22


玉裁は意外そうな面持ちを装い、柚の背に問い掛ける。

「なんだよ、俺の体の心配でもしてくれるわけ?思いっきり人の顔ぶん殴ってくれといて」
「心配はする。怒りもする。何かあったなら話も聞くし、力にはなれないかもしれないけど相談にも乗る」

柚は淡々と告げた。
一度も振り返らない柚が、まだ先程のことを引き摺っていることは明白だ。

柚の隣に寝そべる犬が、無気力に尻尾を揺らしていた。

人を怒らせることなど慣れている。
嫌われることにもだ。

どんなに罵られようと、次に顔を合わせたとき、自分は全く気にしていない様を装う事が出来る。
例え、腹の中で何をどう思っていようともだ。

柚を怒らせるなど日常茶飯事――あえて怒らせる事も、しばしば。
そんな自分が、柚を本気で怒らせた如きのことで、平静を装えずにいることに戸惑う。

鶴を折る柚は手を止め、ゆっくりと顔をあげた。
その視線は玉裁に振り返ることなく、天井に光る太陽のような照明を見上げて止まる。

「って言っても、玉裁は話さないだろうし、私が話す」
「……は?」
「適当に相槌打て」

玉裁はふてぶてしい態度の柚を見下ろし、複雑な気分で口を尖らせた。

柚が何を考えているのかは分からないが、どうも落ち込んでいるらしい。
もしや自分と揉めたせいだろうかと考えると、何故か落ち着かない。

鶴を折っていた筈の柚の手の中には、いつの間にか紙飛行機が完成している。

玉裁は溜め息を漏らし、廊下を乗り越えると柚の隣に寝転んだ。
それは、無言ながらも話せという合図だ。

柚は暫らく膝を抱えて黙り込んでいたが、ゆっくりと長い睫毛が揺れ、小さく唇が開かれた。

「玉裁はさ、親に会いたいって思わないのか?」
「はぁ?いきなり何うぜぇこと言ってんだよ。ホームシックか?」
「いつだってホームシックだ」

柚は不貞腐れたように口を尖らせて返す。

「夕飯食べた後に、フョードルのお見舞いに行ってきたんだ。寝てたけど、やっぱり魘されてた」
「そりゃ使徒だ。身内が死ねばそうなるのは仕方ねぇだろ」
「うん。フョードルには重ね重ね悪いけど、ふとパパとママの無事な顔が見たくなった。玉裁は?そういうことないのか?」

自分のせいで落ち込んでいるわけではないらしい。
ほっとする反面、少しだけ肩透かしを食った気分になった。

玉裁は溜め息を漏らし、体を起こすとポケットをあさり始める。

ポケットからつぶれた煙草の箱を取り出し、中を覗いて「こんだけかよ」と吐き捨てる玉裁の耳元で、重そうなピアスが揺れた。
横顔を見詰めていると、玉裁はなんということもないかのようにぽつりと口を開く。

「別に。俺、親の顔もしらねぇし」
「え?顔、知らないのか?」

柚が目を見開き、玉裁の顔を見た。
迷惑そうに玉裁が眉を顰める。

「スラムってのは無法地帯だ。ガキなんざ、産んで捨てに来るにはもってこいの場所だぜ」
「そんな……」
「それか娼婦やってる女が産み落としたか、どっちかだな。俺の場合はどっちかってぇと、そっちっぽいけどな」

玉裁はくびれた煙草を取り出すと、火をつけ皮肉めいた笑みを浮かべた。

灰の奥底に行き渡るように吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
煙草の先端が、ジジジと音を立てて赤く染まった。

「今更会ったとしてもピンとこねぇし、恨み言もでねぇな」
「でも、肉親への情は使徒の本能だろ?こういうこと言うのは無責任だって分かってるけど……玉裁を生んだ人にだって、きっと何か手放さなきゃならない事情があったんじゃないのか?でなきゃ、二世じゃない玉裁が使徒の力を持っているわけがないし……」
「どんだけめでたい脳みそなんだ、てめぇは」

玉裁は呆れたように吐き捨てた。

「あのなぁ、スラムで使徒が発見されたってニュースが流れて、何百人って女が母親だって名乗り出てきやがったんだぜ?」
「な、何百人?」
「結局、DNA鑑定までやったらしいけど、全員陰性反応だったってよ。政府もバカだよな、野良犬に付ける鎖欲しさに金掛けて鑑定までして、挙句に全部はずれだぜ?政府もバカだけどよォ、大金が手に入るうめぇ話が転がってるってのに、俺を生んだ女も馬鹿だよな。俺を生んだことすら忘れちまったんじゃねぇの?」

「それとも……」と、玉裁は呟きを漏らす。

まるで、溜め息を漏らすように煙草の煙を吐き出した。
煙を吐き出す玉裁の横顔が、柚の瞳には何処か寂しげに映る。

煙が途絶えると、玉裁はゆっくりと呟いた。

「もうとっくに、何処かで野たれ死んだか――…」
「玉裁……」

小さな呟きが漏れる。
やはり、彼もまた使徒なのだと思った。

「会いたかったんだな……」

虚を衝かれたかのような面持ちで、玉裁が柚の顔を見る。
だいぶ短くなった煙草の先端から、灰が音もなく零れ落ちた。

「馬鹿じゃねぇの……くっだらねぇ」
「それ、癖だな」
「はァ?」
「嘘つく時やはぐらかす時に煙草吸うのも、玉裁の癖だ」

玉裁は思わず煙草に視線を向ける。
舌打ちを漏らし、玉裁はブーツの裏で吸い掛けの煙草を揉み消した。

「マジで、会いたいなんざ思ってねぇよ。俺を生んだ女に感謝するとしたら、俺を使徒に生んでくれた事くらいだ」

玉裁は肩を竦め、鼻で笑い飛ばす。

柚は玉裁の顔を見上げ、ゆっくりと抱えた膝に視線を落とした。
遠慮がちに、「もし、会えたとしたら?」と尋ねた柚に、玉裁は一瞥を向けて口角を吊り上げる。

「ぶっ殺してやりてぇよ」
「え……」

柚が驚いた面持ちで玉裁を見上げた。

「可愛さ余って憎さ百倍って言葉、知ってんだろ?」
「玉裁……」
「つーのは冗談だ。初めまして、はいさよなら。別に話すこともねぇし。言っただろ、実感ねぇし恨み言もでねぇって」

柚は玉裁の答えに納得がいかないのか、「ふーん」と相槌を返してくる。

なら、どんな答えならば彼女が納得しただろうと、玉裁はどうでもよい疑問を抱いた。
「会いたかった」と、感動の再会と抱擁でも交わせば満足するのだろうか?

スラムで人以下の生活を送っている者達がいる中、政府は戦争の算段ばかりで貧しい者達に救いを与えてはくれなかった。
そのくせ、利用できる新たな人類"使徒"ともなれば惜しまずに金を掛ける。
同じ人類よりも、自分達の脅威を飼い慣らして優越感に浸る腐った連中が、本当は憎くて仕方がない。

スラムの現状も知らず、自分達だけのうのうと生きている、恵まれた者達も……
本来なら野たれ死んでいるような弱い子供が、当然のようにチヤホヤと生かされているこの施設も……
それに甘えている子供達が何かを求める事までも、図々しく感じる。

不愉快の塊だ。
この不平等な世界を憎むことすらあれど、愛しいなどと思った事は一度もない。

何故、自分にこのような力があるのか……
いっそ皆と同じ、ただの人間であれば諦めもついただろうに。

無意識に、手が煙草に伸びていた。

嘘を付くことと、自分の腹の中の考えを覆い隠すことは一緒だ。
自分の牙を隠すとき、気が付くと煙草を吸っている。

煙草に火をつけると、肺をニコチンで満たし、やっと一息付く。

「分かったろ?お前等と俺は育ちも考えも違うんだよ。俺が此処にいるのは、あくまでも外より楽に生きて行けるからだ。分かったらあんまり話し掛けんな。次は女だろうが容赦しねぇで殴り返すからな」

玉裁は煙草の煙を靡かせながら、ゆっくりと立ち上がった。

何故だろう……
玉裁は一刻も早く、この場から立ち去りたい気分になっていた。

柚が溜め息を漏らし、立ちあがった玉裁の裾を掴んだ。

「玉裁が政府や私達を恨むのは仕方がないだろうけど、だからってあの子達は関係ないよ。もう少し優しくしてやっても罰は当たらないんじゃないのか?」

ゆっくりと、玉裁の瞳が見開かれる。
玉裁は納得した。

イカロスのように心を読む力はない――が、柚は目敏い。
イカロスはよほどでなければ口出しをしてこないが、柚は遠慮なしにずかずかと踏み込んでくる。

自分が密かに隠し続けてきた牙すら見付けだし、砕かれてしまいそうな気がした。

変わりたくない。
今のままでいい。

嫌われ者のならず者、そう思わせ、まんまと騙されている者達を心の中で笑っているのだ。
いつか盛大に牙を剥き、世界に復讐して死ぬのもいい。

この憎しみを忘れたら、自分が自分ではなくなってしまう気がする。

玉裁は口角を吊り上げた。

「優しく?出来るわけねぇだろ、俺は今まで一度だって、誰かに優しくされたことなんてねぇよ」

玉裁が柚の手を振り払う。
柚の手はあっさりと離れ、膝に顔を埋めた。

「確かに人ってさ、誰かに優しくしてもらったから、自分もそうしてあげようって思えるんだと思う」

柚は隣に大人しく伏せているルナの頭を撫でる。
穏やかに微笑み掛ける柚に応えるように、ルナはしっぽをぱたぱたと振った。

「でも逆もあるよ。自分が辛い思いをしたから、他の人が同じ思いをしているとき、助けてあげようって考えることも出来る」

暫し、呼吸を忘れ息を呑んだ。
その感覚を振り払うように歯を食いしばり、玉裁は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「出来るか、聖人君子じゃあるまいに」
「はは、そうだよな」

柚は困ったように苦笑を浮かべ、掌に鶴を乗せる。

「あげる」
「いらねぇよ、そんなもん」

玉裁は顔を顰めた。

あっさりと鶴を引っ込めた柚は口を尖らせる。
その代わり、今度は紙飛行機を閉ざされた空へと飛ばす。

紙飛行機は頼りなく飛び、ゆるゆると菜の花畑の中へと呑み込まれた。

玉裁は、「飛ばない」と不服そうに呟く柚の目の前に煙草を咥えたまま座り込む。
「なんだよ」と、警戒するように柚が吐き捨てる。

独特の髪色は目を引くし、容姿も悪くはない。
が、口は悪いし、色気にも欠ける。

「なんでデーヴァの野郎は、こんなガキ臭い女がいーんだか」

アスラの母親は、誰もが認める美女だ。
そんな母親を見慣れ、母親大好きであるアスラが、どうして柚を気に入るのか……玉裁には理解出来なかった。

「ガ、ガキ臭くて悪かったな」

むっとしつつも柚自身認めているのか、声は複雑そうだ。

「にしてもアイツ……絶対、アルテナのばばあみてぇな黒髪の巨乳好きだと思ってたのにな」
「ぅ……」

それも否定できない。
口篭る柚を一瞥し、玉裁は頭の後ろで腕を組む。

「今後に期待ってとこか?」
「がっかりした目を向けるな!?」

柚が玉裁に殴りかかると、玉裁は柚の拳を受け止めてにやりと笑う。
勢い余って玉裁の上に倒れこむと、僅かに煙草の臭いがした。

「放せ!」
「やだね」

玉裁は飄々とした口調で一蹴し、斜に構えた笑みを浮かべる。

もがく柚の視界がぐるりと反転し、一瞬視界に入った天井の照明を玉裁の体が遮った。





NEXT