17


部屋に戻る途中、柚は焔を引き摺って立ち寄った医務室の前で足を止めた。

「行くなら一人で行けよ」
「えー、ケチ、ドケチ!別に用はないんだけど、気になるし」
「別に、どうせこれから嫌って程、毎日顔を合わせるんだろーが」
「嫌って程ってなんだ、失礼な。私のこともそー思ってるのか?そーなんだな!そう言われるともっと構いたくなるな」

柚の腕を振り解いて部屋に戻ろうとする焔に、柚が体重を掛けて足止めする。
医務室を留守にしていたヨハネスは、そんな二人に気付いて目を瞬かせた。

「おや、お二人ともフョードル君のお見舞いですか?」

ヨハネスは、ガラス越しに水色のカーテンに遮られたベッドを一瞥する。
湯気のたったコーヒーカップを手にしたヨハネスは、窓枠にカップを置き、「折角ですが、今眠っているんですよ」と穏やかに告げた。

柚は、慌てて首を横に振る。

「いや、別にお見舞いってほどじゃあ……通り掛っただけっていうか、ちょっと気になるっていうか」
「おや、意外ですね」
「何が?」

ガラスの壁に凭れてコーヒーを啜るヨハネスに、柚は目を瞬かせた。

ヨハネスと話をしながらも、柚が焔を開放する気配はない。
会話に加わる気もなく、焔は溜め息を漏らし、その場にしゃがみ込んだ。

「あなたでも、人見知りをするんですね」
「人見知りって……そりゃあするよ。でも今回は人見知りじゃなくて、なんていうか……罪悪感、みたいな?」
「あれはガルーダ尉官が逃がしたようなものでしょう。第一、こういってはなんですが――」

コーヒーの湯気で曇りかけている眼鏡を押し上げ、ヨハネスは確かめるように壁越しにベッドを見やった。
ベッドに起き上がっている人影はない。

「尉官方には今の所、本気で神森を捕える気はありませんよ」
「……だろうな」

柚は溜め息を漏らし、焔から手を放し、そのまま大きく背伸びをした。

現在、世界中で神森等がテロ行為を行なっている為、各国は戦争を見送り、冷戦状態にあるのだ。
国内でのテロ行為が止めば、再び武力による世界大戦が起こるだろう。

政府やアスラがどう考えているかは知らないが、少なからずイカロスはテロを利用して、出来る限り戦争を遠ざけようとしている。
イカロスとは兄弟のように親密な関係にあるガルーダの考えは、イカロスと同じだと考えるべきだ。

「そういう考えを知ってるからこそ、フョードルにはますます申し訳ない」
「どちらにせよ、あなたが責任を感じるべきところではありませんよ」

ヨハネスは苦笑を浮べた。
そして、心配そうな眼差しをゆっくりと医務室の中に投げる。

「フョードル君とは、まだ少し話をしただけですが、とても真面目ないい子ですね」
「そうみたいだな」
「良くも悪くも、真面目すぎて融通が効かない。私からすれば、それはとても危うく感じます。これは私の身勝手な願いですが、まだ十五歳の少年が復讐に身を費やす姿は見たくありません」

柚は、軍靴の爪先に視線を落とした。

「でも、同じ使徒だから……。想像でしかないけど、気持ちはよく分かる」
「そうですね。もし、大切な人が殺されたら……私だって、どうするか分かりません」

柚は思わず苦笑を浮かべる。

ヨハネスは純粋で優しい。
時にその純粋さゆえ、大人の社会に押し潰されそうになりながらも仲間を守ろうとしている。

そんなヨハネスが、仇を討つ為に人を殺す姿など考えられない。

「私達使徒に彼を止められる理由がない。ですが、あの子は気丈ですよ。本当は泣き叫んだり、今すぐにでも飛び出して行って犯人を殺してやりたいでしょうに」
「うん……私も、多分そうだ」

呟くように、柚は頷く。

焔は視線を落とした。
人間だって同じだろう――だが、使徒は感情を越えた本能で肉親を愛している。

するとヨハネスは、「多分じゃないでしょう」と苦笑を浮かべた。

「家族を人質にとられた時、命令違反をして勝手に飛び出していった柚君と焔君ですからね」
「う゛、ぅ、うん……そ、そんなことも、あった、かな」
「フョードル君のほうが、ずっと大人ですね」
「ヨハネス先生の意地悪ー」
「おや、そうですか?」

ヨハネスは、柚の糾弾など痛くも痒くもないと言いたげに、朗らかに笑い飛ばす。

釣られるように苦笑を浮かべた柚は、何かを思い付いたように眉を顰めた。
そんな柚を、焔は横目で見上げる。

「でも……なんだか、そう考えると納得がいかない」
「?」
「神森は、どうしてフョードルの家族を殺したんだろう?」
「それは腹いせで――あ、そうですよね。そうすれば、彼が仲間になる可能性は完全に断たれますね」
「ティアスとかいう奴は感情で行動しそうな奴だったけど、サマーニャって奴の方はそこまで浅はかでも好戦的でもなかったと思う」
「確かに、サマーニャとかいう奴が、ティアスの虐殺を止めたとは思えなかったな」

考え込み、焔が柚の言葉に同意した。

「焔の時もそうだったけど、アダムは焔を攫いに来た様子じゃなかった。今回サマーニャは、確かにフョードルを渡せとは言ってきたけど、そこまで執着している様子もなかった。……これはあくまでも推測なんだけど、もしかしてあの二人は最初から、フョードル、もしくは村の人達を殺しにきたんじゃないかって」
「ですが、それに何の意味が?戦力が欲しいのは神森だって同じはずです。フョードル君は私達と接触する前だったわけですし、私が神森だったら、家族を人質にとるなりしてフョードル君を味方に付けます。確かに柚君の言う通り、神森の行動には矛盾がありますが、お互いに貴重である使徒をわざわざ殺す意味が分かりません」
「そこなんだよな……考え過ぎなのかな?」

考え込む柚の隣で、ヨハネスも首を捻る。
焔は眉間に皺を刻んだ。

「アイツ等の考えなんて知るかよ、胸糞悪ィ」
「焔はアダムが嫌いだな。アスラとアダム、どっちが嫌いなんだ?」
「どっちも嫌いに決まってんだろ。それよりお前まさか、あいつまで話し合えばなんとかなるとか思ってないだろうな」

焔が柚を睨み付ける。
柚が心外そうに腰に手を当てた。

「私は別に、平和主義でも博愛主義でもないぞ」
「……」
「なんでも話し合いで解決するとはさすがに思ってない。ただ、人それぞれに考えがあるんだから、ちゃんと話しを聞いてみれば解決することだってあるだろう。話し合いで解決出来ることならその方がいいって思ってるだけだ」

肩を竦め、柚は溜め息を漏らす。

気鬱そうな眼差しが、ガラス張りの壁を見詰める。
そこには自分達の姿が、まるで別次元にあるかのように薄く写し出されていた。

「でも……」

柚の睫毛が影を落とす。

「考えれば考えるほど、いずれ神森とは本格的に戦わなきゃならなくなるのかなって思う」

「少なからず」と呟き、柚は自分が凭れる医務室の壁へと振り返るように視線を向けた。
いまだ、水色のカーテンに守られるように、フョードルが眠っている。

「フョードルは戦うことを望んでいる」
「そうですね……」

ヨハネスはカップに視線を落とし、気を取り直すように静かに溜め息を漏らした。

「そういえば、焔君の怪我をまだ診ていませんでしたね」
「あー……いや、掠っただけだ」
「駄目です!あなたはすぐそうやって放っておくんですから!ほら、脱いで」

ヨハネスが焔の軍服を毟り取る。

傷を診たヨハネスは、焔の言葉通り浅い傷にほっと安堵の溜め息を漏らした。
治癒と言っても、自身の肉体が持つ再生力を活性化させるだけで、決して万能でない。

治癒が遅れるだけ回復が難しくなり、傷が深ければ再生が間に合わない事もある。
ましてや、病に関しては治癒の効果も半減する。

傷に掌を翳すと、オーラのようなものがヨハネスの掌を伝い、焔の腕の傷を癒した。

「柚君の傷は大丈夫なんですか?」
「あ、うん。もう跡形もない。見る?」
「脱ぐな、馬鹿!」

軍服のホックを外す柚に、赤くなった焔が目を吊り上げて怒鳴り返す。
ヨハネスは額に手を当て、長々と溜め息を漏らした。

「ねえ、ヨハネス先生」
「なんです?」
「私やアスラの自己治癒は、ヨハネス先生の様に人を治すことって出来ないの?」
「ああ、無理でしょうね」

焔の傷を跡形もなく消すと、ヨハネスは苦笑を浮かべる。

「そもそも、根本的なものが違うんです。自己治癒は本人の意思に関係なく作用していますが、私の治癒は水や炎と同じく、自らの意思で操るものですから」
「そっか……これも自分の意思で出来れば便利なんだけどな。戦闘中だと水を操ろうとしても、治癒の方に力が吸い取られて調子が狂う」
「そういうもんなのか?」

興味をそそられたのか、焔が柚を見上げた。
柚は溜め息と共に頷く。

ヨハネスは焔に軍服を渡しながら、眼鏡を押し上げた。

「私にはその感覚が分かりませんが、力の消費も激しいでしょうね」
「ってことは、イカロスは常に力を使いっぱなしな状態ってことか」

考え込むように焔が呟く。

ヨハネスは心底心配した面持ちで、頷いて返した。
いつの間にか、ヨハネスが手にしているコーヒーからはすっかり湯気が消えている。

「人の感情が勝手に流れ込んでくるだけでも精神的な負担は大きいでしょうに。イカロス将官の負担は心身ともに相当ですよ。戦闘になって土の力も使えば、その分負担も倍増します。ですから、お二人ともあまり迷惑を掛けないようにしてくださいね」
「はーい」

柚は元気良く手をあげ、壁から背を離した。

ヨハネスは満足そうに頷き、夕飯の前に体を休めるように告げて、医務室のドアに手を掛ける。
すると、中からぬっと犬のルナが滑り出してきた。

「うわぁああ!」
「な、何!?」

ヨハネスの悲鳴に、柚と焔がびくりと飛び上がる。
頭からコーヒーをかぶったヨハネスは、青褪めてルナを指差した。

「な、なな、なんで中に犬がいるんですか!びっくりするじゃありませんか!まさか、フョードル君に何かしてないでしょ――ひっ!こ、こっちに来ないで下さい!」
「ルナ、こっちにおいで」

逃げ腰にヨハネスの周りをぐるぐると回り、低く唸り声をあげているルナを、柚は半眼で呼び寄せる。
ルナはすぐさまヨハネスに背を向け、しっぽを振りながら柚の足元に擦り寄った。

そんなルナを見て、「こいつ、本当にメスか?」と、焔が呟きを漏らす。

ヨハネスはその隙に医務室に飛び込みドアを閉めると、「入らないように言い聞かせておいてください!」と中から念を押した。

「ルナ?悪戯とか何もしてないだろう?」

ルナの頭を撫でる柚に、ルナは一声吠えて返す。
その声に驚いたのか、中でヨハネスが何かを落とす音が聞こえてくる。

「面白いのは分るけど、あんまりヨハネス先生を虐めちゃだめだぞ」

廊下にしゃがんでいる焔の目の前で、ぱたぱたと振られるしっぽ。
その動きをぼんやりと見ていた焔は、廊下の角を曲がっていくニエの姿を見付けた。

(まだ、喧嘩してんのか。ったく)

呆れた面持ちで軽く頬を掻き、焔は溜め息を漏らす。
ポケットへと手を突っ込み、焔はゆっくりと立ち上がった。

(それにしてもこいつは……)

焔は、ルナと戯れている柚を見下す。

(歳の近い新しいセラフィムが現れたって事が、自分にとってどういうことか……)

分っているのだろうか?
見る限り、全く分かっていない。

焔は、ガラスの壁にこめかみを押し当てた。

冷たさに頭が冷えていくようだ。
同時に心が沈んでいく。

(また、遠退いた)

瞬きに閉ざした瞼を開けるのが憂鬱だ。

「焔?」
「あ?」
「どうした、具合悪いのか?」
「なんでもねぇ」

焔は踵を返し、一人歩き出した。

柚は、そんな自分を呼び止めもしない。

そんなことを考える自分は、呼び止めて欲しかったのだろうか……?
あまりにも自分らしくない考えに、何を考えているんだと、心の中で吐き捨てた。

(構われると鬱陶しいと思うのに……)

部屋に戻るなり、ベッドに倒れ込む。
軋むスプリングの音を聞きながら、焔は天井を見上げ、溜め息と共に瞼を閉ざした。





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