19


折角アスラから開放されているのに、冗談ではない。
……と、喉まで出掛けた言葉を飲み込む。

「う、うん」
「……返事がぎこちない気がするが?」
「ない、ぎこちなくありませんです。あ、でもほら、アスラ今何処にいるの?」
「本国に戻る途中だ。先に片付けなければならないことがある。すぐには向かえないが、こちらの到着までは支部の移送を見送る方針だ」
「アスラ、疲れてるだろ?別にアスラじゃなくてもいいんじゃないのか?ほら、誰か空いてる人に頼んだ方が効率もいいだろうし、アスラは少し休んだ方がいいぞ」
「問題ない」

仕事の話となると、切り替えが早い。
アスラは再び抑揚のない面持ちで説明を始めた。

「通信妨害とエデン、神森出現の報告も受けた。今はお前と双子を送った事を後悔している。エデンの件の報告が問題なく届いていれば、お前達三人をそちらに送ったりはしなかった」
「……だったらいいよ。フョードルと一緒に私も帰る」

柚はすねた口調で吐き捨てる。

三人ということは、その中に焔は入っていない。
面白くない、非常に不愉快だ。

そんな柚の心情などアスラが察するはずもなく、アスラはあっさりと「馬鹿を言うな」と一蹴した。

「フョードル・ベールイはセラフィムクラスだ、神森の回し物という可能性もある。イカロスと接触させて裏付けを取るまで油断は出来ない。増してや、お前とフョードルの護衛では、いくらガルーダとて手に余る」
「それはどういう意味だ」
「そのままの意味だ」

アスラの顔に、「お前はすぐに独断で暴走する」と書いてある。

威圧的な眼差しに蹴落とされ、柚は反論も出来ずに不貞腐れた。
このままでは悔しいので、柚は別のことに難癖を付ける。

「ふんっ。それよりフョードルに失礼だ。人を騙すようなタイプじゃない。それに、家族を亡くして傷付いてるのに、疑われてるなんて知ったらもっと傷付くだろ」
「……」
「真面目でいい奴だよ」

だからこそ、今後の彼を考えると不安なのだ。
どうか、復讐などに走らないで欲しい。

顔を曇らせる柚の言葉を遮るように、アスラが柚の名を呼んだ。

「フョードル・ベールイの話はいい。聞きたくない」
「な、なんだよ、仲間だろ」
「不愉快だ。お前は、フョードル・ベールイがセラフィムだという自覚があるのか?」

柚が眉を顰める。
心なしか不機嫌な面持ちのアスラが、モニターから顔を背けた。

「分かっていないならば自覚しろ。今頃上は騒いでいるだろうな。フョードル・ベールイは俺以上に、父親候補の素質があるということだ」
「……は?え、フョードルが?あっ、セラフィムで……歳が近いから?」

柚の顔が頼りなく曇る。
アスラはため息を漏らし、モニターに手を伸ばした。

今すぐにでも、柚の元に飛べたらどれほどいいか……。

だが、それは柚を慰めるためではない。
自分が安心したいだけなのだ。

モニターの前で俯く柚が、聞き逃してしまいそうな小さな声音で呟いた。

「また、そういう話になるのか……」
「俺は、お前を誰にも渡すつもりはない」

独り言のつもりで呟いた言葉に、迷いのないアスラの声が返る。
柚は思わずアスラの顔をみた。

本当に、誰になんと言われようと、アスラは身を引かないだろうか?
母であるアルテナ・モンローに言われても?
尊敬する黄大統領に言われても?

アスラとて、咄嗟に出た言葉だろう。
抗えないものがあることすら一時でも忘れ、アスラが心からそう思っている言葉だ。

元帥としてではなく、アスラとして……
そして、アスラ・デーヴァは嘘を付かない。

例えそれが叶わなくとも、その言葉に価値がある。

くすくすと笑みを浮かべる柚に、アスラは静かに声を掛けた。

「お前は、歳が近い方がいいのか?」
「んー……さあ、それはどうだろう?アスラだって、結構子供っぽい所あるしな。イカロス将官やガルーダ尉官とは全然違う」
「……心外だ」
「でも、アスラのそういうところ好き」

「多分」と、心の中で付け加える。

アスラの焼餅は、まるでおもちゃを取られて怒る子供のようだ。
融通も利かないし、こちらの事情などお構いなしに自分の気持ちを押し付けてくる。

だが、彼が自分に向けてくる感情は、彼が口にする言葉と同意だ。
だからこそ、その言葉が気恥ずかしくもあるのだが……

決して憎めない。

「俺はいつも不安だ。少し目を放せば、お前は違う者のところに行ってしまいそうだ」

アスラは呟くように、以前から思っていた不安を漏らした。

柚の心はまるで、一箇所に留まることを知らない水のようだ。
今は手の届くところにいる、だがいつ自分の手をすり抜けていくか……不安になる。

弱音を漏らすアスラに、柚はくすくすと笑みを浮かべた。

「アスラでも、不安なんて思うんだ?」

言葉とは裏腹に、柚はアスラの不安に驚きなどしてはいない。
当事者であるというのに、まるで関係のない恋愛の相談を受けているかのような反応だ。

柚はときどき、自分という存在を軽視しているように感じる。
本人に自覚などないのだろうが、誰か一人を愛することなどないかのようだ。

「学校の友達に、アスラを好きって子がいたよ。雑誌を買い集めて、アスラの特集とか切り抜いてファイル作って持ち歩いてた。前に、アスラの子供の頃の写真を見たって言っただろう?それって、その子に見せてもらったんだけど……とにかく、皆アスラのこと綺麗とか格好良いって言ってた」

自分の知らない柚の話は、あまり好きではない。

外の世界など、自分は知りもしないのだ。
ふと、柚の存在が遠く感じてしまう。

何より、懐かしそうな顔をしている時の柚は、自分以外の誰かを想っている。
知らないからこそ、柚の言う"友人"に嫉妬してしまう。

アスラは不機嫌を隠しもせずに、モニターの柚から顔を逸らした。

「それだけの人に好かれてるアスラが不安になるなんて、なんだか不思議だ」

柚にとっては、そんなアスラが自分を好きになったことが一番不思議だ。
正直、今でも実感が湧かない。

「大勢の人間に好かれるということは、お前に愛されるために必要なことか?」
「あ、ぃ……ぅ、いや、必要はないと、思うけど」
「ならば、俺には価値のないことだ」

赤くなっていく柚を見詰めながら、アスラは静かに告げ、目を細めた。

「俺が欲しいのはお前の愛だけだ。顔を逸らすな、お前は赤くなるとすぐに顔を隠そうとする」
「う、うるさい!アスラこそ、少しは恥らえっ!」

柚が怒鳴り返す。
アスラは小さく息を吐き、椅子の背凭れに凭れ掛かる。

「分った、努力しよう」

こいつ、絶対分かってないな……と、柚の心の中で吐き捨てた。

自分ばかりがどぎまぎさせられている。
いずれこのまま、流されるようにアスラのペースに巻き込まれてしまうのではないかと思う。

すると、アスラは真剣な眼差しで柚を見た。

「ところで聞いておきたのだが」
「ん?」
「フョードル・ベールイを愛していると感じたか?」

柚はモニターに頭をぶつけそうになる。
コンソールに勢い良く手を叩き付け、柚は声を荒げた。

「真剣な顔でくだらない質問をするな!」
「俺にとってはくだらなくない。どうなんだ」

柚は口を閉ざす。

表情に乏しいアスラは、顔を見ただけで考えを汲み取ることは難しい。
だが、彼もまた始めて人を愛し、人としての感情を理解し始めている。

つい、自分の考えでのみ物事を考えてしまいがちになるが、アスラの立場に立てばフョードルの出現は不安でしかないのだろう。

「フョードルは、全然そんなんじゃないよ。出来るだけ助けになりたいとは思うけど、それは恋愛感情とかそういうのとは違う、と思う」
「……俺のほうが好きか?」
「うっ……うん」

柚は顔を逸らし、躊躇いながら頷いた。

アスラは極端だ。
答えをそのまま真に受けるので、返答に困る。

フョードルはまだ、少し話をしただけだ。
同情はするが、いきなり恋愛感情など芽生えるはずがない。
ましてや今、フョードルに感じているのは、どちらかというと同情以上に罪悪感だ。

アスラは、柚の返事に「そうか」と呟いた。
安堵したその声に、柚は顔を上げて小さく笑みを浮かべる。

「うん。でも、深い意味はないからな」
「ならば、焔はどうだ?」
「……は?」

笑みを浮かべたまま、柚は引き攣った面持ちで訊ね返した。

「焔は好きか?愛しているか?」
「なっ、何言ってんだ、お前は!なんで焔が出て来るんだよ。焔は仲間だろ!もう、皆どうかしてるっ!」

赤くなった柚は椅子から立ち上がり、声高に叫ぶ。
じっと見詰めてくるアスラの視線に気付き、柚はごほんと咳払いをすると椅子に座り直した。

「と、とにかく……フョードルも焔もそんなんじゃない。フョードルにも、あんまり変な事言うなよ。相澤のときみたいな事したら怒るからな」
「……分かった」

本当に理解したのか、非常に不安になる。
柚はため息を漏らし、改めて椅子から立ち上がった。

「じゃあ、私戻るから」
「ああ、俺がそちらに行くまで大人しくしていろ」
「なるべく。アスラも、帰り気をつけて」
「ああ」

柚は気恥ずかしく思いながらも通信士に挨拶をして、通信室を後にする。
廊下を歩きながら、柚は溜め息を漏らした。

(アスラめ、変なこと言うな!変に意識しちゃったらどーするんだ)

ヨハネスといいアスラといい、何故わざわざそんなことを言うのか理解出来ない。

確かに焔は男で、自分は女だ。
だがそれ以前にライバルであり、仲間であり、友人だ。

男と女の友情が成立するかどうかなど今まで考えたこともなかったが、それは考えるまでもなく成立すると思っているからだ。

焔は他の誰よりも、自分と近い考えを持っていると思っている。
柚は今の関係に満足しているのだから、周囲にとやかく口を挟まれたくない。

(あ、でも……焔って、私のこと、どう思ってるんだ?)

柚は首を捻った。

恋愛感情は論外だ。
焔はいつも自分に――限ったことではないが、素っ気ない。

(まあ、嫌われてはないだろうけど)

足を進めながら、小さく唸り声をあげた。

もともと人付き合いをあまりしない焔が主に共に行動しているのは、柚とフランツだ。
といっても、フランツと柚が焔を強引に連れ回しているだけだが……。

(後は、ライアン?)

ライアンズ・ブリュールは、誰にでも声を掛ける。
口は悪いが、気さくで面倒見のいいお兄さん的存在だ。

(そういえば焔、ライアンと喋ってる時は笑ってるかも)

柚は、むすっとした面持ちでますます唸り声をあげた。

(私、鬱陶しいとか思われてる?)

なんだかんだと文句を言いつつ付き合ってくれる焔は、見掛けによらず面倒見がいい。
それについつい甘えてしまい、迷惑を掛けている自覚はあるのだが……。

(でも、嫌ならはっきり言うって言ってたし)

悩みながら歩いていた柚は、訓練室の前に差し掛かり、足を止めた。
訓練室の中を、小さな人影が過ぎる。

「アンジェ……?」

アンジェが一人、広い訓練室の中で自主トレーニングに励んでいた。

アンジェは能力クラスが低く、周囲にあまり期待されていないこともあり、訓練に意欲的ではない。
何より、アンジェは争いを厭う性格だ。

(珍しい。邪魔しちゃ悪いな)

柚は訓練室の前を通り過ぎた。

(まあ、悩んでも仕方ないかな。よし、焔に直接聞こう)

そう決意した柚は、はたりと足を止める。

焔は部屋に戻ったのだ。
フョードル保護の任務から戻り、夕食前に仮眠を取っているかもしれない。

(あれ、でも……焔の気配は部屋にないな。移動してる)

訓練室にアンジェの気配がある。
遊戯室には、ライラとウラノス、そしてジャンの気配だ、きっと鶴を折っているのだろう。
医務室の方角には、ヨハネスと不安定なフョードルの気配、そして、何処かへ移動しているのがガルーダ、部屋から動いていないのが玉裁だ。

(ん?焔が向ってる方にニエがいる)

ばたばたしていてつい忘れていたが、いまだニエとウラノスが喧嘩中だということを思い出す。

(ついでに、ニエを説得して仲直りさせなきゃ)

柚は、ニエの気配を感じるエントランスに向けて歩き出した。





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