20


寝付けず、気晴らしに訓練室に向った焔は、一人で訓練に励んでいるアンジェを見掛けて足を止めた。
珍しい光景だと思いながらも、その姿があまりにも真剣だった為、声を掛けずに訓練室を後にする。

(何処でやるかな……人が居ないところって言うと、エントランスの周りか?)

やはりアンジェに声を掛け、一緒に使わせてもらったほうがよかったかもしれない。
そう思い始めながらもエントランスの周りにある芝生に向った焔は、先客の姿を見付け、渡り廊下の途中で足を止める。

菜の花畑に溶け込むように、ニエが一人で座り込んでいた。

寂しそうな小さな背中を、菜の花達がすっぽりと包み込んでいる。
ひらひらと舞う蝶がニエの目の前を通り過ぎようと、ニエは興味などない。

いろいろなことが起り過ぎて、今はとても折る気になれない折り鶴を、ニエは今も一人で折り続けていた。
だが、ニエの隣にある鶴の数からは、あまり進んでいる様子もない。

ニエを眺めていた焔は、廊下の壁を乗り越える。
焔の軍靴が芝生を踏む音にニエははっと振り返り、期待していた人物でないことにいささかガッカリした面持ちになった。

「焔お兄ちゃん」
「もう一人はどうしたんだ」
「ウラノス?ウラノスなんて、僕知らない」
「……いつまでも意地張ってんなよ、寂しいくせに」

ポケットに手を突っ込んだまま、焔はニエの隣にしゃがみ込む。
ニエは一瞬俯き、焔を睨み返した。

「寂しくなんてないよ。ウラノスが悪いんだよ、僕は悪くないからね!」

柚は焔とニエの姿を見付け、声を掛けようとして思い留まる。
焔はニエを見下し、苦笑交じりの不器用な笑みを浮かべた。

「ばーか、喧嘩は一人じゃ出来ねぇんだよ」
「え?」
「だから、どっちにも原因があるもんだ」

焔の指がニエの額を軽く弾く。

ニエの瞳が零れんばかりに見開かれ、焔を映しだす。
その瞳に、じわりと涙が浮かび上がった。

「で、でも……いつも僕ばっかり怒られるんだ。お兄ちゃんなんだからウラノスの面倒見ろとか。好きで先に生まれたわけじゃないのに!」

ニエの大きな瞳から、ぼろぼろと涙が溢れ出す。

ハラハラと見守る柚を他所に、焔は落ち着いていた。
何も言わずニエの頭に手を置くと、隣に腰を下ろし、ニエが落ち着くときを待っている。

柚は壁に凭れ、聞こえてくる泣き声に背を向けて座りこんだ。
泣き声が聞こえなくなるまでの時間は、とても長く感じた。

短気な焔だが、こういう時はやけに我慢強い。
柚の方が、焦れるくらいだ。

(雫ちゃんにも、ああしてあげてたのかな。それとも……焔のお父さんやお母さんが、ああしてくれてたのかな)

柚は天井を見上げ、ぼんやりと目を細めた。

「今の内にいっぱい泣いとけ」

焔はニエの頭に手を乗せたまま、揺れる菜の花畑を見詰めて呟く。
ニエはしゃくりあげながら、ゆっくりと焔の顔を見上げた。

「大きくなっていくにつれて、男は簡単に泣けなくなるもんだ」
「……どうして?」
「なんでだろうな……いつの間にか背負うものが出来て、弱い自分を見せたくなくて、意地張って」

焔は自嘲染みた苦笑を浮かべる。

「いつまでもガキの頃の様に、泣きたい時に泣いて、思ってる言葉をそのまま伝えられたら……いいんだろうけどな」

ニエが焔の顔を見上げてきた。

どうも上手くはいかないものだ。

子供のように、思っている言葉をそのまま口にすれば、諍いを呼ぶ。
成長すれば取り繕ってばかり……肝心な本当の気持ちを素直に伝える方法すら、いつの間にか忘れてしまっている。

「泣くのは格好悪いとか、周りの目を気にしたり……」

真っ先にそんなことを考え、何も出来ない自分のほうがよほど格好悪い。
分っているのに、肝心なところで自分は酷く臆病だ。

「お前もウラノスも、そういう大人になるなよ」
「でも、ウラノスは大人になれるか分からないよ」

ニエは膝を抱え、呟いた。

「さっき、おじさん達が話してたんだ。あの子は駄目だろうって……」
「は?」
「僕知ってるよ、僕より少し前にいたお兄ちゃんは、不適正ってことで"処分"されちゃったんだ」
「お前――…」
「優しくしてくれるから、僕大好きだったんだ。でもいきなりいなくなっちゃったの。ジャン先生にお兄ちゃんは何処にいったの?って聞いたら、ママに会いに行ったんだって言ってた。でも、他のおじさん達が"処分した"って話ししてるの聞いちゃったもん」

ニエの瞳が影を落とす。
焔は眉を顰めた。

「おじさん達は、僕が子供だから何を話しても理解できないって思ってるんだ。処分っていうのが殺されることだって、僕はちゃんと分ってるのに……でも、これは秘密なんだ」

胸に不快なものが渦巻く。
焔は奥歯を噛み締めた。

するとニエに声を掛けられ、焔ははっと肩から力を抜く。

「お前は……ウラノスが殺されていいのか?」
「……だって、ウラノスは生意気だし、僕のほうがお兄ちゃんなのに全然"うやまわない"んだ。だから、別にいらない!」
「そういうこと、言うなよ。殺されるってことがどういうことか、お前、本当に分かってんのか?」

ニエがゆっくりと焔を見上げ、大きな瞳を瞬かせた。

「死ぬってことは、そいつに二度と会えないってことだ」
「焔お兄ちゃん、知らないの?死んだら生まれ変わるんだよ。その前に、幽霊になって会えるんだ」
「会えねぇよ……」

焔は膝の上に頬杖をつき、視線を遠くへと投げ渡す。

胸の内を、くすぐるように風が吹きぬけた。
いつからか、ぽっかりと開いたままの大きな穴だ。

「死んだら終わりだ、何もかも……消えてなくなる。幽霊とか、生まれ変わるなんてのは、残された奴の願望だ」

そう……
一度だって、父と母は自分の前に現れないのだから。

もし恨んでいるのだとしたら、それでも構わない。
憎しみの言葉でもぶつけにくればいい。

「残るのは、他人の記憶の中にだけだ……」

そしてそれすら、時間と共に薄れていく。
この世に生まれた命とは、儚いものだ。

彼等の命は、それ以上に儚い。

人間の都合で生み出され、体質の改善が見られなければ、世間に知られることなく処分される。
誰かの記憶に思い出として留まるでもなく、残るのはデータ上の簡素な記録でのみ。

「お前とウラノスは、どっちが強いんだ?」
「僕だよ!能力クラスだって僕の方が上だもん」

ニエが誇らしげに身を乗り出す。

「だったらウラノスを守ってやれ」
「どうして?僕の方がお兄ちゃんだから?」
「そうだ。それに、力があるのに自分しか守れないような奴を、強いなんて言えない」

焔は苦笑を浮かべ、そでで乱暴にニエの乾きかけた涙を拭った。

例えセラフィムの力を持たなくとも、資格がなかろうと……
自分はきっと、彼女や自分よりも幼い仲間達を守ろうとするだろう。

それだけは、染み付いた性分だ。
幼い頃、父に教えられた言葉を、自分はこの先も忘れはしない。

焔は手を伸ばし、ニエの頭をくしゃりと撫でた。
目を瞑ったニエは、おずおずと瞼を起こし、焔を上目に見上げてくる。

「じゃあ、焔お兄ちゃんは僕よりも強いから、僕を守ってくれる?」
「俺達は、その為に来たんだろう?」

焔は静かに深く、頷き返した。

「ウラノスと仲直りしてやれ」
「僕から謝るの?嫌だよ」
「謝るかどうかは別として、きっと寂しがってるぜ?」
「……そうかな?」
「いつも一緒にいるんだろ?寂しいに決まってる……」

曇りのない漆黒の瞳を細め、焔は小さく呟く。
そんな焔を見上げ、ニエは首を傾げた。

「お兄ちゃんは?お姉ちゃんと一緒じゃないの?」
「は?別にいつも一緒ってわけじゃ……」
「お兄ちゃんも、お姉ちゃんと一緒じゃなくて寂しい?」
「ばっ、誰が寂しいなんて思うか!俺は一人でせーせーしてんだ!」

声を荒げる焔に、ニエが首を竦める。

(焔の奴、何話してるんだ?全っ然、聞こえん)

物影から二人の会話に聞き耳を立てていた柚は、はっきりと聞こえてきた焔の動揺した声に眉を顰めた。
すっかり会話に加わるタイミングを逃してしまい、出て行くにも行き辛くなってしまっている。

「あ、もしかして、お兄ちゃんもお姉ちゃんと喧嘩したの?」
「してねぇよ」
「そういえば、お兄ちゃんとお姉ちゃんは恋人なの?」
「ち、違うに決まってんだろ!」
「なんで?」
「なっ、なんでって、そりゃ、その……べ、別にどうでもいいだろ!」

赤くなりながら上擦った声で返す焔に、ニエは妙に大人びた面持ちで「ふ〜ん」と呟いた。
ニエの態度に、焔の顔が引き攣る。

「お兄ちゃん、お姉ちゃんのこと好きなんだ」
「なっ!」

焔は赤くなりながら目を見開いた。





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