15


「はぁ……」

エントランスにある医務室の中で膝を抱えた柚は、長い溜め息を漏らした。
外出後の簡易検査は面倒だ……が、もちろん、柚は簡易検査が憂鬱で溜め息を漏らしているわけではない。

そんな柚を、焔は鬱陶しいと言いたげに横目で見やる。

腕から注射器の針が抜かれ、焔は捲り上げていたそでを下ろして上着を掴んだ。
羽織ろうとして、まだ腕や足の怪我が治癒されていないことを思い出した。

ヨハネスに治して貰うにしても、ヨハネスは今、別の所に掛かりきりだ。

大した怪我ではないので放っておこうかとも思ったが、放っておいたことが見付かるとヨハネスに煩く言われる。
どちらにせよ怪我をすると怒られるので、焔にとってはいい事がない。

検査の結果を待つ間、柚は簡易ベッドの上で膝を抱え、再び何度目かの溜め息を漏らした。

「嫌われた、第一印象最悪だ。誤解解いたって避けられる。しかも取り逃がすなんてー、あー、会わせる顔がないー」
「まぁ……インパクトはあったろ。見事な一本背負いだったから案外記憶が飛んでるかもな」
「それは嫌味か?フォローか?」

柚が焔を睨みつける。

すると、柚の専属医師を努めているマリアが、朗らかに「なんとかなるわよ」と微笑んだ。
マリアは出たばかりの柚の検査結果を見やり、満足したように頷く。

「異常なしね、あなた達はもう戻っていいわ。部屋に着替えを手配しておいたから、シャワー浴びてきなさい」
「え、でも……」
「あの子が目を覚ましたら呼ぶように伝えておくから」

マリアが柚を促した。

柚は焔と別れて部屋に戻ると、鏡の前で足を止める。

軍服にぽっかりと穴が開き、血に濡れていた。
使徒の少年にやられた傷は見事なまでに、跡形もなく消え去っている。

脱いだ軍服に開いた穴に指を通してみた柚は、溜め息を漏らして軍服を脱ぎ捨てると、シャワールームに入りコックを捻った。

(ティアスとサマーニャか。随分あっさり退いたな)

温めのお湯が降り注ぐ。
少し肌寒くなり、温度を上げてシャワーを浴びながら、柚は降り注ぐお湯を見上げた。

白い湯気が狭いシャワールームを満たしていく。
すると、つい先程の戦闘を思い出し、柚は俯いた。

崩壊した村の救助を進めているキース達からは、掘り起こされた遺体にあった傷と神森を名乗った二人の能力痕が一致したという。
現在も崩壊した村を掘り起こし、生存者の救出が進められているが、村の惨状からして生存者は絶望的だ。

(あの子……)

自分達を仇だと勘違いし、襲い掛かってきた少年を思い出す。

彼も、今まで共に生活してきた家族や村人達の壮絶な死に様を見たのだろうか。
だとしたら、彼は目を覚まさない方が幸せかもしれない。

村の惨状を思い出しただけでも吐き気が込み上げる。
とうに消えたはずの死臭が纏わり付いているようで、柚はスポンジにボディーソープをたっぷりと付けて泡立てた。

(夢でみたハーデスのよりも酷い。ごはん、食べたら吐きそう……でも、食べないと心配されちゃうだろうしな)

気付くと、肌が赤くなるほどにスポンジで擦っていたようだ。
柚は壁に額を押し当て、溜め息を漏らした。

(……焔は、もっと平気な顔してたのに)

胃から不快なものが込み上げてくる。
口内に苦い胃液が込み上げ、柚は排水溝の前に蹲ってえずいた。

(大体、あの子にとっては大切な人達なのに……その人達の死に顔を、気持ち悪いとか怖いなんて――…失礼にも程がある)

生理的に込み上げた涙が、シャワーのお湯に流されていく。

(その上、神森の奴等まで逃がして……何やってるんだ、私は)

口元を拭い、降り注ぐシャワーの中、柚はぎりりと奥歯を噛み締めた。

着替えを終えて髪の水気を拭っていると、部屋の外でインターフォンが鳴る。
柚は慌ててドアを開けた。

嬉しそうなアンジェが、身を乗り出す。

「柚お姉ちゃん、新しいお兄ちゃんが目を覚ましたって」
「わ、分った」

柚は緊張に固唾を呑んだ。

足取りの遅い柚を、アンジェが早くと手を引いて歩いた。
鼻歌でも聞こえてきそうなアンジェの様子を見ると、少しだけ重い気分が晴れていくような気になる。

ライラと焔の興味は薄いが、この支部の研究員達の関心は厚い。
廊下で研究員に何度か追い抜かされ、足を進めるごとにざわめきが近付いてきた。

エントランスにある簡素な医務室とは別に、奥には第一から第三医務室まである。

第二医務室の前には、ものめずらしさに集まった野次馬の研究員達が群がっていた。
お陰で、折角ガラス張りになっている壁から、中の様子は全く伺えない。

そんな中、一人廊下の壁に凭れるように大人たちの様子を見ているニエを見付け、柚は思わず顔を曇らせた。

何処か寂しそうにしているニエになど、誰も目を向けていない。
子供以上に、新しいモノの夢中になっている大人達の姿は、柚にため息をつかせた。

柚はニエに歩み寄り、膝を折って目の前にしゃがみ込んだ。

「ニエ、一人なのか?ウラノスは?」
「知らない」

ニエはふいっとそっぽを向き、走り去ってしまう。
呼び止めようと出し掛けた手を止め、柚は今日何度目か分からない溜め息を漏らした。

「あいつ等、喧嘩か?」
「うん、昨日ちょっとね。二人が喧嘩しちゃって、ニエの方がお兄ちゃんなんだからって言ったらますます怒っちゃったんだ……」

興味薄に訊ねた焔に、柚は小さく頷く。
焔は走り去ったニエを見やり、「ふーん」と呟きを漏らした。

「アンジェとライラは喧嘩とかしないのか?仲直りさせたいんだけど、どうしていいのかさっぱり分からないんだ」
「僕達?」

アンジェがライラの顔を見やり、首を捻る。
ライラは不機嫌そうにふいっと顔を逸らした。

「僕がライラを怒らせちゃうことはしょっちゅうだけど、あんまり喧嘩みたいにはならないよね」
「アンジェがなんでもすぐに謝るからだろ」
「だって、僕が悪いし。それに、ライラと喧嘩なんてしたら悲しいもん」

「それから」と、アンジェは苦笑を浮かべる。

「僕のほうがお兄ちゃんだもん」
「なんだよそれ、それじゃ俺が意地張ってるみたいじゃないか!」
「ち、違うよ!そういう意味じゃないよ?ごめんねライラ、怒らないで」
「またすぐ謝る!」
「わー、分った、分ったから!二人とももういいよ!」

柚が慌ててアンジェとライラを引き剥がした。
すると、医務室のドアが中から開けられ、不機嫌な面持ちの玉裁が顔を出す。

「退け」

玉裁は、ドアを塞ぐ研究員を押しのけ、柚達に早く入るようにと顎で促した。
四人の到着に気付いたヨハネスが、柚達に安堵した面持ちを向ける。

「彼が目を覚ましたんです」
「うっ……」

ベッドを遮る水色のカーテンに、ベッドの上で上体を起こして座る人影があった。
柚は、ばつが悪そうに首を竦める。

能力測定の検査機前では、研究員の後ろで興奮しているマルタがいた。

ヨハネスは眼鏡を押し上げ、淡々とカルテに書かれた情報を読み上げる。

「彼の名前はフョードル・ベールイ、十五歳です。いまどき珍しく、純粋なスラブ民族の血を引いていますね。この地帯は雪が深いですし、郊外でひっそり暮らす村が多く、外界との交流も必要最低限に留めているので、本来の人種や過去の文化などが残っている事が多いんです」
「ほ、ほう……」
「それはともかく、彼、上級クラスですよ」
「え?」

柚と焔のみならず、アンジェとライラが目を見開いた。
道理でマルタが興奮しているわけだと、柚は納得する。

政府は、能力を上・中・下の三クラスに分類した上、さらにその中で三段階に分けている。
上級クラスの能力者はきわめて稀で、アジア帝國では現在、第三階級スローンズが柚とイカロス、第二階級ケルビムが焔とガルーダ、そして第一階級セラフィムがアスラ・デーヴァただ一人だ。

「凄い、凄いわ!女の使徒が見付かって、その上、あたしの管轄地でセラフィムが見付かるなんて!」

マルタが興奮して叫んだ言葉に、玉裁は眉間に皺を刻む。
柚は思わずマルタに振り返った。

「アジアで二人目のセラフィムよ!信じられない!」
「セラフィム……?」

唖然とした面持ちで、焔が小さく呟きを漏らす。
その手に、僅かに力が篭った。

「マルタ」

カーテンから顔を出したジャンが、「しっ」と指を立てる。
はっとしたように、マルタが手で赤い口紅の塗られた唇を塞ぐ様は、まるで少女のようだ。

柚がちらりとベッドを盗み見ると、カーテンの隙間から、腕を組んで少年と何か言葉を交わしているガルーダの姿が見てとれた。

ジャンが車椅子の向きを変え、立ち尽くす柚と焔に振り返る。

「皆、そんなところに立っていないでおいで?同じ使徒だ、自己紹介を」
「ぁ……う、うん」

村の人々を殺されただけでもショックは大きいはずだ。
見知らぬ場所で目覚めた彼はどんな気分だろう?
しかも、彼に事情も説明出来ぬまま気絶させてしまった上、犯人を目の前にして取り逃がしてしまった。

考えれば考えるほど会わせる顔がなく、柚が躊躇いを見せる。
すると、小さな聞き慣れない声音が、自分の名を呟くように口にした。

中からそっと伸びた指が、躊躇うようにカーテンに触れる。
水色のカーテンが微かに揺れ、カーテンの隙間から遠慮がちに、黒に近い紫の瞳が姿を現した。





NEXT