマルタ支部長の言うようになったら嫌だな」
「なんでだよ、お前にとってはいいことなんじゃねぇの?」
「嫌だよ。私はあくまでも肩を並べていたいだけで、誰かの下にも上にもなりたくない。もちろん、人ともだけど……」

焔は小さく苦笑を浮かべる。

「お前がそう思ってるなら、そうならないだろ」

焔の言葉に、柚はゆっくりと顔を上げた。

自分を追い越して歩き出した焔の横顔を見上げると、柚は顔を緩め、笑みを漏らす。
そのまま、柚は焔の背中に抱き付いた。

「な、なんだよ!いきなり」
「えへへ、おんぶー」
「自分で歩け!」
「よーし、じゃあ俺がしてやるよ!」
「え゛?」

背後から聞こえた声に、柚と焔は顔を引き攣らせて振り返る。

熊の様に両手を広げたガルーダが、恐ろしいほどに無邪気な笑みを浮かべていた。
ガルーダは目にも止まらぬ速さで軽々と柚と焔を小脇に抱え上げ、全速力で廊下を駆け出す。

柚の悲鳴と焔の怒声が、静かな廊下に響き渡った。

ガルーダは施設内を一周して満足すると、柚と焔を訓練室の床に降ろす。

「は、吐く」
「て、てめぇ……覚えてろよ」

柚と焔はぐったりと床に倒れ込んだ。
走り回っていた当の本人は、けろりとした面持ちで腕を組み、二人を見下ろした。

「柚と焔が遅いから迎えに行ったんだろ。それまで三人に相手してもらってたんだけどさ、相手になんなくてさ」

ガルーダのけたけたと笑う声に顔をあげた柚は、床に倒れこんでいるアンジェとライラの姿に頭を抱えて悲鳴をあげる。
焔は、さらに奥で完全に目を回しているフョードルの姿に顔を引き攣らせた。

「お、おい、怪我人にまで何やったんだよ」
「どうしても参加したいって言うから、訓練の手伝い。フョードルはもっと骨鍛えたほうがいいぞ?」

晴れやかに笑顔を浮かべるガルーダの後ろで、訓練室を訪れたヨハネスが青褪めてよろめく。

「フ、フョ、フョフョ、フョードル君にまで、なんてことしてくれてるんですかー!!」
「あ゛ぁ!?先生が倒れた!」
「医者よべ、医者ー!誰かー!」

気絶したヨハネスに駆け寄り、柚がおろおろと悲鳴を上げた。
人を呼びながら、焔は心の底から「帰りたい」と思うのだった。

それから二時間後……

柚と焔は疲れ切った面持ちでふらふらとソファーに座り込み、盛大な溜め息を漏らした。

部屋の奥では、ガルーダがヨハネスに説教を受けている真っ最中だ。
時計を見ると、すでに一時間以上が経過している。

ちらりと横目で盗み見ると、心なしかガルーダが寝ている気がしなくもない。

すると、焔が柚を肘で小突く。

ベッドの上で、フョードルが小さな唸り声をあげて瞼を起した。
黒に近い紫の瞳が数回、瞬きに隠れ、ゆっくりと周囲を見渡す。

「大丈夫か?」
「あ、はい……えっと、ここは?」
「医務室だ。お前、ガルーダの奴に派手にやられたんだぜ」

焔がぶっきら棒に返すと、フョードルは思い出したように掌で顔を覆った。
柚が、慌てて焔の隣からフョードルを覗き込む。

「あー、えーっと、ガルーダ尉官に悪気はないんだ!本人はかるーくやってるつもりなんだよ。だから、その、えー……思いっきり怒っていいと思います」

身振り手振り付きで、必死にガルーダをフォローしようとした柚が諦めたように項垂れた。
反省するとは到底思えないが、ガルーダは一度、とことん怒られればいい。

「いえ、とんでもありませんよ。私が無理を言って未熟な私の相手をお願いしたんです。それに、ガルーダ尉官殿はちゃんと手加減してくださいました。それにお応え出来なかった私が不甲斐無いのです」
「……うん、懐かしいな。私の時も手加減してくれた」

柚は懐かしそうに目を細め、ベッドの上に座り込み、落ち込んでいるフョードルの頬に触れた。
フョードルの肩がびくりと跳ね上がる。

おずおずとあげられた視線と目が合うと、柚は穏やかに微笑みを浮かべた。

「無理するな」
「無理など、私は……」
「昨日の今日で、平気なわけないだろう。無理に笑ったり、無茶したりしないで、落ち込んでいいんだ……」

フョードルは唇を噛み、顔を背ける。

「そうはいきません。私は今までの使徒としての遅れを取り戻すべく、努力しなければならないのです。セラフィムという階級に相応しい立派な使徒となり、アンドレィ伯父さん達の仇を討つ。それがせめてもの弔いなんです」
「よく言った」

厳格な男の声と共に、部屋に拍手が響き渡った。

柚と焔は振り返り、声のした方へと振り返る。
そこには、アース・ピースの佐官であるスミス・カルヴァンが立っていた。

「カルヴァン佐官?」

柚の呟きに柚が眉を顰める。

「カルヴァン佐官、殿、でありますか?」

フョードルが、きょとんとした面持ちでベッドから立ち上がろうとする。

スミス・カルヴァンは人間で、アース・ピースの一般兵部隊の統括者だ。
とはいえ、政府が内部から使徒を監視するように仕向けた監察官のような存在だ。

カルヴァンはフョードルの動きを手で制した。

「そのままで結構だ。フョードル・ベールイ。宮 柚と西並 焔の両二名もご苦労」

カルヴァンは、奥にいるガルーダ達には気付かずに告げる。

何かをされたわけではないのだが、柚はどうにもカルヴァンの纏う雰囲気が苦手だ。
警戒心を隠しながらカルヴァンに問い掛けた。

「どうして此処に?」
「少々、マクレイン支部長に用があってね。その前に少し、彼の様子を見に来ただけだ」

萎縮したようにベッドに座っているフョードルに、カルヴァンは一瞥を投げる。

柚はその視線を追うようにして、困ったようにフョードルを見た。
彼はまだ、疑心に疎い――これ以上、変な考えを擦り込ませられたくない。

「君は大変見込みがあるね」
「あ、有難う御座います!」

カルヴァンはフョードルの肩に軽く触れ、身を屈める。
その耳元で何かを囁くと、フョードルがゆっくりと目を見開いた。

腕と足を組んだガルーダが、その様子に一瞥を投げる。
ヨハネスが眉を顰めたまま、カルヴァンを何か物言いたげに見詰めていた。

「あ、あの、しかし、私は――そんな……」

フョードルの言葉を手で制し、カルヴァンは腰を伸ばす。

「さて、私も忙しいので失礼しよう。任務、頑張りたまえ」

カルヴァンの軍靴の音が遠ざかっていく。
柚はすぐさまフョードルに振り返り、詰め寄った。

「何言われた!」
「え、あ、いえ……なんでも」
「何でもなわけないだろ、嫌なこと言われたのか?」
「そういうわけでは……」
「本当に?」
「はい」

フョードルは頼りなく頷き、俯く。

柚は部屋の奥に居るガルーダとヨハネスへと視線を投げた。
ガルーダは椅子から立ち上がり、軽く肩を竦める。

「さてと、あのおっさんが来てるなら、玉裁が見付かる前に捕獲しとかないとな」
「え、なんで?」
「玉裁が何か突っ掛かって問題起こして、まーたお説教は勘弁だからね」

ガルーダがヨハネスに肩越しに振り返った。
ヨハネスは不本意そうに、「私だって、好きでお説教をしているわけではありません!」と返す。

ヨハネスの言葉を聞き流しながら、軽い足取りで部屋を出て行くガルーダを見やり、焔は「逃げたな」と小さく呟きを漏らした。
思い出したように、「まだ説教が終わってないのに!」と、ヨハネスが文句を言っている。

「あの、先程のカルヴァン佐官という方は……」
「アース・ピースの一般兵部隊を纏めている方です。と言っても、あんまり基地には顔を出しませんよ。実質はエマ・ダルトンという女性が指揮をしているようなものです」

ヨハネスは冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、コップに注いで水を差し出した。

「そうですか……」

フョードルは受け取りながら、再び俯く。
柚は不安そうに、カルヴァンが向ったマルタの執務室へと視線を向けた。





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