18


医務室のソファーに腰を下ろす柚は、クッションを抱え込み、溜め息を漏らした。
ヨハネスが振り返り、心配そうに柚に声を掛ける。

「少し体を休めたほうがいいですよ?」
「……でも、そういう気分じゃない」

ヨハネスは、「ああ」と呟きを漏らした。

「現場の惨状は相当酷かったそうですね」
「あー、うん……」
「ああいうのを見るのは、初めてですか?」
「……うん」

俯くように、柚は頷き返す。
心得ているかのように、ヨハネスは小さく笑みを浮かべた。

「最初は、皆そうでしたよ」
「そうって?」
「まあ、人によってそれぞれですが、物が食べられなくなったり眠れなくなったり、ですかね」
「そっか……私だけじゃないのか」

クッションを抱き締める柚の手から、僅かに力が緩む。
ヨハネスは、錠剤を取り出して柚に差し出す。

「良かったら、お薬を出しますよ」
「え?いや、あ、うん……」
「無理にとは言わないので、眠れなかったら呑んでください」

受け取ることを渋る柚に告げると、柚はおずおずと手を差し出した。

「皆には、内緒にして?」
「安心してください、言いませんよ」

ヨハネスは苦笑を浮かべて背を向ける。

柚は皆と同じでいようと背伸びをしているが、その負担を受けるのは体だ。
医師として、些細な変化に気付き、手を差し伸べてあげられる立場でありたいと思っている。

「ヨハネス先生は、怪我してる人とかいっぱい診てるんだよね」
「そうですね。今でも酷い怪我を診た後は食事が喉を通らないことがありますよ」
「え、今でも?っていうか、ヨハネス先生ってどれ位ここにいるの?」

ヨハネスは「そうですね」と考え込んだ。

「私はそう古くありませんよ。そもそも、今の研究所生まれの皆さん以外、ほとんどがここ五年間の間に入ったメンバーですね」
「え、そうなの?」
「そうですよ、一番長いのはローウィー教官ですが、次にジャン、玉裁……それから、暫らくしてユリアだったと思うのですが」
「ユリアはそんな気がしてたけど、玉裁ってそんなに長いのか?信じられない、あんなんなのに?」
「あんなのでもです」

悪い冗談だとばかりに、柚が眉を顰める。
頭が痛いとばかりにこめかみを押さえ、ヨハネスは溜め息を漏らした。

「聞いた話では確か、玉裁は十三の時に保護されたんです」
「十三?玉裁って今、いくつ?」
「二十七ですね」
「あんなんなのに……」
「あんなのですけどね」

柚とヨハネスは、同時に溜め息を漏らす。

「なんでよりにもよって、協調性のない二人」
「その頃は、他にも大人がいたんですよ。皆さん、殉職されてしまいましたけど……当時のメンバーで残ったのは、ローウィー教官とジャンですね。玉裁は当時、別棟に隔離されてたと聞いています」
「え、なんで?」
「詳しくは知りませんが、療養していたとか。療養中、初等教育から一気に叩き込まれたそうですよ」
「うわっ、勉強する玉裁?想像つかない」

柚が苦笑を浮かべた。

ヨハネスも苦笑を浮かべながら、カルテを机の上で揃える。
書類を揃える音が、空調の音が包む医務室に響いた。

すると、フョードルのベッドから唸り声が聞こえてくる。
ヨハネスはベッドに歩み寄り、カーテンを捲った。

「起しちゃった?」
「いいえ、安定剤を打ったので今は寝ていますよ」
「……そっか」

柚は静かに頷く。

その時、廊下から呼び出しの放送が掛かった。
廊下に顔を出したヨハネスは、柚に振り返る。

「柚君、あなたに呼び出しです」
「え、私?何、なんかした?思い当たることがあり過ぎる」
「あなたは……お転婆も大概になさい」
「で、何処に行けばいいんだろう?」
「通信室だそうですよ」

柚は目を瞬かせた。

重い足取りで通信室に入ると、難しい面持ちでガルーダがモニターに向かい話し込んでいる。

少しだけ近寄りがたさを感じ、柚が遠慮がちに顔を出した。
するとガルーダは柚に顔を向け、モニターに映る通信相手へと短く別れを告げて椅子から退く。

「アスラのご指名」
「アスラ?」

柚達が支部の移転護衛任務に発つ前日、アスラは大統領の護衛でライアンズと共に海外に向っていた。

「じゃあ、俺は行くから」
「え、えー……」

すっかりいつも通りのガルーダは、柚を抱えあげてモニターの前の椅子に座らせると、通信士に「後はよろしく」と言い残して部屋を出て行く。
ぽつんと取り残された柚は、薄情に閉まるドアに顔を引き攣らせた。

横目で盗み見ると、モニターにはいつもと変わらない抑揚のない面持ちのアスラがいる。
怒っているのかどうかも分らない、感情の乏しい顔だ。

整った顔立ちを飾る、光に溶け込むような色素の薄い金の髪。
透き通った水色の瞳は、光に翳したビー玉のように美しい。

が……問題はそこではないのだ。

柚は、生まれて初めて受けているアスラの率直過ぎる愛情表現に辟易としていた。
人に好かれて嬉しくないわけではない――のだが、いかんせん慣れていない為、どう返していいのか分からない。

相手が真剣なだけに、早く答えを出さなければと焦る一方、あまりアスラと二人きりになりたくないというのが本音だ。
逃げ腰になっている自分をなんとかしたいが、反射的にそういった態度になってしまう。

いつまでもドアの方を向いている柚の名を、アスラが呼んだ。
思わずびくりと肩が跳ねる。

フョードルの件で説教を受けるのかもしれない。
より一層憂鬱さを増しながら、柚はモニターに振り返った。

「報告は受けた」
「あ、うん……」
「フョードル・ベールイの保護はご苦労だった。良くやった」
「え?」

柚は驚いた面持ちで、俯きかけた顔をあげる。
驚いた面持ちでアスラを見る柚に、アスラが僅かに眉を顰めた。

「どうした?」
「う、ううん。怒られるのかと思ってたから」

任務でアスラに誉められるのは初めてかもしれない。

柚の反応に、今度はアスラが暫しの間考え込む。
そして、眉間に皺を寄せて柚を見た。

「……また何かやったのか?」
「またって言うな!でも、ガルーダ尉官がいないのに焔と二人で行っちゃったし、フョードルに怪我させちゃったし、神森も逃がしちゃったし……」
「ガルーダは別の任務で支部を発っていた。その場合、マクレイン支部長の命令に従うのは当然の事だ。フョードル・ベールイの怪我に関しては正当防衛だろう。神森を逃がしたことはガルーダの判断であり、あの場合、フョードル・ベールイとお前の安全確保が最優先だった。あの判断は妥当だろう」

アスラは、「だが」と付け加える。

「報告を聞いて驚いた。お前が無事で何よりだ、あまり俺を不安にさせるな」

柚の頬が真っ赤に染まり、顔を隠すように深く俯く。

すると、モニター越しに小さく笑うアスラの声が届いた。

最近のアスラは非常にたちが悪い。
赤くなる柚を見て笑うのだ。

柚はモニターの中で薄く笑みを浮かべているアスラを睨み返す。

「ひ、人で遊ぶな!」
「遊んでなどいない。ただ、お前の恥らう顔を見るのは好きだ。愛しいと思う」
「ア、アァ、アスラ!!」

モニターに向って怒鳴りつけた柚は、通信士の存在を思い出し、はっと振り返る。
赤くなりながらぽかんとした面持ちで二人の会話を聞いていた通信士は、柚と目が会った瞬間、慌てて顔を逸らした。

「意地悪!お前なんて嫌いだー!」

赤くなって騒ぐ柚の反応などもはや慣れたもので、アスラはあっさりと柚の言葉を聞き流す。

「まあいい。焔にも、よくやったと伝えておけ」
「う、うん。あ、でもやっぱりアスラから伝えた方がいいと思うな。その方が、焔も嬉しいと思う」
「……そうか」

どうでもよさそうな返事が返ってくる。
アスラは、基本的に他人に無関心だ。

案の定、「それより」と、アスラは続けた。

「怪我をしたと聞いた。もういいのか?」
「私は自己治癒があるし、もうなんともない」
「あまり自己治癒を過信するな、エデンが開発した銃を見たのだろう?」
「うん……そうだな。まあ、今回は大丈夫だった。それよりフョードルは肩の骨に皹が入ってて、フョードルの方が重症なんだけど」
「ヨハネスがいる、そう問題ないだろう」

アスラは抑揚のない口調で返し、書類に視線を落とす。

「フョードル・ベールイの件だが、明日の夜、ガルーダに護衛を任せて基地に移送する事にした」
「え、ガルーダ尉官戻っちゃうの?じゃあ、玉裁と私達だけ?」
「いや、そんな無謀な真似はしない」

容赦のないアスラの言葉に柚の顔が固まる。

確かに、柚と焔は半人前で、初任務のアンジェとライラ、そして戦力外のヨハネス。
まともな戦力が玉裁一人では無謀だが、人の口からはっきりそう言われるといじけたくなる。

「安心しろ。ガルーダに入れ替わり、俺と他三名がそちらに向かう」
「え゛……」
「すでに四日会っていない、明日で五日目だ。予定では最低でも七日間会えない筈だったが、早い再会になるな、嬉しいか?」

柚は引き攣った微笑みのまま固まった。





NEXT